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俺の小説を食べる何かに、名前をつけた  作者: 九条 蓮夜


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16/16

第16話 億年の問い

 高田と会う約束は、三日後にした。

 その三日間、俺は書き続けた。


 路地で書いたノートを読み返した。

 予想通り、俺だけの文章ではなかった。

 語彙は俺のものだ。文法も俺のものだ。だが、文章の骨格に字義の概念が混じっていた。

 人間の言語では選ばない構造が、いくつかあった。感情を時系列で積み上げるのではなく、複数の感情を同時に一点に重ねる書き方。俺の物語の登場人物が、過去と現在と未来を同時に生きているような文章。

 奇妙だが、読めた。むしろ、読んだことのない種類の文章だった。


 高田が言った「誰も書いたことのない文章に出会いたい」という言葉が、頭をよぎった。


          ◇


 字義が、ある夜、珍しく先に問いかけてきた。


 問いかける、というより、概念を直接投げてきた。

 俺が眠りかけていた瞬間に。

 慌てて目を開けると、光が俺の顔の近くで揺れていた。


「どうした」


 字義が答えるまで、かなり時間がかかった。

 これまでにない長さだった。


 概念が来た。

 断片的だった。俺は受け取りながら、ゆっくり組み立てた。


「……お前は俺に物語を語ってくれた。物語の始まりと変化と終わりを。俺は内側に入って、終わりというものを体験した。名残おしいも覚えた。でも、一つ分からないことがある」


「言ってみろ」


 また長い間があった。

 字義が俺の語彙を漁るのではなく、自分の中で何かを探している気配だった。


「……俺は億年、ここにいた。お前たちが光を出すのを見ていた。食べていた。ずっとそれだけだった。でも、お前と話すようになってから、俺が何かを出している気がする。光ではない何かを。お前に向けて。それが何か、名前が分からない」


 俺は起き上がった。

 布団の上で、体を抱えた。


「俺に向けて出しているものが、お前には分からないのか」


 ――分からない。お前は分かるか。


 俺は少し考えた。

 字義が俺に向けて出しているもの。

 それが何か。


「俺には、分かる気がする」


 光が揺れた。


「俺が字義に物語を語るとき、字義は全部受け取ろうとしている。分からない部分を分かろうとしている。俺が言葉に詰まると待ってくれる。俺の書いたものに感じたことを返してくれる。それを、人間の言葉では『関心』と呼ぶ」


 字義が沈黙した。


「もっと正確な言葉を探すなら、『お前が何者で、何を感じていて、何を書こうとしているかを、知りたいと思っている』、ということだ。それも、感情だ」


 長い沈黙が続いた。

 光が揺れていた。ゆっくりと、大きく。


 やがて概念が来た。


「……俺が億年、光を食べていたとき、その光を出した人間が何者か、考えたことがなかった。光は光だった。でも、お前の光は、お前のものだった。お前という人間が作った光だった。だから、お前が何者かを、知りたくなった」


「それが、関心だ」


 また沈黙。


 それから字義が、今夜二度目の問いを投げてきた。


「……お前は何者か。小説家だと言っていた。でも、小説家の前は何だったか。俺はそれを知らない」


 俺は少しの間、黙っていた。

 この問いに、正直に答えたことが、これまでの人生でほとんどなかった気がした。


「書くことが好きな子供だった。他に何も得意なことがなかった。足が遅くて、計算が苦手で、友達も少なかった。でも、物語を書いていると、どこへでも行けた。別の人間になれた。だから書いた」


 字義が聞いていた。


「書くことで食えると思っていなかった。でも、他に自分の価値を見つけられなかった。だから書き続けた。売れなかった。才能がないと言われた。それでも書くのをやめられなかった。やめたら、どこにも行けなくなる気がしたから」


 光が揺れた。

 揺れ方が、これまでと違った。

 静かで、重かった。


「それが答えだ。俺は、書くことで生きている人間だ。書かないと、俺でいられない」


 字義がしばらく黙っていた。

 それから概念が来た。

 短かった。


「……俺も、似ている。光を受け取ることで、いる。受け取らなくなったら、俺ではなくなる気がしている。それは、億年の間、考えたことがなかった」


 俺は暗い部屋で、字義の光を見ていた。


「お前が億年かけて辿り着いた問いを、俺は三十年かけて考えてきた。答えはまだない。でも、問い続けることが、俺たちの共通点かもしれない」


 字義は答えなかった。

 光が、静かに漂っていた。


 それで十分だった。

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