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3話1

 飛沫しぶきを地面に飛び散らせ、男が水をかぶっていた。

 硬く盛りあがった強靭な肩を、明け方の日ざしが照らしている。黒い蓬髪(ほうはつ)の壮年の男だ。背をかがめた足元には、石で組まれたいびつな井戸と、備えつけの簡素な手桶(ておけ)

 男はこわもての顔をしかめて、濡れた蓬髪を振り払う。背をかがめ、ズボンの両膝をつかんだ目の端、ぬっと"白"が割りこんだ。

「腕の具合はどうだ、アド」

 差し出されたその布を、アドルファスはかがんだまま、つかみ取る。「ま、どうにかな」

「どうした、こんなに早くから。寝ぼすけのお前が珍しい」

「──ちょっと、寝つかれなくてよ」

「で、朝っぱらから水浴びか?」

 それには応えず顔をぬぐって、アドルファスは濡れた髪を大雑把に掻きやる。「いつも早いな、そっちの方は」

「おいおい、人を年寄り扱いするなよ。お前さんと俺とじゃ、大して違いはしないだろ」

 心外そうに苦笑いしたのは、闊達(かったつ)そうな日焼けした横顔。四十絡みの落ち着きの中にも、顔つきは精悍さを失っていない。その明敏な瞳には、いつも何かを面白がっているような、企むような色がある。短い頭髪の左の耳には、年代にそぐわぬ赤いピアス。

 一隊を率いるバパだった。一体いつから、そこにいたのか。小鳥の軽やかなさえずりに、足音さえも紛らせて。

 朝に白んだ原野をながめ、バパは横顔で声をかける。「アド、立ち入ったことをいてもいいか」

「領邸に押し入った一件か?」

 たくましい腕をふきながら、見向きもせずにアドルファスは応える。

「悪い。詮索する気はないんだが、俺にはどうにも解せなくてな。まして相手は堅気の娘だ」

「それが?」

「お前さんらしくない。俺が知っている"アドルファス"って男は、非力な女を襲うような、下衆(げす)な真似はしなかったはずだ」

 井戸にかがんだ背を起こし、アドルファスは朝空を仰ぎやった。

 濡れそぼった蓬髪の先から、ぽたぽた水滴が背にしたたる。口をつぐんでその場にたたずみ、長く伸びた前髪の下の濃い眉をひそめている。

「──あの庭が、まぶしくてよ」

 空をながめた双眸を、遠く思いを馳せるようにすがめた。

「あの庭木のざわめきが、いや、昼から水なんぞやってた妾が、あの日の、あの(・・)女医に見えた」

 バパは目の端で見やっただけで、特に何を言うでもない。ただ、肌寒く澄んだ朝風かぜに吹かれて「そうか」とだけ短く応じた。

 上着の懐をおもむろに探り、煙草をくわえて点火する。

 苦いしがらみを断ち切るように、アドルファスはゆるく首を振り、さばさばと口調を改めた。

統領代理だいりの意向か? この南下は」

 煙草を点けた燃えさしを、バパは手を振り、ゆるく振り消す。「それなら部隊こっちにも指示がくるだろ」

「なら、ケネルの一存か」

 ケネル率いる傭兵部隊は統領代理の指揮下にあるが、二人の不仲は周知の事実だ。

 顔をしかめて、アドルファスは続ける。「どうにも妙な按配だな。この急な出立かと思えば、南下、とだけ言われてもよ」

「無口が過ぎるのも困りものだな。まあ、この先、目ぼしい町もないし、なにより今は、客がいる。向かうとすれば、商都だろうが」

 顔をしかめて一服し、バパは朝空に紫煙を吐いた。

商都むこうの状態を確認しがてら、越境して帰国する、そんな腹積もりでいるんじゃないか? これ以上居座る理由もないし。任務は完了、上層部うえ会合(・・)も滞りなく済んだ。おまけにクレストの危機も去った。それに」

統領代理だいりも姿をくらましたしな」

 皮肉な口調でアドルファスは引きとり、思わせぶりに目配せする。

 腕組みの先で紫煙をくゆらせ、バパは困ったように苦笑いした。「まったく。なんのための護衛なんだか」

「で、今日はなんだ。急用か?」

ネズミ(・・・)がいるな」

「ああ。こっちも二匹ばかり片付けたが」

「蛇の道は蛇、か」

 バパは短髪のうなじをうんざりと叩く。「しかし、ここはカレリアだぜ。そんなに欲しいかね、この首が」

「そりゃ、是が非でも欲しいだろうさ。シャンバール(むこう)の役所に突き出せば、左うちわで暮らせるってんなら」

「だが、あれで賞金稼ぎとはお粗末だな。あれじゃ良くてコソ泥止まりだ。それで?」

「"始末したか"という意味か?」

 アドルファスは率直に返し、ぶっきらぼうに蓬髪をふく。「カレリアでは殺生厳禁、こっちに越境する前に、そう指示が出ていたろう。だから、ちょいとヤキいれて、ああ、そこの──」

 (あご)先でなおざりに樹海をさした。

「その先の崖から、ぶち込んでやった」

「──そうか」とバパは苦笑い。

「なんだよ。殺した方がよかったか?」

「いや、厳正なお前さんにしちゃ、手ぬるい対処だと思ってさ。だが、カレリア(こっち)亡骸なきがらがあがった日には、たちまちやかましくなるからな。まあ、血の気の多いそうした手合いは、逃がせば報復に来るだろうし、いちいち付き合うのも面倒だが、この際、多少の手間は仕方ないな」

 言いつつバパは、賊を片付けたという崖のある、樹海の東を眺めやった。

「しかし、迂闊(うかつ)なネズミもいたもんだな。"砕王"を標的まとに選ぶとは。そいつらもよくよく運がない」

「運なら、いい、と思うがな」

 むきだしの肩に布を引っかけ、アドルファスは一瞥をくれる。

「ここは天下泰平のカレリアで、今は堅気が近くにいる。何より先に出くわしたのが "レッド・ピアス" あんた(・・・)じゃない(・・・・)

「俺はそんなに無慈悲じゃないぞ?」

 心外そうに眉をあげ、バパは片目をつぶってみせる。「そういう無益な殺生は、これでもしない主義なんだ」

「へえ。そうかい」

 少し離れた雑木林に、まだ若い男が二人、あくび顔で立っていた。

 朝もやに沈む林の中には、木立の根元のそこかしこに、薄緑の色彩がひっそりとある。部隊が休む移動用テントだ。

 林の周縁をぶらぶらと、今朝の哨務の当番が、手持ち無沙汰そうに歩いている。まどろみに沈む野営地も、しばらくすると動き出す。

 寝静まった雑木林に、アドルファスは目をすがめる。「ざわついてるな、若い連中が」

「だって仕方がないだろう?」

 バパがおどけたように眉をあげた。「部隊に女がいるんだぞ?」

「──まったく正気の沙汰じゃねえ」

 アドルファスは苦々しく吐き捨てる。「娼婦でもねえ若い女を、こんな所に連れこむなんてよ」

「まあ、腹をすかせた狼の群れに、羊を投げこむようなものだからなあ」

呑気(のんき)に言ってる場合じゃねえだろ。たく。なに考えてんだ、ケネルの野郎は!」

「さあな。嫁にでもするんじゃないのか?」

「──嫁って、おい」

 返す言葉を一瞬失い、あぜんとアドルファスが振り向いた。「……あの朴念仁の、あの野郎がかよ」

「なんて顔をしているんだ、アド」

 くすり、とおかしそうにバパは笑った。

「そう驚くことでもないだろう。奴だって若いし、第一、嫁は初めてじゃない。ほら、なんてったっけな、小柄で気が強くて、やたら元気な──」

「クリス、だろ」

 濃い眉を険しくし、アドルファスは苦々しく腕を組む。

「俺らだって真人間とは言わねえが、なにも臨月腹の妊婦を相手に、あんなむごたらしい真似しなくたってよ。どんな拍子であんなふうに(・・・・・・)なっちまうんだか知らねえが。たく。今思い出しても胸糞悪い」

「確かに、後味の悪い話だが」

 慎重な口振りで、バパは言う。「そうはいっても男女のことは、つまるところ、当人たちにしか分からないからな。大方、事情があったんだろうさ。あの節度あるケネルのことだ」

「あながち、そうとも言いきれねえだろ」

 苦い顔で短く吐き捨て、アドルファスはいかめしく目を据える。

「忘れたのかよ、レッド・ピアス。奴の暴走はあれだけじゃねえだろ。例の(・・)粛清(・・)も、あの辺りの時期だぜ」

 青い草波を突風がさらい、静かな()ぎが広がった。

 井戸端に立つ二人の首長は、別の方向を見やったままで、それぞれ口をひらかない。

 彼方まで続くなだらかな起伏のさなか、薄く立ちこめた朝もやの中で、馬が草を食んでいる。

「──忘れられるわけがない」

 わずかにすがめた視線を外して、バパが溜息まじりに腕を組んだ。

くみする側を誤れば、今、俺たちは、ここにはいない。まさしくあれが生死をわけた分岐点、まさに首の皮一枚でつながっていたってんだからな」

「連中を(なぶ)り殺したあの時の、野郎のあの目をあんたも見たろう」

 太い眉を険しくしかめて、アドルファスは嘆息する。

「奴の中には魔物が棲んでいる。普段は息を殺しているが、何かの拍子に目を覚ます途轍とてつもねえ怪物が。──そうでもなけりゃ説明がつかねえ。奴の底なしのスタミナと、獣なみの瞬発力、そして、あの凄まじい回復力、いや、再生能力(・・・・)とでも言った方がいいか。ああ、どれ一つとっても尋常じゃねえ」

血は争えない(・・・・・・)、ということだな」

 腕を持ちあげて一服し、バパは朝空を仰ぎやった。

 アドルファスは苦りきって顔をしかめ、半裸のたくましい腕を組む。

「長丁場の交戦で延々前線にいるなんざ、並みの人間にできることじゃねえ。あのタフな連中がへばって何度も交代する中、なんでもねえって涼しいつらで。休みもせず、眠りもせず、敵と競り合い続けるなんてよ。あそこまでいくと、脅威を通り越して異様だぜ。もっとも、だからこその"戦神"だろうが」

「──戦神、か」

 古い記憶をたぐるように、バパは朝雲に目を凝らした。

「前はあいつも、あんなふうじゃなかったのにな。父親嫌いで無鉄砲な、どこにでもいる若造で。だが、黒獅子たちの粛清以来、奴はどこか変わっちまった。上辺は同じようでいて、その実、前とは何かが違う。以降、口数もめっきり減って、人として大事なものが欠けちまったみたいによ。──なのに、珍しいこともあるものだな。統領代理だいりの決定を押しのけてまで北カレリアに介入し、こんなむさくるしい男所帯にあの子を連れ出してくるってんだから。どんな別嬪べっぴんが言い寄っても、見向きもしなかったあの男が」

「にしたって、選ぶ相手が悪すぎるだろ。いい度胸してるぜ、あの野郎も」

 呆れ顔で視線をめぐらせ、アドルファスは腕組みで嘆息する。

「バレたが最後、指名手配で追いまわされるぜ。たく。同じ女をぶん取るにせよ、なにも北カレリアの領主なんぞに、喧嘩(けんか)を売るこたねえだろうによ」

 朝日に照らされた原野の先の、雑木林の向こうを眺める。苦々しく見やった先には、当人たちが寝泊りしているくだんの遊牧民のキャンプがある。

 煙草の灰を叩き落して、バパも身じろいで目をやった。「お前さんとしても、心穏やかじゃないよな、そりゃ」

「あ? そいつは一体どういう意味だ」

「だから、ずいぶん肩入れしているじゃないか、お前さんも、あの子にさ」

 紫煙を吐いて振りかえり にっと思わせぶりに笑いかける。「部隊に何人女がいようが、気にしたことなどないだろう?」

 憮然とアドルファスが顔をしかめた。「──そいつは、あんたの深読みってもんだ」

「おいおい、野暮を言う気は、俺にはないぞ?」

 そつなくバパは笑いかけ、揶揄するように眉をあげる。「いいじゃないか、惚れるのは自由だ。年が離れてたって関係ない。精々ケネルと張り合えよ」

「だから、そんなんじゃねえってんだ、あれは」

 たまりかねた顔でアドルファスはさえぎり、深々と息を吐いた。

「まったく、あんたは相変わらずだな。すぐ色恋そっちに話をもっていくってんだから。あれは、なんてぇのか──いわば、俺の"娘"みたいなもんだ」

 バパが面食らった顔で口をつぐんだ。

 きまり悪げに目をそらし、煙草の手を軽くあげる。「──すまん、アド。軽率だった」

「いいさ、別に。昔の話だ」

 アドルファスは肩をすくめて受け流し、原野の先を(あご)でさした。「それより、いいのかよ、あっちの方は」

 そうだな、とバパは紫煙を吐いて、煙草を落として踏み消した。

 左右の腕を突きあげて、朝空に向けて伸びをする。「そろそろキャンプ(むこう)に顔を出すか。予定もいて来にゃならんしな」

 凝りをほぐすように首をまわし、朝もやに指笛で呼びかけた。

 ぴくり、と馬が、食んでいた草むらから首をあげた。

 長い顔をかたむけて、立てた耳を澄ましている。

 優美な尻尾を振りながら、軽い足どりでやってくる。愛馬を片手で捕まえて、バパは慈しむように首をなでた。「さ、行こうか、トレイシー。ところで、お前に訊くのもなんだが、ケネルが連れてきたあの姫さん、なんで、まだ──」

生きてんだかな(・・・・・・・)

 野太い声で先を引きとり、アドルファスはゆっくり首を振った。

「正直、俺にもわからねえ」

 

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