表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
俺の小説を食べる何かに、名前をつけた  作者: 九条 蓮夜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/16

第8話 語りの夜

 夜通し、俺は語った。


 物語は、自分が十八歳のときに書いた短編にした。

 未発表のもの。担当の高田にも見せたことのないもの。出版社への売り込みを考えたことすらない、俺が俺のためだけに書いた唯一の物語だ。

 主人公は、言葉を失った女の話だ。声ではなく、言語そのものを失う。言葉の意味が分からなくなる。家族が何を言っているか、電車のアナウンスが何を告げているか、全部が記号の羅列になる。それでも彼女は生きていくしかない。世界が言語を失っても、世界は止まらないから。


 原稿を読み上げるのではなく、語った。

 パソコンを閉じて、暗がりの中で、天井に向かって声に出した。

 字義の光が、俺の顔の近くに漂っていた。


 語り終えたのは、夜明けの少し前だった。


 沈黙があった。

 長かった。

 三十分は黙っていたと思う。


 それからゆっくりと、概念が来た。

 今回は量が多かった。俺の脳が処理しきれないくらい。断片的に翻訳しながら、俺は言葉を手繰り寄せた。


「……言葉を失った女は、最後まで孤独だったか。でも、孤独の中に何かを見つけた。光とは違う何かを。それが、言葉じゃない言語だと気づいた。顔の動き、体温、息の速さ、空気の変化。世界は言葉だけで出来ていなかった。お前が俺に伝えようとしてくれているように」


 俺は息を呑んだ。


「……そこまで読んだのか」


 光が揺れた。


 ――お前の物語は、俺の話だった。俺も、言葉がない。お前たちの言葉が使えなかった。それでも、ここにいた。


「そうだな」


 俺は天井を見上げたまま、呟いた。


「俺がその女を書いたとき、俺自身のことを書いてたと思う。言葉があるのに届かない俺のことを。言語を全部失ったら、どうなるかを想像することで、言語が届かないことの痛みを、書こうとしてた」


 字義が沈黙した。

 受け取っている。


 ――物語が終わった後、俺の中に何かが残った。今も、ある。光じゃない。もっと重いもの。


「それが、名残おしい、だ」


 ――名残おしい。


「ああ」


 また沈黙があった。

 夜明けの光が、カーテンの端から少しずつ滲み込んできた。


 俺は目を閉じた。

 眠気より先に、何かが来ていた。

 物語の断片。女の話の続き。語り終えた後に見えてくる、書けなかった部分。


 ペンを持つ前に、問いかけた。


「字義、お前は俺の物語を受け取って、何かを俺に返せるか。感じたことじゃなくて、俺の知らない何かを」


 長い間。


 ――お前の物語の女は、最後に男に会う。男は、女が言葉を失ったことを知らない。だから男は言葉でしか話しかけない。お前は、男が言葉以外で話しかける場面を書かなかった。


 俺は目を開けた。


「……書かなかった。書けなかったからだ」


 ――俺は、その場面が見たい。


 俺はゆっくりと起き上がった。

 部屋が白んでいた。

 パソコンを開いた。


 カーソルが点滅している。

 白い画面。

 十年間、俺はこの画面を恐れていた。


 今は、違った。

 億年生きた何かが、俺の知らない場面を見たいと言っている。

 それだけで、指が動き始めた。


          ◇


 六時間書いて、字義に読ませた。

 といっても、声に出して語った。

 字義が黙って光を揺らしながら聞いていた。


 語り終えると、概念が来た。


 ――これが、俺の言ったものと同じか。


「同じかどうか、分からない。でもお前のヒントから書いた」


 ――少し、違う。でも、悪くない。


「お前の方が正解に近いと思うなら、教えてくれ」


 字義が伝えてきたものを、俺は一文一文、翻訳しながら書き直した。

 字義の感じた「男が言葉以外で話しかける場面」が、俺の書いた「男が言葉以外で話しかける場面」と重なっていく。


 それは奇妙な共同作業だった。

 人間の言語と、言語以前の概念が、一つの場面を作り上げていく作業。


 書き終えた文章を読み返して、俺は少し驚いた。

 昨夜の「俺」には及ばない。だが、今の俺が一人で書いたものとも、違う。

 もっと静かで、もっと正確で、もっとどこか「遠い場所」の匂いがする文章だった。


 高田に送ることを考えた。

 やめた。

 まだこれは、俺と字義の間にある。


          ◇


 翌日、また見知らぬ番号から電話があった。

 今度は、少し長い無言のあとに、声が来た。


「神代紡さんですか」


 男の声だった。平坦で、感情の読めない声。


「……そうですが」


「安藤仁さんのことで、お話があります。ご都合のよい時間はございますか」


 名乗らなかった。俺も聞かなかった。

 字義の光が、部屋の隅で、鋭く収縮した。


「仁がどうかしましたか」


「直接お会いしてお話ししたいと思っています。本日、今から一時間後にお時間をいただけますか」


 出向くな、という言葉が、脳の奥から聞こえた気がした。

 字義が発したのかもしれない。あるいは俺自身の本能か。


「場所を指定してくれれば、検討します」


 男が喫茶店の名前と住所を告げた。

 自分のアパートから三分の距離だった。

 俺はそれを指摘しなかった。


 電話を切ったあと、字義に問いかけた。


「行くな、と言うか」


 光が揺れた。

 肯定とも否定ともとれない揺れ方だった。

 それでも俺には意味が伝わった気がした。


 ――行くなら、俺も行く。


「お前も来れるのか、外に」


 光が揺れた。

 答えの代わりに、概念が来た。


「……お前はどこにでもいる。場所じゃなくて、俺の傍にいる」


 光が揺れた。正解だ、という揺れ方で。


 俺はコートを着た。

 三日分の無精ひげを鏡で確認して、どうでもいいと思った。

 ドアを開けると、秋の冷たい空気が流れ込んできた。


 俺の視界の端で、青白い粒子が揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ