ふたつめ 鍵が開く場所
転移の亀裂は、紙を鋭く裂くときの、空気の鳴きに似ていた。
ユノ・アマツキは、灰空の下を斜めに滑り、二つの影を引き連れたまま、世界の縁に針を通すようにして場所を移した。丘陵、廃レーダー基地、砕けたパラボラ、枯れた草。風は金属の匂いを含み、魔素の粒は光りもせずに頬を刺した。
背後で、レナ・フィーネの翼が擦れる。
空間の裂け目でできた羽根は、夜を裂くナイフみたいに鈍く光り、ミナト・アサクラの足元で、重力が砂のようにざらついた。
「逃げ場を……選んだつもり?」
レナの声は甘い。甘いのに、体温がない。
「ここで終わらせる。ユノ、戻ろう。**“上”**はあなたを待ってる」
ユノは振り返り、右手でリリースコードを握る。銀の鍵は、心臓のリズムに合わせて短く震え、回路がひとつ、彼女の内側に“挿し込まれた”。
「戻らない。——世界のために」
「世界のため?」ミナトが微笑む。「それなら、一緒に来て。あなたは蓋になる。世界は静かになる」
「静かなまま死ぬだけだよ」
ユノの足が一歩、乾いた地面の砂利を踏んだ。
風が合図になったみたいに、レナの羽が広がる。無音の衝撃波。丘の表面が撫でられたみたいに沈み、遠くの錆びたフェンスが斜めにへし折れる。
ユノは半身で受け、鍵の歯を脳裏で噛み合わせ、薄盾を“意味”の層に展開する。守るという語を、閉じ込めるという語に反転させないよう、わずかに姿勢を落とす。
ミナトの圧が来る。
地面が一瞬、奈落になる。足首から下が重力に掴まれ、骨の中の空洞まで引きずり下ろされる感覚。ユノは落ちる加速を前進に変え、地のベクトルを借りて斜め上へ跳ぶ。
左側から、レナの裂け目が襲いかかる。見るだけで視界が酔う、切断よりも“属性の剥奪”に近い刃。ユノは縫うように光糸を打ち込み、空間のほつれ目を仮止めしていく。レナの瞳がかすかに震えた。
「……どうして、そんな戦い方、覚えたの?」
「縫わないと、直らないから」
鳴る。鍵が、彼女の掌で一音。
ユノは細撃で距離を刻み、薄盾を肌に密着させ、語を崩さないよう呼吸を整え続ける。
レナの曲線、ミナトの直線。二人のリズムは異なるのに、どこか同じ“譜面”に従っている。——洗脳の譜面。
その譜面に、欠けが現れた。
風の切れ間。レナの口元に、ほんとうに小さな“揺れ”。
ミナトの瞳孔が、光の少ない夜でも分かるくらい微かに縮む。
「ユノ……」レナが囁く。「聞こえる?」
衝撃波の裏側。空気の薄膜に隠れるように、かすれた本当の声が混じる。
「逃げて」
次の一拍で、ミナトも重力井戸の手を緩めた。
「今だけ。……すぐ戻るから。お願い、ユノ——」
ユノの喉奥がきゅっと締まった。
彼女は踏み込む。レナの羽縁へ、ミナトの肩先へ。
触れる距離。
その一瞬、リリースコードが見せる“短い夢”。
——夏の屋台。焼きそばの湯気。雨宿り。三人。笑い声。
ユノは目を細め、低く言う。
「世界を、私に任せて。絶対に——終わらせない」
レナの眉が、一瞬だけ結ばれた。「あなたなら、できる」
ミナトが唇を噛む。「行って。私たち、抑えるから」
次の瞬間、譜面が戻る。
洗脳の拍子が、二人の身体に無理やりかぶさってくる。
羽が鳴り、重力が吠え、丘が軋む。
ユノは鍵を胸に当てた。
「リリースコード、視界分離。二十秒」
『承認。対象二の認知回廊に霧化障壁を挿入。今だけ、あなたはいない』
風景の色相が半段ずれる。
レナとミナトの視線が、ユノの輪郭を見失う。
ユノは体を低くし、裂け目と井戸の間を滑る。足音を砂へ溶かし、呼吸を風へ紛らせる。
遠くの瓦礫の影で、二人の動きが絡まる。互いを見失い、互いの譜面だけを聴いて衝突し、また離れる。
「——今だ」
ユノは亀裂を開く。
夜が横に裂け、銀の縁取りが光る。
彼女はそこへ身を滑り込ませ、別の空気へ落ちた。
*
廃貯水池の底にある防空壕跡。
冷たいコンクリートの匂いと、誰かが昔つけた落書き。
ユノが着地した瞬間、背骨に積もっていた緊張がわずかに崩れた。膝が笑う。息が荒い。視界が白む。
——間に合って。どうか、間に合って。
足音。
「ユノ!」
暗がりから、シロウ・エガワが現れた。額に走る新しい傷、袖に滲む血。後ろには担架に乗せられた灰翼のメンバー。
「全員、生きてる。……ギリギリだが、繋いだ。お前は?」
「大丈夫。レナとミナトは——自分を取り戻した。一瞬だけ。でも、またすぐ……」
ユノの声が細くなる。
言いながら、胸の奥に重たい石が沈むのを感じた。
“あの瞬間が最後かもしれない”という予感。
それでも、二人は言った。世界をお願いと。
シロウは頷き、短く息を吐く。
「……なら、急ごう。時間がない」
ユノはリリースコードを握り直し、目を上げる。
「シロウ。決めた。私は——自分を“消化”させる。オーロラリアクターを破壊して、そこに注ぎ込まれているエネルギーを全部、私に流す。
私が器になる。奪わないで、清めるために」
“消化”という言葉は、ユノ自身の皮膚にもぎざぎざした。
自分の存在を、力へと分解し、世界へ混ぜる。
戻る場所がなくなることを意味している。
シロウは、すぐに否定もしなかったし、すぐに肯定もしなかった。
数秒だけ黙り、やがて言う。
「……警備は、桁違いだ。総本部は今、世界で最も安全で、最も危険な場所だ。虹の層の外側に三重、内側に二重の結界。魔法少女の常時巡回、自動防衛。
だが——お前なら、力ずくでいける」
「正面から、行くの?」
「転移で総本部近くへ。そこからは一直線だ。
待ち構える魔法少女は、お前から自動で吸われる。活動限界まで。障害は、砕け。時間は、買え。
そして地下へ降りる。コア前まで。
——やるなら、今だ」
ユノは短く頷いた。
胸の内側で、恐怖がはっきり形を持つ。
そのそばに、決意が座る。
どちらもいなくならない。いなくならないから、一緒に連れていく。
「お願い、シロウ。道を」
「任せろ」
*
転移。
世界が薄紙の束みたいにめくれ、ユノとシロウは高架下に降りた。
数百メートル先、夜景の底からそびえる白い塔。
IMIAの総本部。
周囲の街はすでに“人の街”ではなく、信号の点滅と、風に揺れる標識だけが過去の名残を主張していた。
『警告。監視網に接続。対象“ユノ・アマツキ”検知を前提に動作』
リリースコードが低く告げる。
「いい。見つかっていい」ユノは応じる。「最短で行こう」
最初の巡回隊が角から現れた。
制服の魔法少女四人。標準型の盾、短杖、符。
ユノの半径十メートルに入った瞬間、彼女たちの魔力が痩せる。
呼吸が乱れ、膝がきしむ。奪う力が、働く。
ユノは走りを止めない。
彼女たちが地に膝をつくのを横目に、謝罪を胸の内側で呟く。
——ごめん。借りる。世界のために。
二陣。
今度は上位型。
結界を先に張り、対吸収の符で身体を覆う。
ユノは盾を語で上書きし、差し替える。
“守る”は“溶けない”。溶かすのは、相手の結界。
彼女の周囲で、結界の“意味”が剥がれ、膜だけが残って破れた。
警報が塔の外壁を走る。
地面が低く唸り、地中から自動防衛の柱が伸びた。
光条、散弾、拘束網。
ユノは歩幅を変えない。語で網目の“正しさ”をほどき、散弾の“多数”を“ひとつ”にまとめ、光条の“直線”を“曲線”に替える。
彼女の通った跡に、片仮名のようなひずみが残り、夜風がそこをなぞって消した。
三陣。
名のある魔法少女。胸章の色が違う。
彼女は距離を取り、遠隔拘束をかけようとした。
ユノは走りながら、リリースコードに囁く。
「奪い過ぎないで。限界手前で止めて」
『了承。吸収閾値を個別推定、生命維持域を維持』
名のある彼女は、膝を折った。
限界手前で、目だけがユノを追う。
ユノはまた、胸の内側でごめんと言う。
殴らないことが優しさではない。速さが優しさになる場合がある。今は、それだ。
塔のふもとに到達。
白壁に虹の層の外殻が走り、入射角ごとに薄い光がずれる。
ユノは掌を置く。
リリースコードが密かに鳴り、鍵は鍵穴のない場所へ鍵として差し込まれた。
継承/停止の回路を重ね,解放の回路は閉じ,変換の回路は触れない。
扉は、開く。
空気が変わる。
人の匂いが薄い地下の匂い。電解液,熱,封印剤。
「ここからは地下だ」シロウが短く言う。「案内はできる。だが守れない」
「守られない方が、軽い」
二人は階段を駆け降りる。
踊り場ごとに、虹の層の薄片が見える。制度、情報、上空、地下、地上。五つの結界のうち、今、制度と情報が騒いでいる。
ユノは走る。足音がコンクリートに弾み、心臓が鍵と同じリズムを刻み始める。
地下三十七階。
重たい扉があり、その手前に広い空間が口を開けていた。
ユノは一歩、踏み入れて——言葉を失った。
並んでいる。
果てまで、並んでいる。
台の上に、壁に、天井から吊られて。
剣、杖、槍、輪、弓、鈴、短刀、扇、書、鎖、銃。
武器。
どれも、人の手の形が残ったまま、人の体温だけを取り上げられたみたいに静かだ。
銘牌がある。名前がある。日付がある。
引退日。回収ロット。安定化処理済。
数万。
ユノの目は、文字を追えない。数が意味を溶かす。
シロウが立ち止まり、帽子もないのに帽子を脱ぐような仕草をした。
ユノは近くの一本に手を伸ばす。
その柄に触れる前に、指先が止まる。
冷たさが、そこにいる。
誰かの最後の息が、まだ消えきれていないみたいに。
彼女は掌を引き、代わりに胸の鍵を握った。
喉の奥が熱い。目の奥が痛い。
怒りか、悲しみか。両方だ。
それでも、声は静かだった。
「——終わらせる」
ユノは前を向く。
この奥に、オーロラリアクター。
世界を“延命”させてきた蓋。奪ってきた蓋。
鍵が短く震え、扉の向こうで何かが、彼女を待っている。
足を、出す。
世界を、開けるために。




