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科学なんて魔法より不便なだけじゃないか。

作者: 冬至 柚
掲載日:2026/03/14

「科学なんて魔法より不便なだけじゃない。」


 昼下がりの石畳の広場で、銀の杖を肩に担いだ少女がそう言って笑った。噴水のそばでは水瓶がひとりでに宙に浮かび、八百屋の店先では風魔法で干し果物の埃が払われている。城壁の上では見張りの兵士が火球を灯して合図を送り、路地裏では子どもたちが小さな光の精霊を追いかけていた。


 王都ラディウスでは、それが当たり前の景色だった。


 魔法は便利だ。火は一瞬で起こせるし、水も呼べる。灯りも、風も、熱も、治癒も、だいたいのことは術式ひとつで済んでしまう。少なくとも、そう信じられていた。


「見てろよ、エルナ。今日こそすごいものを作る」


 広場の隅で、煤だらけのゴーグルを額にずらした少年が、木箱の上に金属の筒を載せて胸を張った。


 名をトーマという。王立魔導学院に併設された“自然理学研究棟”の学生だった。学院の本館が、白い大理石と青い魔導結晶で飾られた由緒ある建物なのに対し、研究棟は裏庭の端に追いやられた煉瓦造りの地味な建物だった。たいていの生徒は、その存在すら知らない。


 エルナは王都でも指折りの若い魔術師で、学院の首席候補とまで言われていた。金髪を後ろで束ね、制服の袖口には中級魔導師の銀糸刺繍。彼女は器用に片眉を上げ、トーマの前にしゃがみこんだ。


「また爆発しないでしょうね」

「今回はしない。たぶん」

「前も同じこと言ってた」

「あれは予想外の圧力上昇で……」

「つまり爆発したのね」


 エルナは呆れたように息をつき、それでも少し楽しそうに笑った。


 トーマは木箱の上の装置を指さした。真鍮の筒、細い管、透明な液体の入った小瓶、歯車、ばね。魔導結晶はひとつも使っていない。


「これは蒸気圧を利用した駆動機関だ」

「もうその時点で不便そう」

「火で水を沸かして、その力で歯車を回すんだよ」

「火をつけるなら魔法でいいじゃない」

「その先だよ。その力を蓄えて、誰でも使える形にする」


 エルナは目を細めた。


「誰でも?」

「魔力がなくても、術式が組めなくても、訓練してなくても。使い方さえ知ってれば、同じ力を再現できる」


 その言葉に、エルナの笑みがわずかに薄れた。


 この世界では、魔法は才能だった。生まれつきの魔力量、術式理解、精霊との相性。努力で埋められる差もあるが、限界はある。魔術師は尊ばれ、そうでない者はそれに従う。それが何百年も続いてきた秩序だった。


「でも、遅いし重いし壊れるんでしょう?」

「壊れるのは改良すればいい」

「魔法なら詠唱一つで終わる」

「詠唱できる人にはな」


 トーマの声は思ったより硬かった。


 広場を抜ける風が、二人の間を通り過ぎた。


 エルナはふいに視線を逸らした。彼女は知っている。学院の下働きの人々の中には、簡単な灯りの術すら使えない者が大勢いる。地方では、回復魔法が使える者が村に一人いるだけで神様扱いだという話も聞いたことがある。


 けれど、知っていることと、認めることは違った。


「……それで、今日は何を?」

「井戸水をくみ上げるポンプの試作品」

「それ、村の水汲みなら浮遊魔法でいいじゃない」

「浮遊魔法を毎日使える術者が村にいればな」


 トーマはそう言って、装置の下に小さな炉を置いた。火打石で火花を散らし、炭に火を移す。エルナは見ていてむずむずした。指をひとつ鳴らせば、もっと早い。


「手伝ってあげようか」

「ダメだ。これは魔法抜きで完成させる意味がある」

「頑固ねえ」

「君にだけは言われたくない」


 やがて筒が熱を帯び、内部で水が沸き始めた。細い管が震え、かすかに蒸気が漏れる。歯車がぎ、ぎ、と鈍く回った。


「ほら!」


 トーマが叫ぶ。装置の先につながった管が樽の水を吸い上げ、上の桶に流し込む。最初は頼りなかったが、しばらくすると一定のリズムで水が持ち上がり始めた。


 エルナはほんの少し目を見開いた。


「……本当に動いた」

「だろ?」

「遅いけど」

「うるさいな」

「それにすごくうるさい」

「改良する!」


 そのとき、広場の空気がびりっと震えた。


 鐘の音が響く。高く、鋭く、短く三度。王都防衛の緊急警報だった。


 広場の人々がざわめき、空を見上げる。北門の向こう、遠くの空に黒い雲のようなものが見えた。いや、雲ではない。翼の群れだ。


「ワイバーン……?」

 エルナの顔色が変わる。


 王都を守る防護結界は強固だ。普通の魔物なら近づくことすらできない。だが群れの中心には、ひときわ大きな黒い影がいた。翼竜の王種――しかもその胸元には、鈍い赤色に脈打つ異形の鉱石が埋め込まれている。


「魔封鉱だ」


 トーマが呟いた。


 古代遺跡からごく稀に発掘される禁忌の鉱石。周囲の魔力流を乱し、術式を不安定にする。王都の結界が波打ち、城壁上の魔導砲台が明滅した。


 次の瞬間、北門側で閃光が走り、結界の一部が砕け散った。


 悲鳴が上がる。


「まずい……!」


 エルナは杖を抜いて駆け出そうとした。だが彼女の足元で、ふっと光が乱れる。起動した術式円がひしゃげたように崩れ、火花になって消えた。


「そんな、詠唱が……!」

「魔封鉱のせいだ。周辺の魔力位相がめちゃくちゃになってる」


 トーマは広場の周囲を見渡した。防衛に向かおうとした魔術師たちが次々に術を失敗させている。火球は暴発し、風刃は霧散し、治癒術すらうまく発動しない。


 魔法が、この都から剥ぎ取られようとしていた。


「逃げる人を誘導して!」とトーマは叫んだ。

「あなたは?」

「研究棟に行く!」

「何しに!?」

「魔導砲台は死んでても、物理砲なら動かせるかもしれない!」


 エルナは一瞬、何を言っているのか理解できなかった。だがトーマはもう走り出していた。


 王都の防衛設備はすべて魔法前提で作られている。だが研究棟には、役に立たないと笑われた試作品の山がある。圧縮空気式の発射装置、歯車仕掛けの照準器、火薬を用いた信号弾。古臭い、重い、遅い、危険――そう言われ続けたものたち。


 エルナは舌打ちすると、杖を握り直し、トーマのあとを追った。


 研究棟の地下倉庫は、油と鉄の匂いで満ちていた。トーマは布を被った長い筒を引きずり出す。


「まさか……あれ、本当に作ってたの?」

「空気圧式の投射砲だ。対大型生物用」

「そんなもの学院で許可されたの!?」

「されてない」


 エルナは頭を抱えたくなった。


 だが外では、また悲鳴が上がる。窓の向こうで建物の屋根が砕け、ワイバーンの影が横切った。


「持つよ」

「え?」

「一人じゃ無理でしょ」


 エルナはそう言って砲の後部をつかんだ。トーマが目を丸くする。


「なによ」

「いや、君が手伝うとは」

「勘違いしないで。王都を守るの」

「はいはい」


 二人は砲を引きずりながら北塔へ向かった。階段を上がる途中、避難してきた人々が身を寄せ合って震えていた。魔法が使えず泣く子ども、怪我をしてうずくまる衛兵、祈ることしかできない修道女。


 エルナはその顔ぶれを見て、胸がざわついた。


 魔法があれば救えた、と思った。

 だが同時に、魔法がなくなった途端、誰も何もできなくなるのか、とも思った。


 北塔の上は戦場だった。結界の裂け目から入り込んだワイバーンが旋回し、兵士たちは弓で応戦しているが焼け石に水だ。中心にいる王種は、胸の魔封鉱を脈打たせながら悠然と空を支配していた。


「あれを落とす」とトーマ。

「簡単に言うわね」

「簡単じゃない。だから君が必要だ」

「私? 魔法は乱れてる」

「術式じゃなくて計算だ」


 トーマは塔の縁に砲を据え、照準器を覗いた。


「風向き、西から毎秒四。王種の高度、たぶん百二十。速度……くそ、速いな」

「言ってることが半分わからない」

「じゃあ半分でいい。あの赤い鉱石が露出した瞬間を教えてくれ」

「……そこは任せなさい」


 エルナは塔の上に立ち、深く息を吸った。魔法を使わない観測など初めてだった。だが彼女の目は優れていた。相手の動き、空気の流れ、翼の軌道。戦うために学んできたすべては、術式のためだけにあったわけではない。


「今、左へ旋回……次に上昇、来るわ」

「まだ」

「胸元が見える」

「まだ」

「今!」


 トーマが引き金を引いた。


 轟音。圧縮された空気が解放され、鉄の矢が空を裂いた。


 外した、とエルナは思った。だが次の瞬間、王種の胸元で火花が散った。魔封鉱の表面が砕ける。赤い脈動が乱れ、空気の震えが変わった。


 塔の上の魔力が、戻る。


「もう一発!」

「装填、急げ!」


 二人は夢中で動いた。エルナが矢を運び、トーマが装填する。今度はエルナも杖を握りしめる。魔力の流れはまだ不安定だが、先ほどよりはましだ。


「私が足止めする!」


 短い詠唱。細い氷の鎖が空へ走り、王種の翼をかすめる。完全ではない。それでも軌道がぶれた。


「今よ、トーマ!」


 二発目が放たれ、今度は魔封鉱を真正面から貫いた。


 赤い光が砕け散る。


 王都全体に張りついていた歪みがほどけ、裂けた結界の残骸が淡く再生を始めた。城壁の砲台が次々と蘇り、魔術師たちの術式円が正しい形を取り戻す。


 数十もの光弾が空に上がり、残ったワイバーンたちを撃ち落としていった。


 王種は断末魔の咆哮を上げ、北の平原へ墜ちていった。


 静寂が戻るまで、かなりの時間がかかった。


 夕暮れの塔の上で、エルナは座り込み、乱れた髪をかき上げた。トーマは砲の脇にへたり込み、真っ黒な手で顔を拭ってさらに汚した。


「……勝ったのね」

「ああ」

「信じられない」

「だろ」


 彼は笑ったが、その笑いはいつもの得意げなものではなかった。どこか力が抜けていて、子どもみたいだった。


 しばらくして、エルナがぽつりと言った。


「ごめん」

「何が」

「ずっと、科学なんて魔法より不便なだけだって思ってた」


 トーマはしばし黙っていたが、やがて空を見上げた。西の雲が赤く染まり、その隙間を小さな光鳥が飛んでいく。


「不便だよ」

「え?」

「遅いし、重いし、壊れるし、失敗すると爆発する」

「最後のはかなり問題だと思うけど」

「でもさ」


 彼は自分の手を見た。魔力を持たない、ただの手だ。


「魔法が届かないところに、届くかもしれない」


 エルナは何も言わなかった。


 塔の下では、魔術師たちが治癒術を再開し、兵士たちが負傷者を運び、職人たちが壊れた屋根を直し始めていた。その中には、魔法を使えない者も大勢いる。彼らは彼らの手で、街を立て直していた。


 魔法だけの世界ではない。

 科学だけの世界でもない。


 そのどちらもあるから、この国は今日、生き延びたのかもしれなかった。


「ねえ、トーマ」

「ん?」

「その……ポンプ、もう一回見せて」

「馬鹿にしない?」

「少しはする」

「するのかよ」

「でも、今度はちゃんと聞く」


 トーマは苦笑したあと、ゆっくり立ち上がった。


「じゃあ研究棟に来いよ。次は蒸気機関車の話をしてやる」

「なにそれ」

「線路の上を走る乗り物」

「転移魔法でいいじゃない」

「だからそういうことじゃないんだって!」


 エルナは久しぶりに、心から笑った。


 王都ラディウスの夕焼けは、魔導灯の青と、鍛冶場の赤と、研究棟の煙突からのぼる灰色の煙をいっしょくたに染めていた。


 それは少し不格好で、少し遠回りで、けれど確かに未来の色をしていた。


 科学なんて魔法より不便なだけじゃないか。


 その言葉を、エルナはもう、以前と同じ意味では口にできなかった。


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