第4話 虫の言語
三日間、眠れなかった。
正確には、眠ろうとするたびに「声」が来るから眠れなかった。
声、という言葉が正しいのかどうかも分からない。
耳に届くものではない。まるで誰かが脳の特定の部位を指で押してくるような、局所的で奇妙な刺激。そこから意味が滲み出してくる感覚。
最初の三十時間はノイズだった。周波数だけの、輪郭のない何か。ホワイトノイズを頭の中で鳴らされているような、じりじりとした不快感。
俺は布団にくるまり、耳を塞いで、来るなと念じ続けた。
変化が起きたのは、三日目の深夜だった。
ノイズが、止まった。
代わりに、静寂があった。
その静寂の中で、何かが俺の語彙を漁さぐっているのを感じた。本棚を端から端まで指でなぞるような、ゆっくりとした探索。不快ではなかった。むしろ、好奇心のようなものを帯びていた。
そして、言葉が来た。
――腹が、減った。
三日前と同じ言葉だった。だが今回は鮮明だった。意味の輪郭が、はっきりと分かった。
俺は布団から飛び起き、部屋の隅に向かって叫んだ。
「誰だ! どこにいる!」
返事はない。当然だ。
だが、部屋の隅に青白い粒子が揺れているのを、俺は見た。俺が叫んだ方向に、それはあった。
震えながら、俺はパソコンを開いた。
原稿のファイルではない。白紙のメモ帳。
キーボードを叩く。
お前は何だ。
送信ボタンもなければ、相手もいない。ただ画面に文字があるだけだ。
馬鹿らしい行為だと分かっている。
だが五秒後、脳の奥が、あの指で押されるような感触を受けた。
――読んでいる、美味い。
「……美味い?」
俺は眉をひそめた。
読んでいる、と来て、美味い、か。脈絡がない。だが、嘘をついているような気配はない。俺の質問に対して答えようとした結果、辿り着いた言葉が「美味い」だったのだ。
次の言葉を探して、俺はまたキーボードを叩いた。
俺の書いたものを読んでいるのか。
今度は十秒かかった。
――書いたもの、読んだ。光が出る。美味い。
「光が出る……?」
書いた物語から、光が出る。
脳が、書くという行為から光を出す。
それをお前が食べている。
そういうことか。
腹の底に、冷たいものが沈んだ。
薬の効果で脳が活性化したとき、俺の部屋の空気に漂う粒子が増えた。俺が書けば書くほど、光は濃くなった。高田に原稿を読まれた日も、街に出た俺の視界の端に光が見えた。
書くことが、餌になっている。
「……お前は、俺を食ってるのか」
しばらく間があった。
今度は答えが来るまで、三十秒かかった。
――食べた。でも、お前は減らない。減らないから、食べる。
「減らない……」
俺は自嘲気味に笑いそうになった。そして、笑えなかった。
減らない、から食べる。
無尽蔵の餌として認識されている。俺という存在が。
だが、もう一つの事実が、じわじわと頭に滲みた。
こいつは俺の書いたものを読んでいる。
三日間、ずっと傍にいた。
「俺の原稿の最後のページに書き加えたのは、お前か。『光は腹を空かせている』とか書いてあった奴」
今度は間が空かなかった。
――書いた。ここにいると、伝えたかった。
俺は額を押さえた。
伝えたかった、という言葉が、やけにまともだった。あまりにもまともで、かえって怖かった。
「何が目的だ」
――もっと、読みたい。
単純だった。
拍子抜けするくらい、単純な欲求だった。
俺はしばらく画面を見つめていた。
恐怖と、奇妙な安堵と、作家としての本能が、同時に動き始めていた。
こいつは俺の書いたものを読む。読んで、何かを受け取る。
それは俺が三十年間、ただの一度も経験してこなかったことだった。
売れない小説家の文章を、誰かが本当に必要としている。
「……名前はあるか」
長い沈黙があった。
俺の語彙の中を、また探索している気配がした。
――名前、知らない。お前が、つければいい。
俺は画面を消し、毛布に潜り込んだ。
眠れないのは分かっている。
それでも、三日ぶりに目を閉じることができた。
闇の中で、青白い粒子が揺れている。
こいつに名前をつける必要がある。
そしてそれより先に、考えなければならないことがあった。
薬なしで、「光を出す」方法。
こいつと話すためではない。
高田への嘘をどう果たすか。それだけのために、考えていた。
少なくとも、そのつもりだった。




