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職業:魔法少女  作者: ずんだずんだ
最終章 終わりとはじまりに
22/26

ひとつめ:堕ちた羽根たち

 空が鳴っていた。耳の鼓膜ではなく、肺の内側で。

 雲は鉛、風は粉。湿り気を失った微粒子が皮膚の上で擦れ、静電気のような痛みを残す。街の輪郭はすでに白く掠れ、ガラスは曇り、看板は色を捨て、信号機だけが義務的に瞬きを繰り返していた。

 魔素濃度――97%。

 呼吸は作業で、視線は労働だ。目を開くたび、世界の方がわずかに退いていく。


 灰翼グレイウィングの地下拠点では、空調が止まり、機械の低い唸りが痙攣のように途切れていた。非常灯の緑が壁を薄く塗り、モニターの青白さが人の顔色を同じ色に揃える。カナリアは端末に硬い指を走らせ、紙の地図に赤鉛筆で濃い十字をいくつも重ねていく。


「活動可能区域、全世界で十六パーセント。治療済みの復帰者八十。再起不能、六百三十七」

「……数字の言い方を変えても、現実は同じだな」シロウ・エガワが、乾いた喉で応じた。

 長机の上には、電源の落ちた端末、印刷がかすれた報告書、手書きのカルテ。今、この部屋で“最新”と呼べるのは、ペン先の濡れただけのインクだ。


 ユノ・アマツキは壁際に立ち、胸元のリリースコードを指先で確かめる。銀の鍵は体温とは別の温度を持ち、金属なのに、体の奥の柔らかいところに触れてくる。

 あの戦闘の後――彼女だけが、ほとんど傷を負っていなかった。その事実は“運がよかった”では片づけられない冷たさを伴って、灰翼の空気に沈殿している。


 頭上で、世界がきしむ。

 風と粉の境目で、**灰嵐かいらん**が起きた。砂粒より小さな棘の群れが換気孔を逆流し、換気扇の羽根がひとつ、疲れ切った蝶のように脱落して床に落ちる。


「オーロラリアクターの稼働率、三割を割った」

 シロウの声は静かだが、そこに貼りつく数字は容赦がない。

「止まれば、一晩で百に届く。いまは蓋で泡を抑え込んでいるだけだ」


「あと、どれくらい?」とユノ。

「最長で一年。最短で数ヶ月」

 返事は容易いが、意味は重い。数ヶ月とは、季節の単位だ。服を入れ替えるより先に、世界が衣替えする。


 ユノは目を閉じ、吸い込む。喉の奥が焼けるようにしみ、肺が紙でできているみたいに軋む。奪わないで、浄める――その言葉の手触りだけが、胸の内側に小さく灯っていた。


 その時、アラートが鳴る。

 赤が回り、緑が引き、天井の蛍光灯がひとつ破裂した。

「接近反応――二。魔力値、規格外!」

 報告の尻尾が震え、空気が先に震えた。


 ズゥン――床下で巨大な心臓が一回だけ打つような、鈍い衝撃。

 コンクリートに染みた水が波紋をつくり、スチール棚がかすかに滑った。

 鉄の扉が、音もなく、中から押し広げられる。


 崩れた口の向こうに、二つの影。

 一人は金の髪を高く束ね、片目の下に泣き黒子。

 もう一人は黒髪を短く切り、額に細い傷の古跡。

 二人とも、背から羽が生えていた。羽といっても羽毛ではない。空間の裂け目が幾重にも重なって、光を食みながら伸び縮みしている。見ていると、視界が酔う。


「――やっと見つけた」

 レナ・フィーネが微笑む。口角の曲線は昔と同じなのに、笑いが体温を持たない。

 隣のミナト・アサクラは、頬の筋肉だけで笑いの形をなぞった。

「任務だよ、ユノ・アマツキ。確保対象。抵抗は、しないで?」


 かつて、肩を並べて食べた屋台の焼きそばの味が、記憶の奥からひょいと顔を出す。その些細なぬくもりに、現在のこの冷たさが余計に冷たい。

「……どうして、あなたたちが」

「新世代リアクター候補になった。少しだけ、“もらった”んだ」

 レナの羽が微かに震え、空気がひと段、密になる。


 次の瞬間、見えない槌が落ちた。

 ドンという音は遅れて来る。床が裂け、壁のペンキが鱗のように剥がれ飛ぶ。三人の灰翼メンバーが宙に浮き、別々の方向に叩きつけられた。

「退避!」カナリアの声が鋼を擦る。「全員、退避――」

 言い切る前に、彼女の左腕が光に穿たれた。

 血は出ない。粒になって空気に溶け、光子化した破片が蛍光灯の死んだソケットに思い出のようにまとわりつく。

「――っ!」

 ユノは反射で盾を張る。遅い。遅いが、何もないよりはずっとましだ。

 カナリアは倒れ込み、右手でホイッスルを探しかけて、途中で手を止めた。鳴らない音は、鳴らさない方が届くことがある。


「ユノ、逃げろ!」

 シロウの声は近いのに遠い。粉塵が音を鈍く咀嚼する。

「……逃げない」ユノは首を横に振った。「ここで、止める」

 リリースコードが掌の上で一音、硬質な金属の鐘のように震える。

 起動。銀の歯が並び、鍵穴のない世界に鍵が刺さる。

 見えない回路が、空間の下層へ回り込んで閉じた。


 ユノの前方に薄膜が展開し、ミナトの衝撃波が斜めに流される。

「すごい。やっぱり、特別だね」ミナト・アサクラが微笑む。瞳孔の開きが左右で違う。精神操作の後遺。

「ミナト……操られてる」

「操られてる? 違うよ。世界を救うために、ユノが必要なんだって」

 言い回しが、彼女の口癖にわずかに似ているのが逆に痛い。誰かの言葉を、彼女自身の言い方で編み直す。刷り込みは、記憶の継ぎ目から侵入する。


 レナ・フィーネが一歩、床に足を置く。

 羽の断面がこちらを向き、虹の層の薄片のような干渉縞が走る。

「ユノ。大丈夫。すぐに終わる。戻ろう? “上”はあなたを必要としてる」

 その“上”は、天ではない。オーロラリアクターの上層だ。蓋の側。吸う側。


 ユノは返事をしない。代わりに、構えだけを整える。

 足幅、呼吸、肩の角度。力を入れない、でも抜かない。折れない枝の姿勢。

 リリースコードが微弱に震え、補助演算が脳の皮質に薄く滲む。

『戦況評価:敵二、味方戦力低下。最適解提示――出力解放』

「だめ」ユノは即答した。「出力を上げない。奪うのを増やしたくない」

『拒否理由:味方生存確率が――』

「黙って。私が、決める」


 決めると言葉にすると、体が決まる。

 ユノは低い角度で走った。床板の隙間に溜まった水が、靴裏の圧で左右に逃げる。瞬撃。

 光条が放たれ、レナの羽の縁に接触する。音が出ない。代わりに、冷気が出る。

 羽は裂け目だから、熱では埋まらない。縫うしかない。

 ユノは縫い目を探すように、細い光を連ねた。刺繍のように、欠損した空間の端を拾っていく。

 レナの笑顔が、微かに揺れた。

「痛い、のね」

「痛いのは、当たり前だよ」ユノは返す。「生きてたら、痛い」


 右側から圧。ミナトの層圧縮が壁面を滑って襲う。

 ユノは身をひねり、角で受け、流す。

 床板が折れる音と、後ろの機材が潰れる音。耳は選べないが、心は選べる。必要な音だけ、残す。

 シロウが倒れた仲間のひとりを引きずり、カナリアが右腕だけで包帯を巻いている。「退路を開ける!」

 その言葉が合図になったみたいに、天井が割れた。

 地上の灰風が一気に流れ込み、地下の空気を薄める。

 空が開く。逃げ道が、罠にもなる。


 レナ・フィーネの羽が大きく開き、空中に線を描いた。

 その線は境界で、越えたものの属性を変える。

 ユノの盾が一瞬、裏返る。

 “守る”が“閉じ込める”に、意味の極性が反転する。

 やばい――

 瞬時に別回路へ切り替え、意味を固定する。

 言語のない言語。鍵はそれを扱う。

 継承/解放/停止/変換――四つの回路のうち、今使えるのは継承と停止の部分だけ。

 ユノは“守る”の語を“閉じ込める”から奪い返すように、構文を上書きした。

 盾は戻る。辛うじて。


 ミナト・アサクラの目が輝度を増す。

「ユノ。強いね。――だから、要るんだよ」

 彼女の声は優しい。だから恐ろしい。

 ミナトが羽を畳み,地面に掌をつく。

 重力井戸。床の破片、粉塵、血液、音、時間の端までが沈む。

 ユノはすぐに跳ばない。沈むに乗る。

 落ちる速度を借り,斜めに抜ける。

 重力は敵だが、階段にもなる。

 レナの見えない弦が横から張られる。弾くと切れる。

 切れ端が音になり、人の耳を切る。

 ユノは耳を閉じない。別の音を聴く。

 背後――短い鳴き声。

 カナリアが、笑った。

 まだ笑う余裕がある。まだ選べる。


『提案:出力解放。敵戦力排除、味方負傷者救助同時達成可能』

「解放は奪う。だめ」

『補足:局所的相転移で“奪う”を“清める”に近似可能』

「近似じゃ足りない」

 言い合いながらも、体は戦っている。

 細撃と薄盾、角受と流。

 ユノの戦いは殴るより縫うに近い。

 欠けた世界の端を拾い,仮止めし,ほどく。

 時間は縫い目の間でだけ伸びる。


 三秒だけ、拠点の奥を見る余裕ができた。

 倒れていた灰翼のメンバーに、ひとりずつ小さな灯りが戻っている。

 シロウが持ち場から出ないからだ。無謀をしない。英雄にならない。

 現実に踏ん張る。

 ユノは息を吐いた。救われる。


 だが、限界は来る。

 天井の穴から、地上の灰雨が糸になって降り始めた。

 それは水ではなく、粒。触れれば、エネルギーがささやかに減る。

 レナとミナトにとっては補給になる。

 床に落ちた粒が跳ね,羽がそれを飲む。

「――行こう、ユノ。帰ろう」

 レナ・フィーネの声は、子守歌のテンポだ。

 眠らせ,連れて行くために最適化された声。


 ユノは首を横に振った。

 それだけで、過去が一度揺れた。

 金魚すくい、ゲーセン、焼きそば、雨宿り、練習、失敗、抱きしめたタオルの湿り気。

 全部が揺れ、落ちない。

 彼女は背筋を伸ばし、短く言う。

「帰らない」


 レナの微笑が少し崩れ、羽が大きく開いた。

 閃光。

 ――その瞬間、ユノは決めた。

「囮になる。私が引きつける。シロウ、全員を連れて退避して」

「待て、ユノ、一人では――」

「狙いは私。それなら、私が行く方が早い」

 言い終えるより速く、ユノは跳んだ。

 リリースコードが短く鳴り,世界が斜めにずれる。

 転移――距離は三・四キロ。丘陵地帯。風向きは西。

 背後でシロウの声が小さくなり、カナリアの笑いが無言で届く。

 レナとミナトの光跡が空を裂く音が、雷に似ていた。


 丘の上で、世界は少しだけ広かった。

 木々は骨だけになり、地面はひび割れ、空は薄硝子。

 遠くの街は白い粉の山脈に変わり、タワーは溶けた蝋燭のように傾いている。

 ユノは振り返る。

 二つの影が、一直線に迫る。

 速い。

 逃げ切るより、受ける方がまだ可能性がある。


「……ごめんね、レナ。ミナト」

 声は風でちぎれるが、届く。

 レナ・フィーネの眉が一瞬だけ寄る。昔の彼女が、一瞬だけ戻る。

 ミナト・アサクラの瞳孔がわずかに縮む。そこに、躊躇がほころびのように現れる。

 ――今しかない。


「リリースコード、局所封圧。三十秒」

『承認。転位枠展開、対象二を拘束、視界分離』

 透明な枠が空気にはめ込まれ,レナとミナトの動きが微妙に遅れる。

 時間ではなく、意味を引き伸ばす拘束。語を遅くする。

 レナが羽で切断を試み、ミナトが重力で圧殺に切り替える。

 ユノは前に出る。近い距離は、想い出の距離だ。

 彼女は地面を一度だけ強く蹴り、懐へ滑り込む。

 レナの羽の裏側、ミナトの肩。

 触れる。

 その瞬間、リリースコードが短い夢を見せた。

 ――祭りの屋台、焼きそばの湯気、雨の匂い、三人の笑い声。

 ユノの胸が軋む。

 奪うのは、簡単だ。与えるのは、難しい。

 でも今、与えるのは思い出でいい。繋ぎ止めるための、一秒でいい。


 拘束が解ける三拍前、ユノは宣言する。

「また会える。私が終わらせるから」

 羽が弾け,重力が爆ぜ,丘が沈む。

 ユノは横へ跳び、転移の亀裂に身を滑らせる。

 視界は暗転,音は沈黙,体は針。

 空間の裏打ちを剥がすように、世界がめくれる。


 落ちた先は、廃工場の地下。

 コンクリートの匂い、油の跡、誰かの暮らした痕跡――折れたフォーク、錆びたマグカップ、壁の背伸びした背丈の線。

 人の時間が、薄皮みたいに残っている。

 足音。

「ユノ!」

 暗がりから、シロウが現れる。額に切り傷、腕に包帯。

「全員、生きてる。重傷だが、繋いだ。……よくやった」

 言葉が、ゆっくり胸に落ちる。

 ユノは、やっと息を吐いた。肺が痛い。でも、その痛みははっきりしている。生きている痛みだ。


 工場の天井越しに、広報用の音声がうっすら流れ込む。

 IMIAの通達。

『ユノ・アマツキは、世界の安定を脅かす危険個体。各地の支援は――』

 いつか聞いた、味方の声色。今は、敵の言葉。

 ユノは目を閉じ、首を小さく横に振る。

 捕まれば、蓋になる。延命装置になる。

 それなら――。


 シロウが静かに言う。

「ここから先は、決めるときだ」

 ユノは頷く。脈が鍵と重なる。

「捕まって、使われるくらいなら――私が選ぶ。私の命で、世界を清める」

 言葉はまだ未来だ。だが、今を固めるには十分な重さがある。


 遠くで、雷が笑った。

 世界は薄い。だから、通る。

 ユノは拳をほどき、掌を見た。

 そこにあるのは、鍵。そして、自分。

 奪わないで、清める。

 その言葉を、次に、現実にする。

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