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6話1

 軌道の頂点を見極めて、よっ、とケネルは蹴り払う。

 ぱたり、とシーツに落ちたのは、隣を囲いこもうとした寝ぼけた手。頭を並べた隣には、あの彼女の寝顔がある。

 静かで厳粛な朝まだき。

 白霧流れる原野のどこかで、がらん、と畜鈴が不意に鳴る。

 まだ早い朝の光が、白々と天窓から射していた。寝乱れたシーツに投げた手足。朝日に包まれた安らいだ顔。長い髪をシーツに流して、端整なあの顔が眠っている。

「珍事だな」

 総隊を仕切る副長の寝顔を、ケネルはつくづくながめやった。

 ファレスを副長に据えて長いが、この男の寝顔など初めて見た。野営の時でさえ、他人との寝泊りを断固拒否し、将のために用意した大型テントを使用せず、必ず単身用を別に張る。中には誰も()れないし、休憩中に昼寝もしない。常に警戒を怠らず、誰にも気を許さない。

 その上、仕事が引けた直後には娼家に直行が常のファレスが、隣の女に手も出さず、眠りほうけているというのだ。これを珍事と言わずして何と言う。しかも枕元に立たれても、まるで気づきもせぬほどに。いや、珍事というなら初めてではない。

 少し前から、兆候はあった。正確には昨夜から。

 彼女に言われるがまま横たわり、痛む腹にまで触らせていた。急所を他人にさらすなど、常でも無謀な振る舞いだ。まして、猜疑と不審で凝り固まった用心深いこの男が。女に全力で乗られたところで、苦もなく排除できたろうに。

「一体、何があったんだか」

 らしくない整った寝顔に、ケネルは思わず苦笑いする。

 子供のように額をくっつけ、二人はぐっすり眠っている。確かに世話を任せはしたが、彼女にほだされたとは思えない。世間の苦労の大抵は無視できるほどの辛酸を、彼は幼少時から舐めている。そもそも、ファレスは若い女に冷淡なことでも有名だ。それで女がファレスに詰め寄り、あわやの騒動になったことも一度や二度の話ではない。ならば、理由はなんだというのか。つまり、それは彼女固有の──

 ふと、戸惑い、目をそらした。

「……まさか、な」

 落ち着きなく顎をなで、寝床の彼女に目を戻す。

 草原でよどむ朝霧のように"それ"は依然として、そこにあった。希薄にまとわりついている。前髪の下の白い頬に。黒髪の伝う首筋に。薄い寝巻きの胸元に。敷布に置かれた指先に。"あれ"がファレスをいざなって、その心を開かせたとしたら

「──ばかばかしい」

 我に返って、一笑に伏す。

 うめいて、彼女が顔をしかめた。

 身じろいで頬を掻き、もそもそと横向きに寝返る。声で起こしたかと思ったが、そういう訳でもないらしい。

 幾重もの薄いフリルが、朝の光に透けていた。体を丸めたくるぶしまで、ゆったり丈のある白い寝巻き。彼女は軽く口をあけ、ぐっすり眠りこけている。我関せず、安穏と。

 ケネルは溜息まじりに腕を組んだ。

「まったく、ちゃっかりしてるよな」

 うっかり境界線せんを踏み越えただけで、キイキイ弾劾するくせに。

 だが、彼女はファレスには(・・・・・・)立ち入りを許した。

「──いや。相手はちゃんと選んだ(・・・)、か」

 なるほど、俺は落第ってわけだ、と我が身を省み、苦笑いする。事実、近ごろ寝不足気味だ。うかつに寝返りも打てないから。

 彼女はむにゃむにゃ口を動かし、悪びれもせずに眠っている。

 ぬっ、と横から手を伸びた。

「……む。しつこいな、こいつ」

 彼女そちらに寝返ろうとするファレスの髪を、つかんでずりずり引き離し、ついでに肩を寝具の外まで蹴り飛ばし、いなくなった温もりを探して宙をさまよう彼女の片手を、やんわり取って、敷布に戻す。

「こら。いい気になるなよ、食われるぞ」

 ケネルは軽く身をかがめ、無邪気な寝顔をたしなめる。

この男(こいつ)が誰だか、知っているのか?」

 華麗な見た目にそぐわぬ豪腕。

 ばったり出くわした敵兵が脱兎のごとく逃げ戻る、荒れた戦場を征す猛者。いつの頃からか囁かれた異名が、地獄への案内人《 ウェルギリウス 》

 天窓からの光の中で、彼女は寝息を立てている。

「まったく、あんたには恐れ入る」

 ケネルは寝顔をつくづくながめた。街の者なら怖気づくだろう隊内を、勝手気ままに歩きまわり、柄の悪い連中に連れこまれそうになったかと思えば、一目置かれるあの"特務"と、平気で遊んでいたりする。

「まったく、手のかかるお姫さんだ」

 白い朝の光の中、寝床のかたわらにしゃがみこみ、そっと口元をほころばせた。

 

 

 ごくり、と唾を飲みこんで、向かいの仕切りを凝視する。

 エレーンは壁際にへたりこみ、びくびく我が身を掻き抱いた。穴があくほど見つめているのは、戸口におりた仕切りの下方。

(ちょっとぉ~!? なになになに~!?)

 風で揺れているわけではない。

 布一枚とはいえ建物の仕切りだ。ぶ厚く頑丈にできていて、結構どっしり重みがある。そよ、と風が吹いた程度で、そうたやすく動きはしない。

 明らかに、そこに誰かいた。

 そして、しきりに蹴っている。戸口におりた厚布の仕切りを。

 声をかけても、返事はなかった。

 ぴたり、と壁に張りついて、じぃっと硬直、聞き耳を立てる。何か用があるのなら、なぜ入ってこないのだ?

「……ど、どちらさま~?」とひるんだ声を振りしぼるも、荒ぶる音は鳴り止まない。むしろ、激しさを増す一方だ。

 何がそんなに腹立たしいのか、仕切りを蹴りつける音と打撃は、強くなり、弱くなり、少し止んでは又始まり、と不規則な間隔で続いている。時に苛立たしく。時に腹立たしげに。ぽすん、ぽすん……ぽすん……ぽっすんっ! 

 て、いや待て。

 戸口上部の木板の下を凝視して、エレーンは顔をゆがめて硬直した。

 あわあわ唇の端がわななく。だって、あんな高所ところまで届くものか? 

 ()って。

 うっぎゃあああーっ! とけたたましい雄たけびが、朝のゲルにとどろいた。

 つまり、まさか、とうとう

 ── 頭 突 き かー!?

 

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