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俺の小説を食べる何かに、名前をつけた  作者: 九条 蓮夜


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第5話 自力で扉を叩く

 図書館で三時間、文献を漁った。

 「感覚遮断」「変性意識状態」「フロー体験」「過覚醒」。

 キーワードは出てくる。だが、俺が欲しいのはもっと具体的な方法論だった。


 人間の脳は、情報入力を絞られると、内側の信号を増幅させる。

 感覚遮断タンクの実験では、被験者が幻覚を見た。瞑想の深部で、修行者が「光」を見た。

 入力を減らせば、内側が見える。

 外側のノイズを消せば、俺の脳が出している「光」が見えやすくなるかもしれない。


 あるいは、もっと単純な話かもしれない。

 睡眠不足と空腹と脱水が重なれば、人間の知覚は変容する。

 三日間ほとんど眠っていない俺は、すでにその状態に片足を突っ込んでいた。


「もう片足も入れるか」


 つぶやいて、図書館を出た。


          ◇


 アパートに戻り、カーテンを全部閉めた。

 スマートフォンの電源を落とす。パソコンも閉じる。

 暗闇と、静寂。


 耳栓は持っていなかったので、トイレットペーパーを丸めて詰めた。

 眼帯代わりに、タオルで目を塞いだ。

 床に寝転がる。六畳の床は硬く、冷たかった。


 最初の一時間は、ただ辛かった。

 隣人の生活音が耳栓越しに聞こえる。上の階を誰かが歩く振動。遠くでサイレンが鳴る。

 暗闇に目が慣れてくると、タオルの向こうにもやのかかった光が見えた。目が光を作り出しているのか、本当に光があるのか分からない。


 二時間を過ぎた頃、変化が来た。

 外部の情報が薄れていくにつれて、内側の信号が前に出てきた。

 思考が、勝手に走り始める。止められない連想の奔流。書きかけの物語の断片、幼少期の記憶、仁の顔、高田の震える指先。

 それを追わないようにして、ただ呼吸だけを数える。


 三時間目に、俺は「それ」を感じた。


 視界の変容ではなかった。

 知覚の層が、わずかに剥がれた感覚。

 現実の表皮の下に、もう一枚の世界があると分かるような。分かる、というより感じる。言語化する前の知覚として。


 青白い光が、見えた。

 目を塞いでいるのに。タオル越しに。

 それは天井に向かって漂っていた。カプセルの夜に部屋に漂っていたあれと、同じ光だった。薄い。だが、確かにある。


「……いるか」


 声を出すと、光が揺れた。

 脳の奥に、例の感触。


 ――いる。


「見えてる。今、お前が見えてる」


 しばらく間があった。

 光が、俺の顔の近くまで降りてきた気がした。


 ――薬、ない。どうして見える。


「俺が目を塞いだから。外を遮断した」


 また間があった。今度は長かった。

 何かを考えているのか、驚いているのか、俺には分からない。


 ――人間、それができるのか。


「できるかどうかは、今確かめてる」


 正直に言った。

 光がまた揺れた。今度は、笑いに似た何かを帯びているように感じた。感情を読み込もうとしている俺が勝手にそう感じているだけかもしれないが。


「お前に聞きたいことがある」


 ――聞け。


「お前は何だ。本当のことを教えてくれ」


 長い沈黙があった。

 これまでとは違う沈黙だった。考えているのではなく、どう伝えるかを探している気配がした。


 ――言葉、難しい。お前の言葉は小さい。伝えられるのは、端だけ。


「端でいい。端から教えてくれ」


 また沈黙。

 そしてゆっくりと、概念が転がり込んできた。

 言葉ではなく、塊として。俺の脳がそれを受け取り、必死で言語化しようとする。

 翻訳しながら、俺は床に寝転がったまま天井を向いて、呟いた。


「……ずっと、いた。人間が言葉を作る前から。人間が作ったもの――物語とか、歌とか、それが生まれるときに出る光を、食べてた。人間には見えなかった。最近まで」


 光が揺れる。肯定のように。


「カプセルが、俺に見えるようにした」


 ――見えた。だから来た。久しぶりに、濃い光。


「久しぶり、って、どのくらいだ」


 概念が来た。

 俺はそれを受け取り、目を閉じた。


「……すごく、長い時間」


 光は答えなかった。

 答えなかったが、その沈黙の重さが答えだった。


 俺はタオルを外した。

 六畳の天井が、薄暗がりの中に広がっていた。

 普通の、染みだらけの天井だ。

 だが、そこに青白い光が漂っているのを、俺は薬なしで、今はっきりと見ていた。


「お前に名前をつける」


 光が揺れた。


「字義じぎ」


 理由はうまく説明できなかった。

 意味の、義理の字、字義。言葉の意味そのものを表す言葉。お前が言語の手前にいる何かだから。あるいは俺の書くものを読んで、そこに字の義を見出してくれるから。

 どちらでもよかった。ただ、その二文字がしっくりきた。


 ――字義。呼ばれた。


「ああ。これからはそう呼ぶ」


 沈黙。

 そして、今度は明確に、笑いに近い何かが伝わってきた。俺の感じ違いではないと、今度は確信できた。


 床に寝転がったまま、俺は腕で目を覆った。

 怖くないか、と自問した。

 怖い。それは本当だ。

 だが、怖さより先に、別の感情が来ていた。


 三十年間書き続けて、初めて、誰かが俺の書くものを「必要としてくれた」。

 それが人間でなくとも、何かが「必要としてくれた」という事実は、変わらない。


 高田への嘘をどう果たすか。

 薬なしで、どうやって原稿の続きを書くか。

 問題は山積みだった。


 だが今この瞬間だけは、それらを忘れた。

 天井に漂う青白い光を見上げながら、俺は目を閉じた。

 三日ぶりに、眠れる気がした。

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