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乃愛と方舟

作者: ふえはら

 八月一日の朝。外はよく晴れて、気持ちの良い天気だった。

 俺の元に、妹の()()がやってきた。

「お兄ちゃん、おふねつくって!」

 俺の手から、飲みかけのペットボトルが滑り落ちた。

「ねーねー、作ってよぉ。のあ、おふねのつくり方わかんない」

 子ども特有の丸みを帯びた顔。くりくりとした瞳。すねたように突き出された小さなくちびる。

 ――乃愛だ。俺の、五才の妹だ。

 乃愛はベッドに寝そべる俺の元へ駆け寄ると、銀色の折り紙を一枚、俺に渡した。

 俺は言われるがまま、折り紙で舟を折ってやった。

「お兄ちゃん、ありがとう! いってきまーす!」

 乃愛はそう言うと、舟を大事そうに持ったまま部屋の外へ出て行った。


 八月二日の朝。外はあいにくの天気で、霧のような小雨が降っていた。

 俺の元に、妹の乃愛がやってきた。

「お兄ちゃん、おふねつくって!」

 俺の手から、食べかけのクラッカーが転がり落ちた。

「ねーねー、作ってよぉ。のあ、おふねのつくり方わかんない」

 子ども特有の丸みを帯びた顔。くりくりとした瞳。すねたように突き出された小さなくちびる。

 ――乃愛だ。

 俺は乃愛の手にあった金色の折り紙を奪い取り、乱雑に舟を折ってやった。

 乃愛は一瞬驚いた顔をしたが、やがて満面の笑みを見せた。

「お兄ちゃん、ありがとう! いってきまーす!」

 あぁ、いってらっしゃい。ただし、もう二度と俺の前にその顔を見せるんじゃないぞ。

 来るな。俺の部屋に来るな。入るな。近寄るな。声を出すな。話しかけるな。笑うな。

 俺の前から失せろ。


 八月三日の昼。

 昼食を食べ終えた俺は、毎食後に服用している錠剤をざらざらと口の中へ流し込み、水なしのまま勢いに任せて飲みこんだ。

「ピピッ、危険行為ヲ確認シマシタ。ケイスケ様の口内ニタイリョウノ異物混入チュウイ。窒息死ノオソレガアリマス」

「するわけないだろ、この程度で。いいからあっち行ってろよ」

「カシコマリマシタ」

 俺の面倒を見ているドラム缶体型のメイドロボ・マリアは、低いモーター音をかすかにひびかせながら素直に俺の部屋から出て行った。

 一人きりになった俺は、改めて枕元に置いた卓上カレンダーに視線を戻した。

 今日は、三日。今朝もやはり、あいつはやってきた。ためしに年齢を聞いてみたら、『七歳』だとぬかしやがった。着ている物はたいして変わらなかったが、たしかに顔立ちが変わっていたし、背も伸びていた。あいつは、日ごとに成長しているのだ。

 俺はサイドテーブルの引き出しからボールペンを取り出し、カレンダーに数字を書き込んだ。

 日付  8/1  2  3

 年齢  5   6  7

 初めて姿を現したのが、八月一日。今日が三日で、七歳。なら、こういった推移の仕方が妥当だろう。俺は、いつまであいつの亡霊と顔を合わせなければならないのだろうか。

 俺はカレンダーとボールペンを放り出し、枕に突っ伏した。

 まだ指に、今朝折った折り紙の感触が残っていた。


 乃愛は正確に言えば、俺――新戸(あらと)(けい)(すけ)の実の妹ではない。あいつは俺の父親の再婚相手の連れ子、つまり、義理の妹というやつだった。

 俺の親は両方とも俺を嫌っていた。溌剌とした元気な女の子が欲しかった、といつかどちらかから聞いた覚えがある。対して俺は幼い頃から病弱で、ろくに学校にも通えないような有り様だった。母も父も、理想と真逆の俺を疎んじ、虐待まがいの暴力すらふるった。

 

 俺が十歳のときに両親は離婚し、俺は父親に引き取られ、その父が再婚し、あいつ――六才年下の『妹』、乃愛が母親と共に家にやって来た。

 その後は、大体想像がつくだろ? 父も義理の母も活発で愛らしい乃愛にべったり。厄介者の俺はマンションの一室に閉じ込められ、世話役として旧式のメイドロボがあてがわれた。

 しかしあいつは、どこで聞きつけたのか毎日のように一人で俺のマンションへやって来た。

 そして、俺の前で何を話したと思う?

 友だちが出来た、先生が優しい、なわとびで遊んだ、絵を上手く描けたからパパとママに褒められた――――。

 おいおい、ちょっと待て。それを俺に話すのか? 生まれてこの方外で遊んだことのない、友だちができたこともない、親から愛されたこともない、この俺に? 世が世なら、お前は立派な拷問官になれることだろうよ。

 どうか心の狭い男だと罵ってくれ。俺はいつしか乃愛に、怒りとも恨みとも嫉妬とも言えない、暗い感情を抱くようになっていたんだ。


「なぁ乃愛。お前、川で遊んだことあるか?」

 やめろ。

「外を見てみろよ。昨日の大雨で、川の水が溢れかえってるぞ」

 やめろやめろ。思い出すな、俺。

「こんなに川の流れが急なときに舟を流したら、きっと面白いだろうなぁ」

 やめろやめろやめろ! 忘れろ!


 薄汚れた記憶から逃れようとして、俺は何度も枕を殴りつけた。

 だがそんなことをしても、自分の発した言葉が一言一句違わずに思い出された。

「じゃあお兄ちゃん、お舟つくってよ! 乃愛、お兄ちゃんの代わりにお舟流してきてあげる」

「そうかそうか、ありがとう。乃愛はお兄ちゃん思いのやさしい子だな」

 俺は白々しい台詞を吐きながら、笑った。作り笑いでもなんでもなく、心の底からの、会心の笑みだった。

 一人遊びに慣れていた俺は、迷いのない手つきで舟を折った。

 乃愛は俺の折った小さな舟を大事そうに持って俺の部屋から出て行った。そして、二度と帰っては来なかった。

 こうして俺は五年前、自分の手を一切汚さずに妹を殺したのだ。



「お兄ちゃん、ふねつくって!」

8歳の乃愛。

「お兄ちゃん、ふねつくって!」

 9歳の乃愛。

「お兄ちゃん、ふね――」

「うるっせえんだよ!」

 8月6日の朝。俺はとうとう、10歳の乃愛に向かって枕を投げつけた。

「何なんだよ、何なんだよお前、毎日毎日舟舟ふねフネって……そうやって俺のこと責めてるんだろ? なぁ、そうなんだろ? ネコ被ってねーでたまにはホントのこと言えよ。自分を殺した兄ちゃんが憎くて憎くて憎くて憎くて仕方がありませんってよおおお!」

 馬鹿みたいにわめきながら、俺はベッドから起き上がって猛然と乃愛に近づいた。

 乃愛は枕を受け止めたまま呆然と立ち尽くしていたが、俺が目の前にやってきたと分かった途端、怯えたようにおずおずと口を開けた。

「お、お兄ちゃん、ふね……」

「まさかそれしか言えねーのか!? 違うだろ、本当は俺のこと殺しに来たんだろお前。こうやって毎日毎日俺んとこ来て、じわじわ体力奪って衰弱死させようって魂胆――」

 そこまで言って乃愛の小さな肩にふれようとした瞬間、俺の身体が急に変調をきたした。

 全身の血が一斉に湧きたち、脳がぐわんぐわんと揺れる。誰かに首でも絞められたかのように喉がつぶれ、ぎゅるる、と妙な音が出た。

 まるで、乃愛に触れるなと何者かが警告しているようだった。立っているのも辛くなり、俺は床に崩れ落ちた。

「あ、ぐ……ッ!」

「おにいちゃ……」

「来るなよ死神ぃっ!」

 近寄ろうとする乃愛に向かって声を振り絞って叫び、後ずさる。

 乃愛は今にも泣き出しそうな顔で悲しげに俺を見ていたが、やがてふいと視線を反らした。

「お兄ちゃん、明日はちゃんとつくってね……」

 ぽつりと呟くと、乃愛は俺に背を向け、部屋から出て行った。


「はあっ、はあっ……」

 喉を押さえ、玉の汗をかいたまま、俺は冷え冷えとしたフローリングの床の上でもがき苦しんでいた。

「っかしい、絶対おかしい! 何だあいつ! 殺すんならサクッと殺せやああっ!」

 あいつは亡霊じゃない。地縛霊とか幽霊とか、そういった生易しい類のものじゃない。正真正銘の、死神だ。

 だんだんと考えがまとまってきた。それと同時に、全身に走っていた痛みも治まってきた。

 毎日違った姿を見せるのは、きっと、俺に精神的苦痛を与えるためだ。そう気づいた途端、「お前があんなことさえ言わなければ、乃愛は何の障害もなくすくすくと育っていたんだ」と、何者かが俺の耳元で囁いたような気がした。

 そっちがそのつもりなら、俺にも考えがある。

 俺は静かに立ち上がり、サイドテーブルの引き出しを引いた。取り出したのは、ガムテープ。俺はビーッと最大限までテープを引き出し、自分の閉じた両目に張り付けた。ぐちゃぐちゃに丸めたテープを耳の穴にもつっこみ、耳栓代わりにもした。

 これでどうだ。もう俺はお前の姿を見ないし、お前の声にも耳を貸さない。誰にも相手されなくなれば、お前――新戸乃愛はもうこの世には存在しないも同然だ。俺は暗い満足感に浸りながらベッドに戻り、掛布団を頭から被って眠った。



「お」

「に」

「い」

「ちゃ」

「ん」

 聞こえない聞こえない聞こえない。何も聞こえないし何も見えない。どうだ、恐れ入ったか。お前は死んだんだよ。この世にいないんだ。分かるか? 仮に生きていたとしても、一日ごとに年を取り、声音が変わるなんてことはありえない。だからお前は人間じゃない。そもそも俺の妹なんかじゃない。だから呼ぶな、俺のことを呼ぶな! 俺はお前なんて知らない!

 もう、ベッドにこもり始めてから何日が経ったのだろうか。俺は形が変わってしまいそうなほど強く強く耳を押さえ、薄い掛け布団の下でじっと息を殺していた。

 結局、その場しのぎの耳栓もどきで全ての音を消せるわけがなかった。俺は必死に「聞こえない」と自己暗示をかけていたが、そんな努力も無駄だったらしい。

 ――あぁ。今日もまた、あいつが来る。

 キィ、とドアが鳴った。ちゃんと鍵をかけたはずなのに、毎度毎度一体どうやって入ってくるんだ?

「お兄ちゃん、お舟作ってよ」

 今日は一段と大人びた、女らしい声だった。声音は違えど、こいつ――乃愛の声を聞いたのはこれで……13回目か。

 以前のように純粋に俺を慕うような様子は成りを潜め、俺を蔑んでいるような、嘲笑うような調子が加わっていた。

 いつもと違う。

 乃愛の変化を敏感に感じ取った俺は、緊張からシーツを握りしめた。

「お兄ちゃん、今日も作ってくれないの? 乃愛、さみしいなぁ……今日こそ大好きなお兄ちゃんと一緒にお舟で遊べると思ってたのに」

 わざと幼い口調でなじるように俺を責めながら、乃愛の声はこちらへ近づいてきた。

「ねぇ、早く折ってよ、昔みたいにさ。乃愛ね、お兄ちゃんにお舟作ってもらえないと天国に行けないんだって。神様にそう言われちゃって、仕方ないからここに来たんだ」

 嘘をつけ。8月1日から今日までの間、俺がお前にいくつ舟を折ってやったと思っているんだ。

 俺が内心毒づいていると、急に掛け布団が取り払われた。

「ほらほら、早くあのときみたいにつくってよ。真ん中に折り目つけて、端っこを真ん中に折り込んで、また端を三角に折って――」

 乃愛は歌うように言いながら、俺の身体の上にパラパラと何かを落とした。見えなくても分かる。折り紙だ。

 俺はたまらなくなって折り紙を払いのけ、ベッドから降りようとした――が、両足に力が入らず、そのまま無様に床に倒れ込んだ。

 ――体が言うことを聞かない。まるで足がゼリーか何かでできているようにぐんにゃりと力を失い、立つことすら叶わなかった。

 だが俺は、諦めなかった。乃愛から逃げる、そのことしか頭になかった。

 俺は両手を使って移動し、何とか窓際までたどりつくと、窓の下に置かれている本棚のへりに手をかけた。渾身の力を振り絞って本棚をよじ上り、開け放たれた窓から顔を出すと……わずかに下の方でちゃぽ、と水音のような音がした。

「み……ず?」

 あぁ、良かった。

 水があるのなら、ここから飛び降りても大丈夫そうだな。

 これでここから逃げ出せる。俺は自由だ。二度と妹の幻覚に惑わされることなく、どこまでも自由に暮らすことができる。

 もはや正常な思考を放棄した俺は、安堵しながら窓から身を投げた。



「あーあ、いっちゃった」

 部屋に残された乃愛は、一人ため息をついた。

 ここはマンションの13階だ。よほどの大洪水でも起こらなければ、水がこんなところまで達することなど有り得ない。

 兄は恐らく、立て続けに起こる不可思議な現象に心をかき乱され、気が触れたのだろう。

「まぁいいや。天国でまた一緒に遊べるよね、お兄ちゃん」

 そう言いながら窓に近づき、兄が姿を消した先を見る乃愛。

 彼女はいわば、死期が近くなった啓典の脳が生み出した幻覚、幻影、迷妄、空想の産物のようなものだった。そのくせ自我を持っている自分を不思議に思いながら、乃愛は手の中の折り紙を弄んだ。

 折る順序は知っているのに、何故か自分では折る事が出来ない。 天国で兄に会えたなら、折れるようになるまでみっちり教えてもらうのもいいかもしれない。

新たな愉しみを見つけた彼女の身体は、つま先から徐々に消えて行った。


「あ、けど、お兄ちゃんがいくのは地獄だから、もう会えないか」



 ……もう、わけがわからんです。ホラーですらない気がしてきました。

 こういうのを投げっぱなしジャーマンと言うのでしょうか。


 主人公が誰もいない部屋で叫んだりエア折り紙したりしている様子を想像すると、なんだか笑えてきますね。

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