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職業:魔法少女  作者: ずんだずんだ
第三章 進むか戻るかそれとも、、
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二部:引退者のその後

 任務の帰り道は、夕暮れの色で薄く磨かれていた。

 ユノは第三区の臨時封鎖線を抜け、隊の輸送車から一人だけ途中下車して、駅の反対側にある商店街のアーケードへ入った。理由はなかった。理由がないというのは、心の奥で理由を持ちすぎているときの言い訳だと知っていたけれど、知っていることと、やめられることは別だった。


 通りは、油と砂糖の匂いで温かい。粉を揚げる音、氷を砕く音、トングの金属が触れるかすかな音。天井の蛍光灯は一本おきに古く、一本おきに新しい。古いほうは色が少し黄ばんで、そこだけ時刻がゆっくり進んでいるように見える。

 ユノは制服の上着の前を少し開け、呼吸を吸い直した。胸ポケットの中でリリースコードが、衣擦れのたびにわずかに触れて、銀の輪郭を自己紹介してくる。今日は黙っていた。静かに、確実に、いる。


 アーケードの中ほど、花屋の前に人だかりができていた。

 小さな花束が縦に積み重なって、色の層をつくっている。赤、黄、白。ガラスの向こうで、エプロン姿の女の子が花紙を切っている。切れ端がふわりと舞い、客の肩に落ちる。

 ユノは流れに合わせて歩を進め、最前列の隙間から店内を覗いた。視界が花の輪郭で一気にやわらぎ、そこに、見慣れた首筋の角度が現れた。


 リオがいた。


 エプロンをしている。

 ポケットにハサミ。髪は耳の後ろで留め、いつもより少しだけ高い位置で結んでいる。後れ毛の長さまで、見慣れた長さ。

 彼女は花を包み、客に渡して、会釈をする。

 笑っている。笑顔はきれいだ。けれど、笑顔の下で頬の筋肉が動く順番が、ほんの少しだけ変わっていた。

 まず口角が上がり、その次に目尻が追いつく。

 追いつく速さが、記憶より一拍遅い。


 ユノは足を止めた。

 動作の遅れというのは、説明に向かない。説明する前に、身体が先に知ってしまう。

 喉が乾いて、水分が欲しいのではなく、言葉を通す管が少し細くなったみたいに感じる。


 「リオちゃん、ありがとね」

 年配の女性が花束を受け取り、満足そうに頷く。

 リオは「はい」と答え、会釈。

 音の高さはいつものまま。

 そこに、薄いガラスが一枚挟まっている。音は届くが、温度が届かない。


 列が進み、ユノは店内へ足を踏み入れた。冷蔵ケースの風が足首に触れ、温度が一段下がる。青い花が冷気の中で密度を保ち、茎がまっすぐ立っている。

 リオが目を上げた。真正面から、視線がぶつかる。

 ユノは、名を呼ぶ前に、相手の瞳の奥を見た。

 光をよく反射する。天井の蛍光灯が二本、きれいに映っている。

 その光の位置が、微妙に揺らがない。

 ピントが、固定されているみたいに。


 「……いらっしゃいませ」


 リオは言った。

 その声は、客へ向ける音量と距離の取り方で、正確だった。

 ユノは一歩、近づいた。

 「リオ」

 名前が出るまでに、少し時間がかかった。

 声に出した瞬間、胸の内側で、何かがやわらかく擦れた。


 リオの口角が、上がる。

 「――おかえりなさい」


 おかえりなさい。

 それは、店員が客に言う種類のことばではなかった。

 けれど、彼女は店員として、それを言った。

 ほんのわずかな間違い。言い間違いは人間的だ。

 だが、そこにある人間らしさは、どこか設計図の上から写したなめらかさを持っていた。

 ユノは笑おうとして、笑わなかった。


 「花、買いに来たの」

 「はい。おすすめは、こちらです」


 リオはカスミソウを指さした。白い粒。霧のような脇役。

 ユノは、その指の動きを目で追った。指先の関節の曲がり方、爪の縁の薄い傷跡。

 記憶と一致する。

 それでも、違う。

 記憶の中のリオは、薦めるときに少しだけ首を傾げる癖があった。

 今日は首が傾かない。

 正面から、まっすぐに、説明書の矢印みたいに指す。


 「……これにします」

 「かしこまりました」


 包む手つきは見事だった。紙が鳴らない。音を立てないというのは、訓練された優しさだ。

 ユノは、その優しさの上に、別の層が置かれているのを感じる。

 動作が、あまりに疲れない。

 疲れない動作というのは、意志の摩擦が少ない。

 摩擦が少ないというのは、考えなくても身体が勝手に行く道筋が、最初から床に引かれている状態だ。


 包み終え、リオは花束を差し出した。

その指が、ユノの手に触れた。

 あたたかい。

 温度はある。

 温度の中心は、やはり少しだけずれていた。

 触れていない場所が反応する。

 触れているところは、反応しない。


 「ありがとうございます」

 目を細め、会釈。

 会釈の角度は正確で、きれいすぎる。

 ユノは財布を取り出し、会計を済ませ、花束を抱えたまま、数歩だけ店の中に留まった。

 「……体調は、どう?」

 リオは、わずかに瞬きを増やしてから、答えた。

 「良好です」

 良好、という語をリオの口から聞いたことがなかった。

 彼女はいつも、「うん」とか「まあね」とか「そこそこ」などの曖昧な塩味で返していた。

 良好、は病院の紙に印刷される語だ。

 人が自分の状態に貼るには、角が硬い。


 ユノは頷き、店を出た。

 出てから、振り返った。

 ガラス越し、リオは別の客にまた同じ角度の笑顔を渡していた。

 笑顔が走らない。

 走る笑顔――つまり、相手へ一歩、届こうとする瞬間の崩れが、ない。

 きれいに立っている。

 立っているものは、倒れない。

 倒れないものは、風に対して、鈍い。


 アーケードを抜け、外の空気を吸う。

 空は既に夜の手前で、上のほうから群青が降りてきていた。

 遠く、虹色の靄が細く立っている。

 視界の端で、ユノは自分の指先がわずかに震えているのに気づいた。

 震えは寒さではない。

 動物が知らない匂いを嗅いだときに、体の深いところから出る揺れだ。


 角のベンチに腰を下ろすと、自販機の光が足に落ちた。

 買うつもりのなかった缶ココアを買う。温かい缶を握る。指が落ち着く。

 花束を膝に置き、息を吐く。

 缶の口から上がってくる甘さが、喉を通って、胸骨の前で一度止まり、下へおりる。

 胸の内側で、リリースコードが一度、微かに回った。

 カチ。

 短い音。

 それだけで、空気の粒が少しだけ揺れる。

 ユノは缶を置き、ポケットに手を入れて、鍵の輪を親指でなぞった。


 ――おかえりなさい。


 花屋のガラスの前で言われた言葉が、遅れて届くように、耳の後ろで再生される。

 おかえりなさい、は誰が誰に言うのだっけ。

 家の中にいる人が、外から帰る人に。

 どちらが家、だったっけ。

 店は家ではない。

 けれど、言葉は迷わずそこへ落ちた。

 落ちどころは、見えない。

 見えないもののほうが、正確な時がある。


 通りの向こうから、スーツ姿の二人組が歩いてくるのが見えた。

 真新しい靴。歩幅がそろっている。

 店の前で立ち止まり、花屋の中をさっと見渡す。

 何も買わないまま、軽く会釈して去る。

 会釈の角度は、訓練された角度。

 IMIAの関係者。部外者が知らない、背面ラベルの匂い。

 ユノは視線を落とした。

 彼らは、存在しないふりが上手い。

 存在しないふりが上手い人は、いつも、そこにいる。


 缶が冷めた。

 立ち上がる。

 もう一度だけ、ガラス越しに店内を見た。

 リオは、花紙を切っている。

 切れ端が舞う。

 その白い紙片が、ユノの目には、一瞬だけ雪のように見えた。

 雪の温度を、記憶の棚の一番奥から引っぱり出して、指先に置く。

 冷たさは、まだ生きている。


 アーケードを抜けて地上駅へ上がる途中、広場に小さなステージが組まれていた。

 〈引退者と共に未来へ〉という横断幕。

 スクリーンに映る動画。

 笑顔、笑顔、笑顔。

 記憶の中の彼女たちと、笑顔の構造が違う。

 映像の笑顔は、筋肉を均一に使う。

 記憶の笑顔は、均一ではない。

 崩れ、よれ、間違い、照れ、迷い。

 均一でないものは、熱を持つ。


 「――ユノ?」


 横から声がした。

 振り向くと、学科の同期が立っていた。

 名前を思い出す前に、相手の眉の上の小さな傷で識別した。

 彼女はステージのスクリーンを顎で示す。

 「見た? リオさん、街の花屋で働き始めたって。ニュースでやってたよ。早いよね、現実復帰」

 ユノは喉の奥で返事を形にした。

 「……見た」

 「よかったよね。戻れるって。私たちもさ、そうやって、帰るんだよ」

 帰る。

 単語が、皮膚の外で転がり、入ってこない。

 同期は続ける。

 「ねえ、甘いの食べてく? この先のクレープ屋、今日割引だって」

 甘い。

 ユノは首を振った。

 言葉は使わなかった。

 使うと、言葉の方が先に走って、今の自分の速度とぶつかるから。


 駅の階段を上る。

 風が強い。

 遠くの空の虹色の靄が、風の形を可視化して、細く伸び縮みしている。

 その中心に、見られている感覚がまた生まれた。

 見られている、は悪いことではない。

 見守られる、は温かい。

 監視される、は冷たい。

 今、感じているのは、温度のない視線だ。

 温度のない視線は、体温のある身体に割り込んでくる。


 ホームで電車を待つ間、ユノは花束を抱き直した。

 カスミソウは軽い。

 軽いものは、落とした時の音が小さい。

 小さい音は、拾われない。

 拾われない音は、記憶に残りやすい。

 ユノは、わざと強く抱え、茎の感触を腕に刻んだ。

 電車が来る。

 ブレーキのきしむ音。

 扉が開く。

 座席に座ると、向かいの広告に目が止まった。

 〈引退後も、あなたの笑顔を〉

 笑顔。

 笑顔は、誰のものなのだろう。

 笑顔が持ち主の手を離れる瞬間が、この世界のどこかに設計されている。

 それを、いま、見た。


 寮の最寄り駅で降りる。

 夜気が濃くなって、呼吸に厚みが出る。

 街路樹の影が舗道に連なり、人の影と混ざる。

 角を曲がったとき、ユノは思わず足を止めた。

 寮の門の前に、リオが立っていた。

 花屋のエプロンではない。

 制服でもない。

 淡い色のワンピース。

 手ぶら。

 街灯の光をまっすぐに受けて、輪郭が少し淡くなっている。


 「……リオ?」


 呼びかけると、彼女はゆっくり振り向いた。

 笑顔。

 今度の笑顔は、さっきの店内の笑顔と違い、崩れた。

 崩れた一瞬が、美しかった。

 ユノは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

 歩み寄る。

 近づくほどに、違和感が戻ってくる。

 視線の焦点が、やはり揺らがない。

 「どうして――」

 言い終える前に、リオが先に言った。

 「おかえりなさい」


 ユノは、返事をしなかった。

 返事をすると、言葉が二人の間に橋を架けて、その橋が踏み抜けた板の音を立てそうで。

 沈黙のまま、距離を一歩詰める。

 リオは、見上げる角度でユノを見た。

 見上げる、は目線の高さの問題だ。

 いまの見上げるは、たしかに高さの問題だった。

 たしかに、だけど、十分ではない。

 そこに、祈りの角度がなかった。


 「……寒くない?」

 また同じことを言ってしまった。

 リオは首を横に振った。

 横に振る動作が、規則正しい。

 習字の最初の一画みたいに、まっすぐ引いて止める。


 「明日、花屋で、待ってます」

 「――仕事、忙しい?」

 「良好です」


 良好。

 ユノはうなずき、花束を差し出した。

 リオは受け取った。

 白い粒の上に、指の影が落ちる。

 影の輪郭が、少し甘い。

 甘さは錯覚かもしれない。

 錯覚を疑う力が、今日だけ弱い。


 「また、ね」


 ユノが言うと、リオは一拍置いて、同じ音の配列で返した。

 「また、ね」


 その「また」が、どのくらい先を指しているのか、世界のどこにも目盛りがなかった。

 彼女は背を向け、歩く。

 歩幅は、記憶と一致していた。

 一致しているものが、かえって不安だと初めて思った。

 角を曲がり、姿が消える。

 ユノは門の前でしばらく立ち尽くし、やがて寮に入った。


 部屋に戻って灯りをつけると、白い壁が均一に明るくなった。

 机の上に花束の包み紙をおき、指先に残った紙粉を払う。

 手洗い場で冷たい水を出し、手のひらを洗う。

 水が落ちる音が澄んで、耳の中を掃除する。

 鏡に映る自分の顔は、他人が撮った写真のように落ち着いている。

 落ち着いていることが、今はいちばん怖い。


 ベッドに腰をかけ、鍵を取り出す。

 リリースコードは、光らない。

 ただ、輪が一度だけ、ゆっくり回った。

 回転は、呼吸に近い。

 ユノは額を鍵にあて、目を閉じた。

 背中に、さっきの街灯の冷たさが残っている。

 おかえりなさい、と言われた。

 誰に、どこから。

 世界に。

 世界は家ではない。

 でも、誰かがそう言った。

 その誰かを、今夜は信じてみることにする。

 信じることの不確かさを、鍵が一度だけ肯定するみたいに鳴らした。

 カチリ。

 音は、小さく、確かだった。


 ユノは横になり、天井のスリットを数えず、呼吸の回数だけ数えた。

 一回ごとに、今日見た笑顔の輪郭が薄くなり、代わりに、崩れた一瞬の笑顔だけが濃くなった。

 そこに、彼女はいる。

 いない、の向こう側に、いる。

 眠りがゆっくり近づいてくる。

 眠る直前、ユノは小さく呟いた。

 「明日、ほんとに、甘いやつ、買おう」

 返事はない。

 空気が、あたたかくなる。

 それで十分だった。

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