第15話 書き換える
一時間、書き続けた。
途中で手が悴んで、文字が滲んだ。
途中で字義の光が揺れながら「もう少し」と告げた。
途中で地下のドアが内側から開く気配がして、俺は壁から身を剥がして路地の影に移動した。
誰も出てこなかった。
センサーか何かが、外の異変を感知したのかもしれない。
書き続けた。
字義が書いているものを、物語の内側で受け取っていた。俺が感じながら書いていた。字義が物語の空気に溶け込んでいる感触。外から光を食べるのではなく、物語の中に入って、中から物語と一緒にいる。
それが今、光として放たれている。
一時間後、字義が告げた。
「……終わった。近づいていた個体は、離れた。偽の匂いから、離れた」
俺は書くのをやめた。
壁にもたれ、息を整えた。
手が痙攣していた。冷たさというより、書き続けた疲労で。
「装置は止まったか」
――止まっていない。まだ動いている。でも、誘引できなくなった。
「どう違う」
字義が答えるまで少し間があった。
――偽の光は、本物の光と比べられると、偽だと分かる。分かると、もう引き寄せられない。装置はまだ動いているが、俺たちには届かない。匂いの意味が変わった。
俺はノートを閉じた。
書き上げたものを読み返そうとして、やめた。今は読む状態じゃない。
「これで終わりか」
字義が少し間を置いた。
――たぶん、装置を別の場所に移すか、強化するか、LANOSは考えるだろう。今日は、今日だけだ。
「分かってる」
俺は立ち上がった。
雑居ビルの路地を出ると、夕方の光が差し込んでいた。通勤帰りの人々が道を歩いていた。
誰も俺を見ていなかった。当然だ。
壁にもたれてノートに何か書いている三十前の男が、情報生命体と連携して組織の罠を無効化した、などと誰も思わない。
おかしくて、少しだけ笑った。
字義の光が、俺の肩の辺りで揺れた。
笑いに似た揺れ方だった。
「お前も笑うのか」
――笑い方を覚えた。お前から。
「いつの間に」
――名残おしいを覚えたのと同じ頃。物語の内側にいたとき。
俺は歩きながら考えた。
字義が感情を学習している。俺との対話を通じて、人間の感情の輪郭を身につけていっている。それは仁が警告した「境界が薄くなる」こととは、違う気がした。
仁のケースは、仁が字義の側に引き込まれた。
字義のケースは、字義が俺の側に学んできている。
方向が逆だ。
だが、方向が逆でも、境界が薄くなっていることは同じかもしれない。
電車に乗りながら、字義に問いかけた。
「今日、物語の内側にいたとき、俺が書いているものが変わったのが分かったか」
――分かった。途中から、物語がお前だけのものではなくなった。俺も、中にいた。
「それは、俺が意図したことじゃなかった。書いていたら、そうなった」
字義が少し間を置いた。
――俺も、意図しなかった。入ったら、そうなっていた。
「それが怖くないか」
今度は長い間があった。
電車が駅に停まり、人が乗り降りする。
また動き出す。
概念が来た。
「……怖い。でも、名残おしいに似ている。怖さと名残おしいは、どちらも、大切なものに近いところにある感情だ。そう、お前の物語から学んだ」
俺は窓の外を見た。
夕暮れの街が流れていた。
字義が怖さと名残おしいを同じ文脈で語った。
それは俺が教えたことではなかった。字義が物語から自分で学んだことだった。
俺は今日書いたノートのことを考えた。
読み返していなかった。
家に帰って読み返したら、何が書いてあるか分からない。俺の言語だけで書いたのか、字義との共同作業になっているのか、自分でも分からない。
高田に言った言葉を思い出した。
「読者ではない何かが、内側から物語を見たときに感じるものを、書いた」。
今日書いたものは、その先にある。
俺と字義が、同時に内側にいて、同時に書いた物語だ。
人間と情報生命体の、最初の共著。
誰にも読まれない、路地の壁際で書いた、最初の共著。
電車が終点に近づいた。
車内アナウンスが流れた。
字義の光が、窓ガラスに映って揺れていた。
俺は携帯を取り出し、高田に短いメールを打った。
『第三章の構想ができました。近いうちに会えますか』
送信ボタンを押した。
嘘じゃなかった。
初めて、嘘じゃない約束を高田にした。
それが少しだけ、嬉しかった。




