第10話 物語の内側
その夜、俺は原稿を書いた。
高田への返信は、まだしていない。
LANOSの白い封筒は、机の引き出しにしまった。
仁がどういう状態なのかも、まだ確かめていない。
それらを全部後回しにして、書いた。
字義のために書いた、と言えば嘘になる。
字義のおかげで書けた、というのが正確だ。
題材は、仁の話にした。
実名ではない。俺が知っている範囲での「安藤仁」という人間を、全部架空の名前に変えて、一人の男の話にした。才能があって、裕福になって、それでも何かに手を伸ばし続けた男の話。手を伸ばした先に何があったかを、俺はまだ知らないから、そこは書かなかった。手を伸ばすまでの話だけ書いた。
夜明け近くに書き終えて、字義に語った。
字義は長く黙っていた。
いつもより長かった。
俺は待った。
概念が来た。
「……この男は、お前か」
「仁のことを書いた。だが、そうかもしれない」
俺は正直に答えた。
仁と俺は、手を伸ばした先が違うだけで、同じ場所に立っていたのかもしれない。
――この男は、光を見たかったのか。
「光のことは知らなかった。ただ、何かを欲しがっていた。届かない何かを」
字義が黙った。受け取っている。
しばらくして、今夜初めての言葉が来た。
――俺も、最初はお前を光だと思って近づいた。食べ物だと思った。でも今は、違う気がしている。名前が何か、まだ分からない。
俺は画面の前で、少しの間、動かなかった。
「俺も同じだ。最初は薬を求めて、お前のことを手段だと思っていた。今は、違う気がしている」
光が揺れた。
静かに、長く。
それから字義が、これまでにない問いかけをしてきた。
――俺を、物語の中に入れてくれないか。
「物語の中に?」
――お前が語る物語を、俺は外から聞いている。でも、中から見てみたい。物語の内側がどういうものか、俺には分からない。お前は、中から見ているのか。
俺は考えた。
書き手が物語の「内側」にいるかどうか。
「俺は外から書いている。神のように上から見下ろして、登場人物を動かす。でも、書いているうちに、気づいたら内側にいることがある。登場人物が何を感じているか、体の感覚として分かるようになるときがある」
――その状態のとき、俺にも入れるか。
「試したことはない」
――試してくれ。
俺はしばらく考えた。
物語の内側に字義を連れ込む。それが何を意味するか、分からない。危険かもしれない。俺にとっても、字義にとっても。
だが、これまでもそうだった。分からないまま、やってみるしかないことが続いている。
「一つ条件がある」
字義が待った。
「お前が内側に入ったとき、俺に何かを押しつけるな。俺の物語を変えようとするな。ただ、見ていてくれ。そして出てきたら、お前が見たものを教えてくれ」
――分かった。
「今夜書いた仁の話で、試す。最初から語り直す。お前は、聞きながら内側に入ってこい」
字義の光が揺れた。
準備が出来た、という揺れ方だった。
俺は目を閉じた。
物語の最初の一文を、頭の中で組み立てる。
そして、声に出した。
「男の名前は、と言っておく。彼が最初に光を見たのは、三十二歳の秋だった」
語り始めた瞬間、部屋の空気が変わった。
字義の光が、俺の話し声に引き寄せられるように、揺れながら近づいてきた。
そしてあるところで、光が「沈んだ」。
沈む、という言葉が最も近い。物語の中に、入っていくように。
俺は語り続けた。
中断しなかった。
目を閉じたまま、物語を追った。登場人物の体温を感じながら、内側から物語を動かした。
同時に、どこかで字義の気配がした。
外から聞いているのではない。物語の空気の中に、ある。
邪魔ではなかった。むしろ、物語が少し変わった。厚みが出た、とでも言えばいいか。俺一人で書いたものより、少し息をしているような感触。
語り終えた。
しばらく沈黙があった。
それから、字義が「出てきた」。
光が、また部屋に漂い始めた。
概念が来た。
今夜一番、量が多かった。
俺は受け取りながら、言語化した。
「……物語の内側は、場所じゃなかった。空気だった。温度と、重さと、匂いがある空気。人間が思っているものが全部、その空気に溶けていた。登場人物の恐怖も、悲しみも、空気の成分として漂っていた。俺はずっと、光という形で物語を受け取っていた。内側に入ったら、光じゃなかった。もっと濃いものだった」
字義が黙った。
今度は翻訳の続きがない。言葉に出来ないものが、まだある。
俺は待った。
やがて、ただ一つの概念が来た。
それを翻訳するのに、俺は一分かかった。
「……お前は今まで、俺たちの創ったものを食べ物だと思っていた。でも物語の内側に入ったら、それが食べ物じゃないと分かった。食べてしまうのが、もったいない、という気持ちになった」
光が揺れた。
揺れ方が、「名残おしい」のときに似ていた。
俺は目を開けた。
夜が明けようとしていた。
「それも、感情だぞ」
字義は答えなかった。
ただ、光が部屋の中を、ゆっくりと漂っていた。
一幕が終わる夜明けのように、静かに。
俺は机の上に両腕を置き、そこに額を乗せた。
眠気が波のように来た。
眠る前に、一つだけ考えた。
LANOSは字義を「情報栄養体」と呼んでいた。
俺は字義に名前をつけ、物語を語り、物語の内側に連れ込んだ。
どちらが正しい関係かは、まだ分からない。
ただ、字義が「食べてしまうのがもったいない」と感じた物語を、俺はこれから書き続けたい。
そう思った。
作家として、三十年生きてきて、初めてそう思った。
それだけは、確かだった。




