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俺の小説を食べる何かに、名前をつけた  作者: 九条 蓮夜


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第2話 灰色の朝と、忘れられない光

 目が覚めると、俺は「俺」に戻っていた。

 カーテンの隙間から差し込む日差しが、網膜を不快に刺激する。

 頭が重い。二日酔いの比ではない。脳みそを金たわしで直接こすられたような、ざらついた倦怠感けんたいかんが全身を支配している。


「……あ、あー……」


 声を出してみる。酷くしわがれていた。

 体を起こそうとして、ベッドから転がり落ちそうになる。平衡感覚がおかしい。

 昨夜のあの感覚――神の視点、万能の計算能力、指先から火花が散るような執筆の快感――は、跡形もなく消え失せていた。


 夢だったのか?

 そう疑いかけた俺の目に、異様な光景が飛び込んでくる。


 部屋の空気が、変わっていた。

 足の踏み場もなかったゴミ溜めが、異常な秩序で支配されている。

 本は出版社と判型ごとにミリ単位で整列し、散乱していた衣類は色相順に畳まれ、直角に積み上げられている。掃除ではなく、まるで何らかの「整列の儀式」が行われた後のようだった。


 そして、机の上には原稿の束。

 パソコンのスリープを解除すると、そこには昨日まで一行も書けなかった新作の、完成原稿が表示されていた。


「……なんだ、これ」


 恐る恐る読み返し、俺は息を呑んだ。

 文字の羅列が、有機的な意味の塊となって脳を殴りつける。

 無駄がない。接続詞一つ、読点一つに至るまで、黄金比で構成されたかのような完璧な文章。

 面白い、という感情すら湧かない。ただ圧倒的な質量の前に、読み手の俺が圧死しそうだ。

 俺は昨夜、間違いなく「人間を超えた何か」になっていた。

 そして今、ただの無能な抜け殻に戻ったのだ。


 一つだけ引っかかることがあった。

 原稿の最後の数ページだ。

 物語の結末を書いたはずの箇所に、奇妙な段落が混入していた。物語とは無関係の、散文のような断片。


 ――光は腹を空かせている。

 ――言葉に近い何かが、この部屋を泳いでいた。

 ――お前はまだ知らない。扉には、内側からも鍵がかかる。


 覚えていない。こんなもの、俺は書いた記憶がない。

 昨夜の「俺」が書いたのか。それとも、別の何かが書き加えたのか。

 頭痛をこらえながら選択し、バックスペースキーを押す。削除した。

 深く考えるのはやめた。今は、これを編集部に持ち込むことだけを考えればいい。


          ◇


 昼過ぎ。

 俺は編集部のあるビルの一室にいた。

 対面には、担当編集の高田たかだ。いつもなら俺の原稿をパラパラと見ては溜息をつく男が、最後の一枚を読み終えても、しばらく顔を上げない。

 会議室の静寂が痛い。エアコンの送風音だけが耳障りに響く。


 やがて、高田がゆっくりと眼鏡を外した。その指先が、微かに震えているのが見えた。


「……神代かみしろさん」

「は、はい」

「何を、『した』んですか?」


 心臓が跳ねる。

 高田の目は笑っていなかった。疑っているのではない。畏怖しているのだ。目の前の冴えない男が、一夜にして怪物に変貌した理由を探るように。


「文体の癖は、確かにあなたのものだ。ですが、出力されている思考の密度が違う。スーパーカーのエンジンを、軽自動車に無理やり積んだような……歪いびつなほどの凄みがある」


 高田が身を乗り出す。


「傑作です。編集者人生で、これほどの原稿には出会ったことがない。すぐに連載会議にかけます。いや、単行本化も視野に入れましょう」


 夢にまで見た言葉の数々。

 だが、俺の心は冷えていた。

 高田が褒めているのは「俺」じゃない。「薬」だ。


「それで、神代さん。続きは? このクオリティで、最後まで書けるんですね?」


 その問いに、喉が詰まる。

 書けるわけがない。今の俺の頭の中は、空っぽの廃品置き場だ。昨日の自分なら一秒で処理できた情報が、今は霧の向こうにあるように掴めない。

 だが、ここで「書けません」と言えば、このチャンスは永遠に失われる。

 借金、バイト生活、周囲の嘲笑……あの惨めな日々に戻るのか?


「……もちろんです。構想は、もう出来ています」


 俺は嘘をついた。

 顔面が引きつるのを必死で抑え込んで。


          ◇


 編集部を出ると、街は灰色だった。

 行き交う人々の話し声が、不協和音となって鼓膜を叩く。車の排気ガスが鼻をつく。


 昨夜の俺には、これが違って見えていたはずだ。全てが情報として処理され、雑踏の中の一人一人の息遣い、視線の軌道、会話の断片からその人物の内面を読み取ることができた。

 今は、ただうるさいだけだ。


『効き目は一日』


 仁の言葉通りだ。魔法は解け、世界は再び低解像度のノイズに埋め尽くされた。

 吐き気がする。

 この汚泥のような現実を、シラフの脳で処理し続けることに耐えられない。

 知ってしまったのだ。あのクリアな視界を。全能感を。神の座から引きずり下ろされた今、呼吸することさえ億劫だ。


「くそっ……!」


 ガードレールを蹴り飛ばす。

 欲しい。

 あの思考の加速が。あれがないと、もう生きていけない。


 俺はポケットを探った。空っぽだ。

 仁からもらったのは一錠だけ。馬鹿な俺は、それを昨夜使い切ってしまった。

 スマートフォンを取り出し、仁の番号をタップする。


『おかけになった電話番号は、現在使われておりません――』


 無機質なアナウンス。

 耳を疑い、画面を見つめ直す。何度かけても同じだ。着信拒否ですらない、番号そのものがネットワークから消滅している。

 焦りが、冷や汗となって背中を伝う。


「ふざけんなよ、仁……! こんな極上の餌えさをぶら下げておいて、梯子を外すのかよ!」


 どうする?

 諦めるか?

 無理だ。あの原稿の続きは、今の俺のポンコツな脳味噌では一行だって書けやしない。高田にあんな大見得を切ってしまった以上、後戻りはできない。


 俺は記憶の底をさらう。

 同窓会の名簿。港区のタワーマンション。


「行くしか、ない」


 高田に頼んで前借りさせてもらえばいい。土下座でも靴舐めでも何でもやる。

 俺は通りかかったタクシーを強引に止めた。

 金なら後でどうにかなる。


 車が走り出す直前、視界の端で何かが光った気がした。

 横断歩道の群衆の向こう、ビルとビルの隙間に差し込んだ西日の反射だろうか。

 いや、違う。あの青白い粒子だ。

 昨夜の部屋に漂っていたのと同じ光が、都市の空気の中に、薄く、確かに、ある。

 俺が覚醒していた間だけ見えていたはずの何かが、完全に消えていない。

 微かに、残滓として。


 タクシーの窓が閉まり、都市の喧騒が遠くなった。

 今はただ、あの一錠が、あの「青い光」がどうしても必要だった。

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