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俺の小説を食べる何かに、名前をつけた  作者: 九条 蓮夜


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第1話:才能の墓場と、悪魔の処方箋

 換気扇が機能していない店内は、焦げたラードと紫煙が飽和していた。

 結露したジョッキの縁を、俺、神代かみしろ紡つむぐは指先で何度もなぞっている。ぬるくなったハイボール。薄まった琥珀色の液体だけが、この場の救いだった。


「で、まだ書いてるのか? あの……なんだっけ、小難しいばかりで誰も読まない『純文学』」


 対面の男、安藤あんどう仁じんが呆れたように問いかける。

 以前はユニクロを着ていた男が、今はゼニアのスーツに身を包んでいる。袖口から覗くパテック・フィリップが、この店の照明には不釣り合いな輝きを放っていた。

 かつて文芸サークルで俺の小説を「天才的だ」と評した男。今や大手製薬会社の最年少リーダー。


「……ボツになった。今は、もっとエンタメに寄せたミステリーを練ってる」

「へえ。デビュー作が初版打ち止め、二年音沙汰なしの作家に、まだ枠があるのか?」


 喉がひきつった。反論の言葉は、喉元で泥のように詰まって出てこない。

 事実だからだ。

 三十歳目前。深夜のコンビニバイトで食いつなぎ、暖房もつけずに毛布にくるまってキーボードを叩く日々。

 そうして削り出した魂――書き上がった原稿は、先週、担当編集者にカフェの伝票のような気軽さで突き返されたばかりだった。


『神代さんには、売れる文章の"華"がないんですよね』


 華がない。才能がない。

 そんなことは言われなくても分かっている。それでも、書くこと以外に俺の価値を見出せなかった。


「紡。俺はな、お前の才能を惜しんでいるんだよ」


 仁が身を乗り出した。

 酒の臭気の中に、どこか薬品めいた、無機質で冷たい香りが混じった気がした。いや、正確には「香り」ですらなかった。情報、とでも言うべき何かだ。俺の鼻腔ではなく、頭の奥のどこかに直接触れてくるような。

 気のせいだ、とハイボールを一口飲む。


「お前には発想力がある。構成力もある。足りないのは、それを出力する『脳の回転数』だ」

「脳の、回転数……?」

「そう。PCで言えばCPUのスペック不足だ。どんなに優れたソフトやデータを詰め込んでも、ハードウェアが旧式じゃフリーズする。今の流行りに追いつこうとして、お前の脳は処理落ちしてるんだ」


 仁は内ポケットから、小さな銀色のピルケースを取り出した。

 濡れたテーブルの上に、カタリと置かれる。

 中には、見たこともないカプセルが一錠だけ入っていた。

 透明なカプセルの中で、青白い液体が揺らめいている。いや、液体ではない。凝視すると、それは微細な粒子が銀河のように渦を巻き、自ら発光していた。


 ――なんだ、これ。


 美しい、という感情より先に、俺の中の何かがそれに向かって手を伸ばそうとした。言語化できない衝動。書けなくなって久しい、あの「湧き上がる感覚」に似た引力が、カプセルから放たれていた。


「……なんだこれ。違法なドラッグなら御免だぞ」

「馬鹿言え。うちのラボで極秘開発中の『サプリメント』だ。治験前の、特別なサンプルさ」


 仁は声を潜めた。


「脳のシナプス結合を一時的に最適化し、電気信号の伝達速度を極限まで高める。未使用領域をフル活用させるんだ。お前のような『埋もれた天才』にこそ相応ふさわしい」


 怪しい。あまりにも怪しすぎる。

 うまい話には裏がある。三流小説のプロットでも常識だ。

 だが、その青白い輝きから、俺は目を離せなかった。まるで深海の発光魚に魅入られた小魚のように。

 現状を打破できるなら。

 悪魔に魂を売ったっていいと、心のどこかで願っていたからだ。


「効き目は一日。副作用はないが、脳を酷使する分、少し疲れるかもしれん。……試してみろよ」


 仁はニヤリと笑い、勘定を置いて先に席を立った。

 残されたのは、湿ったおしぼりと、一錠のカプセル。

 俺は震える手でそれを掴んだ。冷たいはずなのに、指先が火傷しそうに熱く感じた。


          ◇


 築四十年の木造アパートに帰り着いたのは、深夜二時を回った頃だった。

 錆びた鉄階段を上り、塗装の剥げたドアを開ける。

 六畳一間の万年床。散乱した原稿用紙と督促状の山。

 饐すえた臭いと、冷え切った空気が、俺の惨めさを増幅させる。これが三十年生きてきて、たどり着いた俺の城だ。


 俺は机の前に座り、スリープ状態のパソコンを立ち上げた。

 ファンの回る音が、弱々しい呼吸音のように聞こえる。

 白い画面には、点滅するカーソルだけ。一行も進まない。


「……クソッ」


 ポケットから、あのカプセルを取り出した。

 青白い粒子が、暗い部屋の中で妖艶に輝いている。

 仁の言葉を信じたわけじゃない。ただ、何かにすがりたかった。

 俺はコップの水もなしに、そのカプセルを喉の奥へと放り込んだ。


 ゴクリ。

 喉を通る異物感。胃に落ちる冷たい感覚。

 数秒間、何も起きない。


「……だよな。マンガじゃあるまいし」


 自嘲気味に笑い、再びキーボードに指を置こうとした、その時だった。


 ――バチッ。


 脳の奥底で、回路がショートしたような音が鳴った。

 直後、焼けるような熱が背骨を駆け上がり、頭蓋骨の中を満たしていく。


「あ、が……っ!?」


 激痛。

 脳髄を直接手で鷲掴みにされ、こね回されているような感覚。視界が明滅し、ノイズが走る。

 俺は椅子から転げ落ち、床をのたうち回った。全身の細胞が無理やりこじ開けられ、作り変えられていく暴力的な感覚。

 死ぬ。このゴミ溜めのような部屋で、誰にも知られずに。


 恐怖で視界がブラックアウトしかけた瞬間。

 フッ、と熱が引いた。

 いや、引いたのではない。「馴染なじんだ」のだ。

 暴れていた何かが、パズルのピースのようにカチリと嵌はまった。


 俺は荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。


「……なんだ?」


 世界が変わったのではない。「解像度」が跳ね上がったのだ。

 薄暗い部屋の空気が、粒子の集合体として視認できる。壁のシミは汚れではなく、湿度とカビの繁殖が描く複雑なフラクタル図形へと変換された。

 床に落ちた髪の毛。その太さ、キューティクルの損傷度、落下角度から推測される直前の動作。

 視界に映るすべてが情報あたいとなり、脳髄へ雪崩れ込んでくる。


 聴覚も異常だ。

 隣人の寝息、心拍数。百メートル先の自販機が唸るコンプレッサーの振動。

 情報量が多すぎる。常人なら発狂する奔流。

 だが、俺の脳はそれを冷徹に処理していた。不要なノイズを濾過し、必要な信号だけを抽出する。思考の摩擦がゼロになった感覚。


 そして――もう一つ。

 視界の端に、何かが見えた。

 部屋の空気の中に、微細な光の粒子が漂っている。仁のカプセルの中にあったものと同じ、青白い輝き。いや、それよりもっと薄く、繊細で、まるで水底に差し込む光のように揺らめいている。

 手を伸ばすと、それは散る。追えば消える。だが、確かにそこにある。

 なんだこれは。


 考える間もなく、思考が引き戻された。

 パソコンの画面が目に入る。

 モニター上の文字列を見る。吐き気がするほど稚拙な日本語の羅列。

 構造が破綻しているのではない。最適化されていないだけだ。

 答えが見える。迷路を上空から見下ろすように、正解のルートだけが発光して見える。


「これが……覚醒……」


 俺は吸い寄せられるように、再びパソコンの前に座った。

 思考よりも速く、神経がキーボードと直結したかのように指が動く。

 タタタタタタタタッ。

 打鍵音は途切れない。硬質なリズムが、深夜のアパートに異様な密度で響き渡る。


 面白い。

 俺が書いているのは、これほど面白い物語だったのか?

 違う。俺が「面白くさせている」。凡庸な石ころを、演算能力という暴力でダイヤモンドへ圧縮しているのだ。


 全能感。神の視座。

 モニターの青白い光だけが、俺の恍惚とした表情を照らし出していた。


 部屋の隅に、あの光の粒子がまだ漂っていた。

 さっきより、少し濃くなった気がした。

 まるで、何かが俺の書くものに引き寄せられているかのように。


 血管を駆け巡る青い粒子が、脳の深層を焼き焦がしていることになど、気づくはずもなかった。

 ただひたすらに、俺は書き続けた。

 悪魔との契約が、どれほど高くつくかも知らずに。

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