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3話2

『 傘もささずに、風邪をひきますよ? 』

 ためらいがちに覗きこむ、息を切らした柔らかな微笑み。

 ようやく母を捜し当て、息を呑んだ子供のように、大きな瞳を輝かせて。

 首筋の肌が泡立っていた。

 ふわりと揺らいだ髪の中、いつにも増して頬が白い。夏の服に包まれた、薄い肩が凍えている。なのに、あのは、笑って言うのだ。

『一緒に帰りましょう、エレーンさん 』

 仕事だから世話をするあのは。

 この手から彼を奪ったあのは。

 ううん、本当は知っている。

 彼の心は、自分にはなかった。それを承知で無理に頼みこんだのだから。

仮初かりそめの恋人」の約束だった。

 レーヌにいる間だけの。彼は遊びと知っていた。それは知っていたはずなのに。

 本当に想いを寄せていたのは、このの方であることを。

 男なら誰もが夢中になる、か弱く柔らかなこのアディーの。

 

 しとしと霧雨きりの降りしきる、薄墨を流したような雨もよう。

 夏着の腕に、首に、頬に、まつ毛の先に、しっとり、やんわり、まとわりついて。

 どんより雨雲に閉ざされた、大陸北方の避暑地の空。白く煙る遠い山、霧に包まれ眠る森、長く道が伸びている。彼方(かなた)まで続く田舎のあぜ道。

『 もう、宿に戻りましょう? こんなに冷たい雨だもの。濡れた体で立っていたら、芯まですっかり冷えてしまうわ 』

 ひっそりとした静かな景色、ぬかるんだあぜ道に、ひと気はない。

 霧雨ふりしきるこんな日は、誰も外に出はしない。そんな酔狂な物好きは、このアディーくらいのものだ。

 傘の柄を持つ手が濡れていた。

 亜麻色の柔らかな髪の先から、ぽたり、ぽたり、としずくがしたたる。

 スカートの裾が濡れそぼり、細い足首に貼りついていた。白い夏服に合わせた靴が、黒く水を含んでいる。泥土にまみれた高価な革靴。不自由な足を引きずって、どこのぬかるみを歩いてきたのか。一体いつから捜していた。

 ひなびた街道の古い宿で、静養していたはずだった。

 屋敷の世話係のことなんか、気にせず、ほうっておけばいいのに。どれだけ雨道に立っていようが、濡れたくらいで死にはしない。

 でも、体の弱いこのは違う。

 

 傘をかたむけた白い手に、ぽつん、ぽつん、と雫がしたたる。

 ひなびた田舎を覆いつくす、しとしと細かな夏の雨。灰色の空、灰色の山、彼方へつづく灰色の道、どこもかしこも薄墨に呑まれた景色の中で、あのが差しかけた傘だけが赤い。

 

 くるり、と赤い傘をまわして、はにかんだように微笑んだ。

『 早く帰ってセヴィランさんに、温かいお菓子をもらいましょう? 』

 まったく、疑いもしないのだ。その手を相手が拒まぬことを。

 

 手を伸ばせば光の中、今でもあの笑顔が広がる。

 締め出された輪の中に、再び招いてくれたひと。とうに失くした家族のぬくもり。ささやかで真っ当で人並みの境遇。あのは最後の大事な家族。かけがえのない大事な妹。だから、思い出したくない"あの時"には、鍵をかけたままにしておいていいよね?

 

 低く垂れこめた雨雲くもの下、灰色にかすむ遠い山、雨に煙る夏の畑、かなたへ伸びたぬかるんだあぜ道、畑の向こうの遠い森林、しとしと霧雨あめが降っている。

 赤い傘がくるくる回る。

 薄墨に呑まれた景色の中で、その赤だけがくるくる回る。

 くるくる、くるくる、くるくる、くるくる──


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