第8話 語りの夜
夜通し、俺は語った。
物語は、自分が十八歳のときに書いた短編にした。
未発表のもの。担当の高田にも見せたことのないもの。出版社への売り込みを考えたことすらない、俺が俺のためだけに書いた唯一の物語だ。
主人公は、言葉を失った女の話だ。声ではなく、言語そのものを失う。言葉の意味が分からなくなる。家族が何を言っているか、電車のアナウンスが何を告げているか、全部が記号の羅列になる。それでも彼女は生きていくしかない。世界が言語を失っても、世界は止まらないから。
原稿を読み上げるのではなく、語った。
パソコンを閉じて、暗がりの中で、天井に向かって声に出した。
字義の光が、俺の顔の近くに漂っていた。
語り終えたのは、夜明けの少し前だった。
沈黙があった。
長かった。
三十分は黙っていたと思う。
それからゆっくりと、概念が来た。
今回は量が多かった。俺の脳が処理しきれないくらい。断片的に翻訳しながら、俺は言葉を手繰り寄せた。
「……言葉を失った女は、最後まで孤独だったか。でも、孤独の中に何かを見つけた。光とは違う何かを。それが、言葉じゃない言語だと気づいた。顔の動き、体温、息の速さ、空気の変化。世界は言葉だけで出来ていなかった。お前が俺に伝えようとしてくれているように」
俺は息を呑んだ。
「……そこまで読んだのか」
光が揺れた。
――お前の物語は、俺の話だった。俺も、言葉がない。お前たちの言葉が使えなかった。それでも、ここにいた。
「そうだな」
俺は天井を見上げたまま、呟いた。
「俺がその女を書いたとき、俺自身のことを書いてたと思う。言葉があるのに届かない俺のことを。言語を全部失ったら、どうなるかを想像することで、言語が届かないことの痛みを、書こうとしてた」
字義が沈黙した。
受け取っている。
――物語が終わった後、俺の中に何かが残った。今も、ある。光じゃない。もっと重いもの。
「それが、名残おしい、だ」
――名残おしい。
「ああ」
また沈黙があった。
夜明けの光が、カーテンの端から少しずつ滲み込んできた。
俺は目を閉じた。
眠気より先に、何かが来ていた。
物語の断片。女の話の続き。語り終えた後に見えてくる、書けなかった部分。
ペンを持つ前に、問いかけた。
「字義、お前は俺の物語を受け取って、何かを俺に返せるか。感じたことじゃなくて、俺の知らない何かを」
長い間。
――お前の物語の女は、最後に男に会う。男は、女が言葉を失ったことを知らない。だから男は言葉でしか話しかけない。お前は、男が言葉以外で話しかける場面を書かなかった。
俺は目を開けた。
「……書かなかった。書けなかったからだ」
――俺は、その場面が見たい。
俺はゆっくりと起き上がった。
部屋が白んでいた。
パソコンを開いた。
カーソルが点滅している。
白い画面。
十年間、俺はこの画面を恐れていた。
今は、違った。
億年生きた何かが、俺の知らない場面を見たいと言っている。
それだけで、指が動き始めた。
◇
六時間書いて、字義に読ませた。
といっても、声に出して語った。
字義が黙って光を揺らしながら聞いていた。
語り終えると、概念が来た。
――これが、俺の言ったものと同じか。
「同じかどうか、分からない。でもお前のヒントから書いた」
――少し、違う。でも、悪くない。
「お前の方が正解に近いと思うなら、教えてくれ」
字義が伝えてきたものを、俺は一文一文、翻訳しながら書き直した。
字義の感じた「男が言葉以外で話しかける場面」が、俺の書いた「男が言葉以外で話しかける場面」と重なっていく。
それは奇妙な共同作業だった。
人間の言語と、言語以前の概念が、一つの場面を作り上げていく作業。
書き終えた文章を読み返して、俺は少し驚いた。
昨夜の「俺」には及ばない。だが、今の俺が一人で書いたものとも、違う。
もっと静かで、もっと正確で、もっとどこか「遠い場所」の匂いがする文章だった。
高田に送ることを考えた。
やめた。
まだこれは、俺と字義の間にある。
◇
翌日、また見知らぬ番号から電話があった。
今度は、少し長い無言のあとに、声が来た。
「神代紡さんですか」
男の声だった。平坦で、感情の読めない声。
「……そうですが」
「安藤仁さんのことで、お話があります。ご都合のよい時間はございますか」
名乗らなかった。俺も聞かなかった。
字義の光が、部屋の隅で、鋭く収縮した。
「仁がどうかしましたか」
「直接お会いしてお話ししたいと思っています。本日、今から一時間後にお時間をいただけますか」
出向くな、という言葉が、脳の奥から聞こえた気がした。
字義が発したのかもしれない。あるいは俺自身の本能か。
「場所を指定してくれれば、検討します」
男が喫茶店の名前と住所を告げた。
自分のアパートから三分の距離だった。
俺はそれを指摘しなかった。
電話を切ったあと、字義に問いかけた。
「行くな、と言うか」
光が揺れた。
肯定とも否定ともとれない揺れ方だった。
それでも俺には意味が伝わった気がした。
――行くなら、俺も行く。
「お前も来れるのか、外に」
光が揺れた。
答えの代わりに、概念が来た。
「……お前はどこにでもいる。場所じゃなくて、俺の傍にいる」
光が揺れた。正解だ、という揺れ方で。
俺はコートを着た。
三日分の無精ひげを鏡で確認して、どうでもいいと思った。
ドアを開けると、秋の冷たい空気が流れ込んできた。
俺の視界の端で、青白い粒子が揺れていた。




