第一部 引退
朝は音の薄い液体みたいに廊下を流れていき、ユノはその流れの真ん中で足を止めた。掲示板の前。いつもと同じ光量、同じ白、同じ整列。違うのは、紙一枚だった。端に小さくホチキスの銀が光っている。新しい通達。曇りガラスの奥で誰かが咳払いをした音が、こちらまでわずかに滲んでくる。
〈第二区養成課 退役手続き告知〉
名前は一行目に置かれていた。
――リオ・フェリス。
字面が、喉のどこかを擦った。読み上げようとして、音が出なかった。ここではいつも文字は事務的で、乾いていて、手触りがないのに、今朝だけは紙の繊維が指に絡みつく感触まで想像できた。目を離そうとした瞬間、誰かの肘が軽く肩に触れて、ユノはバランスを崩しそうになりながら一歩退く。視野の端を制服の灰が列になって流れていく。「あぁ」「そうなんだ」「早かったね」――知っていたような声。驚く練習をしてから喋っているような、呼吸の長さ。
リオの字面だけが、いつまでも紙の上で明るかった。余白に光が集まっているみたいだった。ユノは吸い込んだ空気を吐き出し方がわからなくなり、肺の奥でそれを少しだけ回した。胸の内側で、鍵がかすかに鳴った。リリースコード。制服の内ポケットに入れていた金属の呼吸が、いつもより半拍遅れている。
「ユノ」
名前を呼ばれて、首を上げた。そこに本人が立っているなんて、考えていなかった。立っていた。リオはいつも通りの姿勢で、いつもより少し背筋を伸ばしていた。笑おうとして、まだ笑顔の形になっていない唇。目元はむしろ柔らかい。眠りが足りない朝に似た、優しいぼやけ。
「おはよう」
「……おはよう」
言葉が床に落ちる音を聞く。拾い上げる前にリオが先に言った。
「ね、見た? 掲示板」
「うん」
返事が短すぎると自分で思いながら、それ以上の長さの言葉が身体のどこにも見つからなかった。リオは頷き、ほんの少し肩をすくめる仕草をした。小さな子どもが、雨に濡れた犬の耳を触る前の迷いのような。
「検査でね、出ちゃって。魔素の、あれ。基準越え。継続は難しい、って」
「痛い?」
思わず零れた問いは、幼かった。リオは目を瞬かせ、笑みを形にしてみせる。
「痛くはないよ。しびれる、みたいな。テレビの砂嵐を、手のひらでずっと受けてる感じ。わたし、そういう比喩しか思い浮かばないや」
ユノは瞬間、掌を返してみた。何も降っていない。廊下の空気はきれいで、消毒と新しい紙の匂い。けれど、指の腹に、誰かが息を吹きかけるような微かな電流の粒立ちが、確かに触れた気がした。錯覚だ。そう思うためだけに、視線を掲示板へ戻す。掲示板の赤いピン。そこから一本の糸が伸びて、リオの指先まで繋がっているように見える。
「……退役式、今日の夕方なんだって」
「早いね」
「うん。ね、来てくれる?」
喉の内側で、二つの「もちろん」がぶつかった。ユノは頷いた。頷くしかないとわかっていたし、頷く以外の答え方がこの世界にないとも思った。リオはそれで十分という顔をして、肩に髪の先が触れた。髪はいつもより軽かった。重力が、ランチメニューの上でしか効いていないみたいに。
「このあと、手続きがあるから、行くね」
「……うん。手、寒くない?」
唐突な問いに、自分でも驚いた。リオは片手を上着のポケットから出し、ユノの手の甲に自分の指を一瞬だけ重ねた。あたたかい。けれど、温度の中心が少しずれている。触れているところではなく、触れていない空気のところが返事をした。
「だいじょうぶ。わたし、元気だよ」
その言い方は、とても上手だった。練習をしたみたいに、流暢で、慰める機能を備えていた。ただ、ユノの耳は機能よりも隙間を拾う。語尾の一拍。言い足りない何かの形。リオは手を離し、片手を振る。ユノも振り返す。二人の手の間の空気が、薄い紙みたいに少しだけたるむ。
人が行き過ぎる。靴の音が薄く重なる。ユノは掲示板の前に取り残される。自分の名前の行を探してから、探す必要がなかったと思い直す。彼女はまだここにいる。まだ、と心に付け足すと、その「まだ」が小さく鳴った。いつまでの「まだ」なのか、誰も教えない。
――リオがいない訓練場の音を、まだ聞いたことがない。
考えた瞬間、その音が先に来て、耳の奥の方で鳴り始めた。遠くから届く高音。体育館で誰かがボールを落とした時の反響に似ている。記憶の先取り。胸の中で鍵がまた鳴った。カチリ。今日はいつもより硬い音色だった。
ユノは、昼までの時間を上手に使う方法を忘れてしまい、講義室でノートを開いたまま同じ行を十回写した。書いている線が自分の手首から出ている感じがしない。なめらかに進むペン先が、別の誰かの手のようだ。先生の声は普段よりよく通って、遠くへ飛び、すべての単語が着地する前に画面が切り替わっていく。引退者の特集。笑顔。花束。字幕。ユノは顔を真正面に向けて、焦点をどこにも合わせない方法を選ぶ。焦点を置き場に困った目は、ただの窓になって、映像が風景みたいに通り過ぎる。窓の外の雲が横へ動くのと同じ速度で、画面の「おめでとう」が流れていった。
昼休みを抜けた頃、食堂は拍手で満ちる。誰のための拍手かは、拍手している本人たちにもあまり関係がないらしい。儀式は、安心の形をしている。そうやって何度も何度も、誰かの名前を鳴らすたび、空気の中に、人が通りやすい道ができていく。ユノは廊下の窓に額を少しだけあて、ひんやりする感触で自分の温度を測った。額の下の骨まで届いてくる冷たさは、いつもより深くて、安心した。冷たいと生きているのがわかる。生きているのがわかると、歩ける。
夕方になり、退役式の会場へ向かう。小さなホール。椅子の列。壇上に簡単な花。白い布。モニターにはリオの写真が映っている。笑っている。写真の笑顔は、いつでも評価が安定している。式次第の紙は二つ折りで、角が少し丸い。ユノは最後列から二番目の席に座り、膝の上で両手を重ねた。掌の温度が、だんだんと薄くなっていく。寒いのではなく、温かさに名前がなくなっていく感覚。掌の重なりの隙間から、光が一本、膝へ落ちた。鍵の輪郭が布越しに浮かぶ。内ポケットの中で、呼吸している。
来賓の言葉は時間に正確で、ありがとうが重ねられ、がんばっての過去形が丁寧に語られた。拍手。音はきれいにそろう。ユノは拍手しながら、掌の形に自分がいないのを確認する。音は鳴る。けれど、鳴らしているのは誰か別の人だ。空の手が、上手に鳴らしている。
やがてリオが壇上にあがる。光の中に置かれた身体。ドレスではなく、制服。リボンの位置、ボタンの留め方、髪の分け目。日常の配置を寸分変えずに壇上へ連れてきたみたいで、逆に非日常の輪郭が濃くなる。顔を上げる。ユノは目を細めないように努力する。涙腺の形を、ここでは一度も使いたくないと思った。
リオはゆっくりとマイクに近づき、息を一度整えた。ああ、と思う。いつもの息の整え方だった。訓練の前、階段を駆け上がった後、パン屋の前で甘いやつを選ぶ前の息。呼吸には癖がある。彼女はその癖を壇上にも持ってきていた。
「……皆さん、ありがとうございました」
声は、きれいだった。マイクが拾う前の素の音がユノの耳まで届く。体内の耳が、それを最初に受け取る。ユノは手の甲を爪で少しだけ押す。痛みで現実の輪郭を厚くする。
「私は今日で、前線からは離れます。理由はたぶん、皆さんが聞き飽きてるやつ。数字が重なった。そういうことです」
笑いが少し流れ、すぐに収まる。笑いの行く先がどこにもなくて、空気の天井にぶつかり、広がらない。リオは続けた。
「でも、わたしは……うまく言えないけど、今もここにいる気がしてます。場所の話じゃなくて。あの、ええと、詩的にいうと、空気の密度? あるじゃないですか、朝の匂いとか、夕方の匂いとか。そういうの」
言葉が一瞬迷って、でもちゃんと前へ出た。彼女らしい。ユノはその言葉の迷い方が懐かしくて、胸の中の何かを少しだけ撫でた。マイクの前のリオは小さく息を吸い、目線を下げて笑った。
「ありがとう。たのしかった。痛かったのも、こわかったのも、ぜんぶ含めて」
拍手。ユノは手を叩く。音が鳴る。鳴りながら、別の音を探す。鍵は静かだった。静かさにも種類がある。厚い静かさと、薄い静かさ。どちらでもなく、ただそこにある静かさ。ユノはそれを胸に貼る。
式が終わると、人が花の周りに集まる。言葉が花瓶の水面に落ちて、輪を広げる。ユノは列に並んで、順番を待つ。順番という仕組みが、今日ほどありがたいと感じたことはない。順番が形を持っていて、その形が身体を支える。列の進み方が遅くなり、前の人がリオの肩に手を置く。何かが「おめでとう」を言い、その「おめでとう」が何に向かっているのかが少し曖昧で、曖昧なまま優しい。
順番が来た。近い距離に彼女がいる。ユノは言葉を準備していなかった。準備をしても、準備したものと現実はいつもずれる。ずれのために、黙る。
「ユノ」
その一言に、もう言われるべきことのほとんどが入っている気がした。自分の名前の音は、今日ほど重く、軽かったことがない。ユノは息を吸って、吐くのを忘れて、また吸った。
「……おめでとう。じゃなくて」
「うん」
「……おつかれさま」
言葉は正解だった。正解で、足りなかった。リオは笑って、目を細める。その目の中に、ホールの天井の光が小さく逆さまに映る。隅の暗がり、壁の継ぎ目の線、誰かの肩。世界が目の中にきれいに収まっている。ユノは、その目のピントを信じたかった。
「甘いやつ、また食べに行こ」
自分の口から出てきた声が、少しだけ他人に聞こえた。リオは頷いた。迷いなく頷いた。
「うん。行こう。引退したらね、時間はたっぷりあるから」
時間。単語の表面がつるつるして、指からすべる。ユノはその単語を追いかけるのをやめ、代わりに、彼女の左肩にライトが落としている輪郭の明るさを目でなぞった。光は、今日だけ彼女の肩に忠実だった。
別れ際、リオはユノの手をそっと握った。きちんと手の形で。ルールのある握り方。握った後で、指先だけを残して離す。離れる練習をよくしてきた人の離れ方。ユノはその手の強さを、骨の記憶に刻む。骨はよく覚える。皮膚よりも長く、確かに。
人が引いて、ホールが広くなる。ユノは最後まで席に残って、花が片づけられていくのを見た。花瓶の水が揺れて、光が少し歪む。壇上の端に置かれていた白い布が、誰の手にも触れられず、風のない場所でかすかに動いた。換気の流れ。世界はいつも通り、空気を入れ替える。
夕暮れ。建物の外に出ると、空の色が濃くなる手前にいた。青と灰の境目。空気が軽い。ユノは首を上げる。遠くの空に、虹色の薄い靄が一本、縦に立っていた。誰かのため息が、目に見える形をとったみたいに。掌を胸に当てる。鍵は静か。今日はずっと、静か。
寮へ戻る廊下の蛍光灯が一本、点滅している。古い映画の中のように、歩くたび光がついたり消えたりする。足音が、灯りに合わせて濃くなったり薄くなったりした。部屋のドアを閉めると、音がすぐに止まった。壁の白。ベッドの皺。机の角の擦り跡。見慣れたものが安心の役をする。ユノは靴を脱ぎ、ゆっくりと床に座り込んだ。床は冷たくて、確かな硬さがある。身体の重さが床に分かれていく感覚を、数まで数えずに見送る。
端末が震えた。画面にリオの名前。短いメッセージ。「来てくれてありがとう」。その下に、砂糖のかかったパンの絵文字が一個。ユノは同じパンの絵文字を返そうとして、指を止めた。かわりに、言葉にした。「また行こ」。送信。既読。何も返ってこない。返ってこないことの中に、きちんとした温度がある。夜の中に、ほどけない結び目みたいに座っている温度。
明かりを消しても、部屋は完全には暗くならなかった。カーテンの隙間から、外の街灯の呼吸が入ってくる。ユノはベッドに仰向けになり、天井のスリットを数えかけて、やめる。数えることは、今日に限って、なにかを小さくしてしまうように思えた。目を閉じる。瞼の裏に、壇上の光の輪郭が残っている。輪郭はじきに薄くなり、代わりに霧の粒が集まってくる。夢の前庭。湿った音。あの森の手前。足首にひやりとした空気が触れ、ユノは身体を少し小さく丸めた。
――そのとき、部屋の端で、光の粒が立ち上がった。
目を開けたわけではない。目を閉じたまま、光があるのがわかった。砂糖をふるった時の、粉の舞い方。粒は空気の層をゆっくり登り、天井の角でとまり、そこから細い糸になって床へ落ちた。糸の先に輪郭が生まれる。人の肩。長い髪。振り向く前に、ユノは名前を口の中で言った。言葉の重さが歯の裏にかかった。
「……リオ?」
返事は、音ではなかった。空気の密度が、ほんの少しだけ変わる。ユノは起き上がらず、手を伸ばさない。伸ばした手が掬うのは、きっと空振りだと思った。輪郭は何度かゆっくりと瞬いて、強くなり、また薄くなり、最後に、ユノのベッドの足元まで歩いてきたように見えた。音はない。床板も軋まない。けれど、歩幅の長さだけが、ちゃんと伝わる。彼女の歩幅。廊下を並んで歩くとき、脇で起こるリズムと同じ。
ユノは息を整える。声は出さない。声を出すと、光が言葉の中に巻き込まれて、壊れてしまう気がした。光の人影は、ベッドの角で立ち止まる。ユノの胸の上で、鍵が初めてゆっくりと鳴った。カチリ。響きは柔らかかった。鍵は、今日を通してずっと黙していたのに、ここでだけ、音を選んだ。
――おかえり。
言葉は、ユノの喉の奥ではなく、耳の後ろのあたりで聞こえた。声帯に触れない声。夢と現の間にだけ置かれる声。ユノは目を閉じたまま、頷く。頷くことで、形が固まる。光の人影は、頷き返す気配をつくり、少しだけ肩を落として笑ったように見えた。笑いの輪郭が、空気の表面に浅く刻まれて、すぐに消える。甘いやつを半分こするときの笑い方。パン屑が指につく少し前の。
「……寒くない?」
声に名前をつけられなかった。寒いという単語は、正確で、足りなかった。光は、首を横に振る仕草を一つだけ見せ、部屋の隅へ向かって二歩、下がった。そこに、月の細い影が落ちている。影の中には、塵が静かにうごめいていた。彼女はそこに立って、もう一度、何かを言おうとして、やめた。やめること自体が、言葉になって、ユノの耳へ来る。
「……またね」
ユノがそう言うと、光は一度だけ大きく瞬き、静かにほどけていった。粒は空気の網目をすり抜け、見えなくなり、見えなくなった後にも、見える気がする残り香だけが、窓と天井の間に浮いた。ユノはしばらく動かず、鍵に指を添える。鍵の輪は、今日でいちばん静かだった。音を出さない静かさではなく、音がそこにいる静かさ。そこにいる、ということが、しっかりとわかる静かさ。
眠りに落ちる前、ユノはひとつだけはっきりと思う。今夜見たものが何であれ、それは幻覚ではない。否定のための肯定ではなく、肯定のための肯定。世界が、今日だけ、彼女に優しく位置を教えてくれた。彼女がどこにいるか。ユノはどこで待てばいいか。待つ、という動詞は、少し温かかった。
朝になれば、こころよく整った日課がまた始まるだろう。起床時間。点呼。ストレッチ。射撃。講義。昼。掃除。夕方。点検。夜。世界は日課を愛している。日課は、壊れたことを見えなくする巧妙な壁紙だ。ユノは壁紙の模様を指でなぞる練習を、今夜ひとつだけやめた。代わりに、模様の下の壁のひびを思い出す。ひびは細く長い。誰も気づかない速度で伸びていく。誰かがわざと隠し、誰かがわざと見つけない。ひびの向こうには何があるだろう。彼女は、そこに立っていた気がする。
眠気が、やわらかく重なる。まぶたの裏側で、光の粒がまだ動いている。たぶんリオは、今夜だけ、こちら側へ来られた。こちら側へ来るために必要な、目に見えない梯子の段を、誰かが数段分、下ろしてくれたみたいに。誰が、の問いは今は置いておく。問いは重い。今夜は、軽いものだけ持って眠りたい。
ユノは最後に、小さく呟いた。
「甘いやつ、今度はふたつ、買おう」
答えはなかった。答えは必要なかった。約束の形は、言った瞬間、空気に馴染んで、部屋のどこにも見えないけれど、確かに置かれた。彼女はそれを見ないまま、眠りへ沈む。沈みながら、鍵が一度だけ小さく鳴ったのを聞いた。ああ、とユノは思った。今日の一日は、ちゃんと終わった。終わって、まだ続いている。続きは、夜の向こう側にある。そこへ行く道筋を、今夜、小さく灯が教えた。灯の形は、人の形をしていた。名前は、リオ。
朝が来るまで、世界はちゃんと呼吸していた。ユノも、鍵も、同じ速度で。呼吸の合間に、遠くで誰かの足音がひとつだけ鳴り、消えた。いい音だった。いい音は、眠りを深くする。ユノは眠った。眠りの底で、「またね」がもう一度、言われた。誰が、の問いはやはり置いたまま、静かに。




