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2話5

 向かいの床で、どさり、と腰を降ろした音がした。

「おい」

 ざらりと()れた重い声。

「……おい、そう恐がるなよ」

 向かいで、布ずれの音がした。蓬髪が身じろいだらしい。

 必死で首をすくめた耳に、炉火が出し抜けに大きく爆ぜた。

 続いて爆ぜるその音が、小さく絶え間なく聞こえてくる。

 なぜだろう。手を出そうとしないのは。

 怪訝に思い、向かいの様子を、おそるおそる覗く。

 たくましいズボンの膝が、向かいであぐらをかいていた。

 恐々あげた視線の先で、無精ひげをさすっている。

 ジジ……と灯かりの芯を燃やして、壁の火影が揺らめいた。

 土間で、湯が沸きたつ音。黒い無精ひげに覆われた口が、おもむろにゆっくり開く。

 大きく息を吐き、口をつぐんだ。

 何かをためらい、横顔で舌打ち。あぐらの膝に置いていた、大きくごつい手が上がる。

 ぎくりとエレーンは身構えた。

 手が、無為に宙をさまよう。往生したように蓬髪を掻いた。「──たく。参ったな」

 いかめしい顔を蓬髪はしかめ、大きく息を吐いてから、思い切ったように振り向いた。

 がばっと分厚い肩をかがめ、あぐらで深々と頭を下げる。

「すまなかった」

 目をあげ、めつけるように、じっと見た。

「なんなりと言ってくれ。何を充てても、償いはする。この通りだ」

「……へ?」

 腰を抜かした体勢で、ぽかんとエレーンは口をあけた。傭兵部隊の一を預かる、アドルファスと呼ばれた、あの首長が──。

 あわてて飛び起き、居住まいを正した。

 上目使いで、そろりと覗く。「あの~。もしかして、謝りにきた、とか?」

「──だから、そう言っている」

「あの、でも、ふとんに、あたしをほうり投げ──」

「いや、降ろせって言うからよ」

「は?」

「だが、いやに暴れるし、転げて落として、頭ぶつけても事だしな」

「……え゛?」

 すると、何か? 転げ落ちても支障がないよう、柔らかい場所に降ろしたと? そう、すなわち、寝具の上に。でも、抱きあげたりしなければ、そもそも暴れるような事態には……

 今いた場所をもやもや見やり、はたと気づいて、またたいた。

「──そっか。西に(・・)行ったから」

 にわかに合点し、蓬髪を見た。「西は(・・)神聖な方角(・・・・・)だから、あたしのこと、どかそうと!」

「神聖な?──ああ、いや」

 蓬髪は腕を組み、小首をかしげた。

 片手で頬のひげをなでる。「そんなことより額縁(・・)がな」

 西は駄目だとケネルが言ったが、実は額縁が高価なのか?

「頭に落ちたら、危ねえだろう」

 苦々しげに西壁を見やった。

かどで額を切っても事だしよ。もう壁にぶち当たってるのに、まだ、がむしゃらに進もうとするし」

 にわかに、すべての事情を悟り、耳までのぼせて頭を下げた。

「と、とんだお手間をおかけしてっ」

 なのに、平手で押しまくり、手当たりしだい蹴っ飛ばし──

「どういたしまして」

 ざらりと()れた重い声で、蓬髪の首長が鷹揚に返した。

 もはや、じっとり冷や汗まみれ。てっきり襲われたと思ってました……とは口が裂けても言えない状況。態度にありあり出ていたが。

「勘違いさせたんなら、すまなかったな。さっきの話の続きをしに来た」

「──あ、でも、"おあいこって" だから、話は終わりのはずで」

「終わっちゃいねえよ。まだ何も」

 首長が苦々しく首を振った。

 腹に据えかねた口振りで、言い聞かせるように目を据える。「まだ何も済んでねえ。そんな怪我を負わされちゃ、あんただって収まらねえだろ」

「や、あたしは別に、もう何も。だから、もう」

「俺なら、生涯許さねえ」

 首長は一蹴、濃い眉をひそめた。

「もしも傷なんぞ負わされたら、何があっても許さねえ。そいつがどこへ逃げようが、どんな遠くに隠れようが、見つけ出してたたっ斬る。カーナの仇は必ずとる。それだけのことを、俺はしたんだ」

 気圧され、はあ、とあいまいに返し、エレーンは、そろりとうかがった。「それで、あの、カーナっていうのは」

 彼の恋人の名だろうか。

 ふと、首長が顔をあげた。

 物思いから醒めたように腕を解き、照れくさそうに無精ひげを掻く。「娘がいてよ、俺にも一人」

 エレーンは面食らって見返した。

(お父さん、なんだ……!?)

 確かに、子供がいても、おかしくない。いや、むしろ当然か。四十絡みのこの年ならば。

 すとん、と何かが腑に落ちた。

 これまで宙を漂っていた釈然としないくすぶりが、収まるべき所に収まったような。じわじわと合点する。そうか。だから(・・・)か。この人は、誰かの父親だから──

 蓬髪が生真面目にうなずいた。

「若い娘に傷をつけるなんざ、何があっても許されねえことだ。あんたの親御さんだって許さねえ。どんな理由があるにせよ」

「理由?」

 唐突さに違和感を覚える。

 何事か首長は言いかけ、きまり悪るげに顎をなでた。「──ああ、いや、なんでもねえさ」

 怪訝にエレーンは横顔を見る。そういえば、おかしい。そもそも、なぜ、サビーネを?

 ノースカレリアに来てからずっと、サビーネは籠の鳥だった。一方、首長は隣国在住、面識さえもなかったはずだ。そう、二人には接点がない。なのに……

「──俺はただ、あんたのよ」

 首長がもどかしげに口をひらいた。

 顔をしかめてその先を探し、だが、結局、溜息で首を振った。「──いや、なんでもねえ」

 真顔に戻って目を向けた。

「この借りは返す。必ずな」

「──か、借りだなんて、そんな!」

 あわててエレーンは片手を振る。

「だってあれって、あたしが勝手に飛び出したわけだしっ!」

 じっと首長は目をすがめ、本心を見極めるように顔を見る。

 いかつい目元を、わずかに緩めた。

「……あんたは、いい奴だな」

 あぐらを崩して後ろ手を突き、寛ぐように片膝を立てた。

「本音をいえば、そう言ってもらえると、ありがたい。あの時は不意を突かれてな。屋敷の警備が割りこんだかと、うっかり刀を振っちまって。仕留める気でいったから、ばっさりいったかと思ったが」

 しげしげ、こちらの顔を見た。

「運のいい奴も、いたもんだな」

 エレーンはたじろぎ、引きつり笑う。「ま、まあね。あたしも、あの時は無我夢中で」

「いや、大したもんだぜ。中々できることじゃねえ。何せかばってやったのは、亭主の()ってんだから」

 鋭くエレーンは声を呑んだ。

 油断していた胸を衝き、彼女の笑顔が一杯に広がる。一度は押し込めたあの(・・)苦さが、黒いもやがかかるように、毒が回るように染みていく──。

「……違う」

 口端だけでぎこちなく微笑い、あえぐように息を吐いた。

「違うの。ぜんぜん偉くない。あれは、おじさんが思うようなことじゃなくて──あの、──」

 言葉にできず取り止めた先を、首長はやんわり視線で促す。

 エレーンは仕方なく微笑んだ。「──ケネルから、聞いてない?」

「聞くって何を」

 熱い固まりがこみあげて、乾いた唇を軽く噛む。

 胸が震え、唇が震えた。指を強く握りこむ。

 首長はじっと黙っていた。中途半端に取り止められても、訊き直すでも、促すでもない。

 やがて来るだろう詮索を、エレーンは身を硬くして全身で拒んだ。手前勝手な醜い心を、これ以上彼に覗かれたくない。やっと手に入れた親交を──この人の信頼を手放したくない。真相を知れば、きっと呆れる。それに──

 あの(・・)姿を思い出し、エレーンは居たたまれない思いで眉をひそめた。

 あの後、現場に駆けつけたケネルに、突き飛ばされたのも知っている。扉の外の暗い廊下を、うろついていたのも知っている。中に入って来ることもできずに、深夜までうろうろと。夕焼けの壁でうずくまり、ひとり泣いていた小柄な肩。

 だが、首長が感服したあの行動は、サビーネをかばってのことではなかった。後継ぎをかばったわけでもない。そんなたいそれた動機ではないのだ。

 割りこんだ理由は一つきり。浅ましくてくだらない、ぱかみたいに単純な理由だ。ただ軽蔑されたくなかった、

 ダドリーに(・・・・)

「なにを泣いてんだ。ん?」

 後頭部あたまに、手の重みがかかった。

 怪訝に思い、顔をあげると、硬くてごつい大きな手の平──首長が腕を伸ばしている。

「なんだ、どうした。辛気くせえ顔してよ」

 手が頭をなでくりまわす。小さな子供にするように。

 なだめるように首長は笑い、言い聞かせるように言葉を続ける。「ほら、どうした。大丈夫だ、俺は味方だ。何があろうと、味方だからな」

 エレーンは小さく息を呑んだ。

 不意をついて舞い降りた奇蹟に、心がとっさに反応できない。

 気を張り続け、強ばった胸に、温かいものがじんわり広がる。やっと、やっと、

 やっと一人、味方が(・・・)できた(・・・)──。

 突きあげた切なさで、胸がつまる。──そうか。そうだ。そう(・・)なのだ。

 奇蹟は、その自覚をも連れてきた。今にして、ようやくわかった、自分がとった行動の根っこが。こんな怪我を負わされて、それでも尚、彼を許せる、と思った理由が。

 この彼のまなざしだ。戸惑いと困惑を含んだ気遣い。それは、いつしか()くしたもの。幼い頃は皆と同じように持っていて、けれど、あの朝に失った。

 そんな掛け替えのないものを、この人はくれた。どれほど渇望しようとも、もう永久に取り戻せない、そんな得がたい宝物を、惜しげもなくこの手にくれた。誰より真摯に気遣ってくれた。あの場で一人、この人だけが。

 だから(・・・)、彼を許そうと思った──。

 こぼれた涙を指先でぬぐい、エレーンは微笑って顔をあげた。

「ちょっと、お願いがあるんだけどな」


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