第14話 罠の形
仁のラボから帰って三日後、字義の様子が変わった。
最初は微細な変化だった。
概念の伝達が、少しだけ遅くなった。俺が問いかけてから、返ってくるまでの間が、これまでより長い。
次に、光の揺れ方が変わった。いつもはゆるやかに漂っているのに、細かく、速く震えるようになった。
俺の知っている字義の揺れ方ではなかった。
「何かあったか」
字義が長い間を置いた。
概念が来た。
今回は翻訳が難しかった。不快と恐怖の中間にある何かと、もっと抽象的な「引力」の感覚が混在していた。
「……何かに引っ張られている。遠い方向から、引力がある。お前の傍にいるために、力が要るようになった」
「引力の源はどこだ」
字義が答えるまで、一分かかった。
「……南の方向。遠い。でも強い。人間が作った、何かが出している力」
人間が作った引力。
LANOSだ、と俺は直感した。
仁のラボを訪れたのを知って、何か手を打ってきた。
俺はすぐに動いた。
地図アプリで南の方角を調べる。電車を乗り継いで向かえる範囲で、LANOSの関連施設がないか。
担当者の名刺には住所がなかった。が、渡された封筒の印刷から、発送元の郵便番号が読めた。それを手がかりにすると、南の方角、電車で四十分の地域に、LANOSの関連法人と思われる住所が浮かんだ。
字義に言った。
「行ってみる。一緒に来られるか」
光が揺れた。
来る、という揺れ方だった。だが、いつもより重い揺れ方だった。引力に逆らって動くための、力を使っている気配。
◇
電車の中で、字義の光が薄くなっていた。
南に向かうにつれ、光の密度が落ちていく。
それでも消えなかった。字義はいた。
目的地で降りると、雑居ビルが立ち並ぶ一角に出た。
その中の一棟、地下に降りる階段を、字義の光が示した。
看板は何もない。だが、ドアの前に立つと、俺にも分かった。
空気の質が違った。
薬品の臭いではなかった。
もっと電気的な、精密機器が稼働しているような気配。そして、それとは別の、「情報が吸われていく」ような感覚。
「ここだ」
字義の光が、強く収縮した。
縮むことで、引力に抵抗しているように見えた。
「中に何がある。分かるか」
字義が時間をかけて答えた。
「……俺たちを引き寄せるための装置。光の匂いを真似ている。人間が書いたものや作ったものの匂いを人工的に作り出して、俺たちを呼び寄せる。近づくと、動けなくなる。逃げられなくなる」
蜘蛛の巣だ、と思った。
獲物の振動を模した糸を張って、本物が来るのを待つ。
「お前が引っ張られていたのは、この匂いか」
――そう。でも本物じゃないと分かっていた。ただ、無視できないくらい強い。
「他にも引き寄せられている個体はいるか」
字義が少し間を置いた。
――いる。近くに、二体か三体。まだ遠い。でも近づいている。
「止められるか、その個体たちを」
字義がまた間を置いた。
――俺には止められない。俺たちは、互いの動きに干渉できない。
俺は階段の前で立ち止まり、考えた。
LANOSの装置を物理的に止めることは、今の俺には無理だ。中に入れば捕まる。
外から何かできることはないか。
作家の本能が動いた。
ルールを変えろ。物語の構造を変えるように、状況のルールを変えろ。
「字義。この装置が出している『光の匂い』は、何を模しているんだ」
――人間が何かを創るときの光。書くとか、作るとか、歌うとか。創造の瞬間の匂い。
「本物の光とどこが違う」
しばらく間があった。
字義が考えている気配。
「……終わらない。本物の創造の光は、始まりと途中と終わりがある。この装置の匂いは、途中のまま終わらない。ずっと続く」
俺はそれを聞いて、手の中で何かが結びついた感触があった。
物語の構造だ。
始まりがあって、変化があって、終わりがある。それが物語だ。
LANOSの装置が発する偽の光には、終わりがない。ずっと途中のまま続く。
本物の光があれば、偽の光は「比較されて、偽だと分かる」。
比較対象を作ればいい。
「俺が、ここで書けば、本物の光が出るか」
字義の光が揺れた。
――出る。だが、この装置の引力の中で書けるか。
俺はノートを取り出した。
最後のページに、仁の言葉を書き写してあった。
『彼らが俺たちの何かになれるとしたら、何になれるか』
それを見ながら、書き始めた。
場所は違う。状況は違う。でも、ここで生まれた光なら、本物だ。
書いた。
ビルの地下への階段の前で、雑居ビルの冷たい外壁にもたれながら、ノートに書いた。
物語の断片。字義のことを、字義の言葉を借りながら、書いた。
光が出るのを感じた。
字義が感じているように、俺も感じた。自分が書いているものから、何かが放たれていく感覚。
字義が教えてくれた。
「……本物の光が出ている。偽の匂いとは、違う。近づいていた個体たちが、止まった。比べている」
「偽だと気づくか」
――気づく。時間がかかるが、気づく。
俺は書き続けた。
寒かった。手が悴んでいた。
それでも書いた。
偽の光が本物の光に敗けるまで、書き続けた。




