第9話 LANOS
喫茶店は、チェーン系の、どこにでもある店だった。
テーブルにメニューと一緒に置かれた造花。窓際に並ぶ観葉植物の偽物。BGMは誰のものとも知れないジャズ。全てが「ここには特徴がない」と主張するような内装。
待ち合わせ相手は、すでに奥の席にいた。
四十代に見えた。グレーのスーツ。無地のネクタイ。特徴のない顔立ち。そしてどういうわけか、この男の顔を「正面から見ているのに思い出せない」ような奇妙な印象を与えた。
俺が席につくと、男は名刺を差し出した。
そこには社名しか書かれていなかった。
「LΛNOS株式会社 研究開発部」
個人名なし。部署名のみ。
LANOS、と俺の中で読んだ。ラノス。
「お名前は」
「担当者とお呼びください」
男はコーヒーをひと口飲んだ。
「安藤仁さんは、今、私どもの施設でお世話になっています」
俺は表情を動かさなかった。
「施設」
「専門的なケアが必要な状態でして。彼の勤めていた製薬会社は、私どもと提携しておりました。彼が開発に関わっていたプロジェクトとも、当然、繋がりがある」
「俺に何の用ですか」
男がテーブルに両手を置いた。
指の先まで静止している。
「神代さん。あなたは三週間前から、認識されてはいけないものを認識しています」
俺は答えなかった。
「その認識が、どのような経路でもたらされたかも、私どもは把握しております」
「カプセルのことを言ってるんですか」
男は微かに頷いた。
「あれは、本来、私どもの研究設備の中だけで使われるべきものでした。安藤さんが持ち出した。そのことについては、既にケアが完了しています」
「ケア」
同じ言葉を繰り返した。
ケアが何を意味するのか、聞かなかった。聞きたくなかった。
「神代さんには、二つの選択肢があります」
男の声は終始、平坦だった。怒っていない。脅してもいない。ただ、事実を列挙するような口調。それがかえって、俺の背中に冷たいものを走らせた。
「一つは、私どもの施設にご協力いただくこと。あなたが現在知覚しているものについて、いくつかの検査と記録にご参加いただく。謝礼は弾みます」
「もう一つは」
「認識が止まること、です」
男がコーヒーカップを静かに置いた。
「私どもが開発した拮抗薬があります。一錠で、カプセルによって開放された知覚を、元の状態に戻すことができる。安全性は確認済みです。あなたが今見ているものが、見えなくなります」
「今見ているもの、というのは具体的に何のことだと思っているんですか」
男が少し間を置いた。
「青白い発光体。空気中を漂う粒子状のもの。あるいは声のような概念の伝達」
正確だった。
俺は腹の中で何かが冷えていくのを感じた。
「あなたは、それに名前をつけましたね」
俺の表情が、一瞬、動いた。
男はそれを見ていた。
「私どもは、彼らをNANOS――情報栄養体と呼んでいます。神代さん、あなたが付き合っている存在は、人間の創造的思考を栄養源とする生命体です。彼らに悪意はない。しかし、長期的な接触は宿主に取り返しのつかない影響をもたらす」
「安藤仁みたいに、ということですか」
男は答えなかった。
答えないことが答えだった。
俺は視界の端を確認した。
字義の光が、俺の右肩の近くにあった。
さっきより、小さくなっていた。
萎縮している。あるいは、隠れようとしている。
「拮抗薬を飲む気はありません」
男が初めて、表情らしい表情を見せた。
困惑ではなく、計算し直しているような間。
「理由を聞いてもよいですか」
「俺が書くものを、あいつが必要としている。それを一方的に断ち切る気にはなれない」
男がまた少し黙った。
「感傷的な判断は、神代さん自身を傷つけます」
「俺の判断は俺がします」
俺は立ち上がった。
「仁に会わせてくれるなら、もう一度話を聞きます。会わせてもらえないなら、それで終わりです」
男は止めなかった。
ただ、名刺と同じサイズの、白い封筒をテーブルに置いた。
「ご連絡をお待ちしております。なお、神代さん」
俺は立ち止まった。
「拮抗薬を飲まないという選択は、今のところ、私どもも強制するつもりはありません。ですが、あなたが彼らとの接触を深めるほど、私どもとしても対処が難しくなってまいります。その意味は、お分かりになりますね」
俺は答えなかった。
喫茶店を出た。
秋の風が顔に当たった。
歩きながら、字義に問いかけた。声には出さなかった。頭の中で、問いを立てた。
お前たちを研究している組織がある。お前はそれを知っていたか。
光が揺れた。
揺れ方が、これまでと違った。
小さく、速く、繰り返す揺れ。
俺の脳が翻訳した。
「……知っていた。あの男たちの気配を、前にも感じたことがある」
「いつ」
概念が来た。
「仁に最初のカプセルを渡した場所。そこに、同じ気配があった」
俺は立ち止まった。
雑踏の中で、一人だけ止まった。
人々が俺を避けながら流れていく。
仁が最初のカプセルを持ってきた夜、あの居酒屋。
あそこに、LANOSの人間がいた。
仁が俺にカプセルを渡したのは、「仁の意志」だけではなかったかもしれない。
俺はポケットの中で、白い封筒を握りしめた。
字義の光が、俺の肩の近くで、小さく揺れていた。




