第三部 夢と影 ― 指定個体
訓練スケジュールが変わったのは、ほんの小さな通達だった。
アプリの通知ひとつ。赤い印字で〈特別課程〉と書かれていた。
「新カリキュラム導入に伴う試験運用」――そう説明されていたが、ユノにはその言葉の裏に“別の意図”があるように思えた。
訓練棟の構造が少し変わっていた。廊下の曲がり角にカメラが増えている。
通るたび、視線のようなものが背中に刺さる。
鏡面の床に反射する自分の顔が、わずかに遅れて動いている気がした。
「気のせい……だよね」
口の中で呟いた。返事はなかった。
*
新しい訓練プログラムは「制御テスト」と呼ばれた。
単独で魔素を抑制し、封鎖空間内で維持する試験。
教官は壁の外から観察する。ユノの周囲には、金属の柱が円を描いて並んでいた。
柱の先端が赤く点滅する。
「開始まで十秒」
灰野の声がスピーカーから響く。
「……リリースコード、展開」
ユノは深呼吸し、手にした銀の鍵を回した。
瞬間、足元の紋章が光り、魔素の粒子が霧のように立ち上がる。
それを包み込むように、半透明の膜が形成された。
成功――のはずだった。
だが、膜は一瞬で歪み、波打つ。
光が跳ね返り、壁が鳴った。
灰野の声が一瞬だけ焦りを含む。
「出力抑制! ユノ、すぐに魔力を下げろ!」
「やってます!」
制御が利かない。力が、外へ溢れようとしている。
ユノは歯を食いしばり、両手を握った。
リリースコードが勝手に輝き、指先が熱くなる。
その瞬間、視界が白く染まった。
——次の瞬間、音が消えた。
空気が凍り、霧が静止する。
全てが止まった空間の中で、ただ一つ、声だけが響く。
《あなたの力は、もっと先まで届く》
女の声。低く、優しく、悲しげで。
ユノは振り返った。
誰もいない。
だが、確かに感じる。すぐそばに“誰か”がいる。
呼吸のような気配。涙のような温度。
目を開けたとき、床に崩れ落ちていた。
警報が鳴り、灰野が駆け寄ってくる。
「ユノ! 聞こえるか!?」
「……はい。ちょっと、疲れただけです」
意識ははっきりしていたが、体は動かない。
手の中のリリースコードだけが、心臓の鼓動のように震えていた。
*
医務室。
点滴の滴が落ちる音が静かに響く。
白い天井。漂う消毒液の匂い。
カーテンの隙間から、リオが顔を覗かせた。
「びっくりしたよ。急に倒れたって聞いて……」
「大丈夫。ちょっと制御ミスっただけ」
「ほんとに? なんか……前より無理してるように見える」
ユノは微笑んだ。
「平気。少し休めば治るから」
リオは口を噤み、椅子に腰を下ろした。
沈黙。
やがて、彼女がぽつりと呟く。
「……ねぇユノ。訓練場のカメラ、増えたよね」
「え?」
「昨日の廊下でね、誰もいないのにライトが勝手についたの。
誰かが見てる気がして……」
言葉が途切れる。
ユノは無意識に、自分の腕を抱いた。
その肌の奥に、“透明な目”があるような感覚がした。
*
夜。
ユノは再び夢を見る。
白い部屋。足音が響く。
床に長い影が伸び、その先に女性が立っている。
髪は銀色、目は淡く光っていた。
彼女は微笑み、手を差し伸べた。
《見つけたわ、ユノ》
「……誰?」
《あなたは、私の続き。だから、思い出して》
言葉の意味を理解するより早く、手の中のリリースコードが光る。
女の輪郭が崩れ、花のように散っていった。
そして最後に、囁くような声が残る。
《あなたの力は、与えるものじゃない。流れを変える力》
ユノは目を覚ました。
額の汗を拭い、荒い呼吸を整える。
外は静かで、夜明け前の淡い光が窓を染めていた。
――流れを、変える。
その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
*
一方、IMIA本部では。
データスクリーンの前に、灰野とシロウが向かい合っていた。
「事故報告、確認しました」
「事故じゃない。あれは“反応”だ」
灰野の声には疲労が滲んでいる。
「彼女の適合率は上がり続けている。制御不能域に近い」
シロウは無表情のままデータをスクロールさせた。
「いい傾向だ。予定より早く進んでいる」
「予定……? あなたたちは何をしている」
「PROJECT_AURORA_REACTOR。名前くらいは聞いたことがあるだろう」
灰野の呼吸が止まる。
「まさか……ユノをその計画に――」
「決まったことだ。君の意見は求めていない」
「彼女は、ただの少女ですよ!」
シロウの目がわずかに細まった。
「“ただの少女”に、世界は救えない」
そして、画面を閉じた。
*
翌日、ユノは朝の訓練に現れなかった。
体調不良として扱われ、灰野だけが医務室へ向かう。
扉の隙間から、寝息が聞こえた。
だが、その隣のベッドには誰もいない。
空間が、わずかに揺れている。
まるで“誰かが見ている”かのように。
灰野は扉を閉め、呟いた。
「……セリア・ノイン。あなたの残したものは、まだここにあるのか」
*
深夜、システムの中でファイルがひとつ更新された。
――【PROJECT_AURORA_REACTOR】
分類:極秘/最高機密
対象:ユノ・アマツキ
観測結果:異常適合率継続/融合段階への移行可
担当官署名:シロウ・エガワ
備考:被験個体周囲に幻聴・夢見現象の報告あり。原因は“共鳴”の可能性。
冷たい光がモニターを照らし、誰もいない部屋に文字だけが浮かんだ。
その下で、ファイルが自動保存される音が小さく響いた。
そして、どこか遠くでユノが目を覚ました。
夢の残響がまだ耳に残っている。
「……私、見られてる」
呟いた瞬間、窓の外に虹色の靄がかすかに光った。
それはまるで、見えない誰かが微笑んでいるように見えた。




