第7話 物語の重力
高田から催促のメールが来た。
『神代さん、進捗はいかがでしょうか。編集会議まであと十日です。第二章の冒頭だけでも送っていただけますか』
十日。
俺は返信せずにスマートフォンを伏せた。
薬なしで字義の光が見える状態は、感覚遮断と睡眠剥奪を組み合わせれば再現できる。だが、それが執筆の「覚醒状態」と同じかどうかは別の話だ。あの夜の万能感は戻っていない。字義と話すことはできる。しかし、原稿を書こうとすると、指が止まる。
書けない。
正確には、書けるが「昨夜のあいつ」が書いたものと並べると、子供の落書きにしかならない。
俺はパソコンを開き、字義に問いかけた。
「お前、俺が薬を飲んだ夜の原稿を読んだだろう。あれと、今の俺が書くものと、どう違う」
概念が来た。
「……速さが違う。密度が違う。薬の夜は、光が川のように流れていた。今は、水滴がぽつぽつと落ちている」
光が揺れた。補足するように、追加の概念が来た。
「……でも、今の方が俺には分かりやすい。薬の夜の光は速すぎて、俺が全部受け取れなかった」
俺は顔を上げた。
「速すぎて受け取れなかった?」
――そう。光が濃いのと、俺に届くのは別のこと。川は速く流れすぎると、飲めない。
「じゃあ今の俺の方が、お前には美味いのか」
しばらく間があった。
――違う。美味さは川の方が上。でも、今の方が一緒にいる感じがする。
一緒にいる。
その言葉が、俺の中に変なふうに刺さった。
美味い、届く、一緒にいる。字義の語彙が少しずつ豊かになっている。俺との対話を経て。
「お前に聞いていいか。物語、って分かるか。俺の書いてるもの全体のことだ。始まりがあって、変化があって、終わりがある。そういう構造」
長い沈黙があった。
これまでとは種類の違う沈黙だった。
字義が俺の語彙を漁っているのではない。
何かを思い出しているような、あるいは探しているような、内向きの静けさ。
やがて、概念が来た。
今回は翻訳が難しかった。抽象的な塊が、複数、同時に届いた。俺はそれを一つずつ解きほぐすように言語化した。
「……お前は、物語を知っている。人間が最初に物語を作ったときから、ずっと見てきた。でも、今まで食べる側にいたから、構造は気にしていなかった。光の味だけを受け取ってた」
光が強く揺れた。正確に伝わったという感触。
「構造を知りたいか」
光が揺れた。
揺れ方が、肯定の時と少し違った。
知りたい、ではなく――怖い、に近い何かを帯びていた。
「怖いのか?」
長い間。
――物語には、終わりがある。終わりのあるものを好きになると、終わりが来たとき、どうなるか分からない。
俺は二秒、絶句した。
それから、おかしくて、笑いそうになった。
億年生きた存在が、物語の「終わり」を怖がっている。
「お前は読んだことがないのか。終わりまで」
――読んだ。でも、終わりの後の光が、急に消えた。消えたとき、何かを感じた。名前を知らない何かを。
「それが何か、俺には分かる」
俺はキーボードに両手を置いた。
原稿ではなく、メモ帳に。
「物語が終わったとき、人間はその物語のことをずっと覚えていることがある。光が消えても、物語が自分の中に残る。その名前は、名残おしいとか、悲しいとか、あるいはただ好きだ、という感情だ」
字義が黙っていた。
受け取っている気配があった。咀嚼そしゃくするように、長く。
そしてゆっくりと、概念が来た。
俺は翻訳した。
「……お前は今まで、光を食べて、終わったら忘れていた。でも俺と話すようになってから、終わった物語のことを、まだ覚えている」
光が、弱く揺れた。
弱く、だが長く。
俺はその光をしばらく見ていた。
窓の外はもう夜だった。
コンビニのバイトを三日間無断欠勤していることを、今さら思い出した。
どうでもよかった。
今は、この会話が途切れてほしくなかった。
「俺が、物語を最初から最後まで、お前に聞かせようか」
光が強く揺れた。
「読ませるんじゃなく、語る。俺が言葉で、お前に一つの物語を手渡す。構造も、光も、終わりも、全部含めて」
――聞きたい。
「一つ条件がある」
字義が待った。
「お前が受け取ったものを、俺に返してくれ。感じたことを。終わった後に何が残ったかを。それを俺に言葉で教えてくれ」
沈黙があった。
字義が俺の言葉の意図を測っているような、慎重な沈黙。
――それが、お前の光になるのか。
「たぶんな」
俺は正直に言った。
高田への嘘を果たすために、俺には字義が必要だ。字義の受け取ったものを「翻訳」することで、俺の書けなくなった部分が、もしかしたら動くかもしれない。そういう打算が、確かにあった。
だが、それだけじゃないことも、分かっていた。
「お前と話すと、書きたくなる。それが一番の理由だ」
光が、今夜一番強く揺れた。




