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職業:魔法少女  作者: ずんだずんだ
第五章 進むことも戻ることもできない
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逃走の灯

 地下拠点の朝は、地上の朝よりも遅くやって来る。

 換気ダクトの風が少し暖かくなり、配電盤のファン音が微かに高くなる。

 人の気配がそれに合わせて増え、スープの匂い、金属の擦れる音、ささやき声。

 ユノは折り畳みベッドから起き上がり、リリースコードを胸元に確かめる。銀の鍵は、眠っているあいだも脈のように微細な震えを返し続けていた。夢の中でさえ、その震えは消えなかった。


 簡素な朝食を終えると、シロウとカナリアがユノを「観測室」に案内した。

 観測室——と言っても、壁にスクリーンが三面貼られ、古いサーバが唸るだけの狭い空間だ。だが、ここには地上のどの広間よりも世界が詰まっている。

 カナリアが壁のスイッチを押すと、スクリーンに雲のような模様が広がった。雲ではない。魔素密度の分布図だ。第一層表示、第二層表示、深度合成。三枚のスクリーンが時間差で点滅し、色の海が脈打つ心電図のように揺れる。


「昨夜の続きだ。数字で、世界を話そう」

 シロウが端末から線を引き、スクリーン下部に小さなグラフを浮かべる。

 波形は上昇を続け、わずかに、だが確実に右肩上がりのまま数年を跨いでいた。

 「観測開始からの総量で言うと、地球圏の魔素浸食率は現在九十五%。増加速度は鈍っていない。今のまま“延命”だけを続ければ、あと数年で**百%**に達する」


 九十五。

 数字に宿る冷たさは、言葉で暖められない。

 ユノの喉が乾く。

 「百になったら……?」


「生命活動の前提が崩れる」

 シロウは静かに続ける。

 「魔素は“形”を持たないが、高濃度で干渉し合い、一定以上で“位相”を獲得する。位相を得た魔素は、その空間のエネルギー構造を、より単純で安定な状態へ落とし込む。簡単に言えば——命が“粒”に還る」

 彼はグラフに指を滑らせる。

 「体は残らない。意識も残らない。エネルギーとして散り、消える」


 観測室の空気が、きしむように静まった。

 カナリアが別の画面を開く。今度は地質、海流、気流、電磁環境、そして人の生活活動の統合モデルだ。無数の矢印が地球を取り囲み、ところどころに赤い渦が生まれては消える。

 「魔素に“原因”をたどる試みは、五十年前からずっと続いている。宇宙起源説、地殻起源説、人工干渉説、時間逆流説、神話反復説……どれも完全ではない。どれも“説明”にはなるが“証明”にならない。原因は、分かっていない。分かっているのは、増え続けていること、そしてこの速度では間に合わないこと」


 間に合わない。

 ユノは、昨夜見たヒートマップの赤を思い出した。

 あの赤の海は、ただ広がるだけではない。濃さを増し、深みを増し、世界の下から世界そのものを食べていた。


「どうすれば、止まる?」

 ユノの声は、思ったよりも落ち着いていた。

 カナリアは一瞬だけ笑みを浮かべ、すぐに真顔に戻る。

 「手段は大きく三つ。根源を見つけて廃絶する。蓋を強化して延命する。鍋そのものから毒を抜く」

 彼女はそれぞれに指を立て、簡潔に補足する。

 「根源の廃絶は“正道”だが、原因が見つかっていない。蓋の強化が今のIMIA——オーロラリアクターだ。けれど今の蓋では沸点が上がるスピードに追いつけない。そして三つ目——昨夜、鍵が提案した方法。リアクターを破壊し、ユノを覚醒させ、世界そのものを浄化する」


 “浄化”という単語は、観測室の空気には似合わないほど、柔らかく聞こえた。

 だが、その柔らかさは刃よりも鋭い。

 ユノはリリースコードを親指で撫でた。鍵の歯は冷たい。冷たさは、冬の冷たさではなく、手術室の金属の冷たさだ。

 「オーロラリアクターと融合する、という選択もある」

 シロウの言葉が、静かな波紋を広げる。

「それを選べば、延命はできる。君を媒介に、世界中の魔法少女から自動で吸収する。引退という“儀式”は不要になり、表向きの死者は減る。ただし、君は装置になる。人間の意思は、前提から外される」


 装置。

 昨夜の言葉が、別の温度で胸に戻る。

 ユノは目を閉じ、まぶたの内側でセリアの微笑を見た。

 彼女が託したのは、延命の輪ではない。終わらせない——犠牲の連鎖を、だ。


「まず、根源」

 カナリアが画面のモードを切り替えた。

 スクリーンに、黒い点がいくつも現れ、それらが細い線で結ばれる。

 「五十年分の“異常点”を統計処理した地図だ。驚くほどランダムに見える。けれど、ランダムはランダムじゃない。繰り返しの理由が見えるところまでデータを重ねれば、何かが浮かぶ」

 線は、世界を幾つかの巨大な楕円で囲み、楕円は互いに重なって、見えない格子を成した。

 「見えるか? 回廊だ。魔素の濃い“風の道”。この回廊上で、人間の活動が強い場所ほど、沸点が早く上がる」


「人間の活動……都市?」

「都市、戦場、発電、そして——引退施設」

 カナリアの言葉に、ユノの心臓が小さく跳ねた。

 「引退は“回収”だ。回収は熱を生む。熱は、回廊を呼吸させる。延命そのものが、増殖を助けている可能性がある」

 ユノは無意識に一歩、後ろに下がった。

 正しさが、別の場所で逆立ちしている。

 「“蓋”を厚くすることが、“沸点”を上げる。そんな悪循環が、今の世界にはある」


 観測室の片隅で、若い看護師が小さく息を呑んだ。

 「じゃあ、どうすれば……」

 問いは宙に消えず、リリースコードの歯に引っ掛かった。

 ユノは鍵を握り直し、口を開く。

 「根源を探す。探せるなら、それが一番いい。でも、時間がない。世界は九十五。百になったら、みんな粒に還る」

 言葉にすることで、数字が熱を持つ。

 九十五は、もうすぐ百だ。百は、数字の端ではなく、世界の端だ。


「根源探索は、続ける。同時に、だ」

 シロウが別のスクリーンに手を伸ばし、深海・地殻・上層大気の観測孔を示す。

 「灰翼にも国境はない。各地の“灰”が目になり、“耳”になって、世界の脈を拾っている。もし根源が“点”であるなら、必ず見つかる。ただし、それが見つかるより早く、百が来るかもしれない」


「だから——選択肢は三つのまま、同時進行で行くべきだ」

 カナリアが指を折る。

 「一、根源探索。二、融合の拒否と遅延工作。三、鍵の提案——リアクター破壊と覚醒の準備」

 彼女はユノを見る。

 「どれも軽くない。どれも、誰かが持ち上げないと動かない」


 ユノは、胸の内側を探る。

 恐怖はそこにいる。けれど、昨夜よりも動き方が分かる。

 思考は、感情よりも先に走らない。感情は、思考よりも遅れていない。

 彼女は、言葉を探し、選び、置いた。


「——三つとも、やる」

 観測室の空気が、息を吐く音を立てた。

 「根源を探す。融合を止める。覚醒の準備をする。時間を稼ぎながら、世界の重さを軽くする」


「覚悟の言葉を、一つずつ現実にする段取りを」

 シロウは僅かに笑み、端末を操作した。

 「根源探索班の統括はカナリア。俺は虹の層突破のルート工作と偽装身分の手配、ヴェラ対策。ユノは——身体を整える。鍵の提案は“理論上”は可能だ。だが、器が要る。持つ体に整える時間がいる」


 身体。

 ユノは自分の掌を見る。

 指先は細く、傷は小さい。戦場の痕は内側にある。

 リリースコードが、皮膚の下の鼓動に合わせて微かに揺れた。


「世界の“命”は、残り数年」

 カナリアは数字をもう一度置いた。

 「九十五%というのは、ただの平均じゃない。人の街は、もうほとんど九十八を超えている。森と海の深部に、まだ薄い場所が残っているだけ。百は、“順番に”来る」


 スクリーンに、都市の名前が淡い赤で灯った。

 東京、ジャカルタ、カイロ、ムンバイ、メキシコシティ、ラゴス——人が多い場所ほど、赤は濃い。

 ユノは唇を噛み、視線を逸らさずに言う。

「百が来る前に、間に合わせる。どれか一つじゃない。全部でこじ開ける」


 観測室の外で、子どもの笑い声が一瞬した。

 灰翼の避難所には、退役者だけではなく、誰かの子もいた。

 笑い声はすぐに小さくなり、母親の「静かにね」というささやきに紛れて消える。

 その短い音が、ユノの胸にひっかかった。

 ——この声を、粒にしたくない。


「もう少し“仕組み”の話を続けよう」

 シロウがスクリーンを切り替え、オーロラリアクターの概略図を出す。

 同心円状の多層防御——虹の層。

 地上、地下、上空、情報、制度。五つの層が絡み合い、中心のコアを覆っている。

 「融合は外側の“儀式”から始まる。君をコアの媒介に接続し、回廊を開く。儀式が終わると、君は蓋になる。蓋は吸う。吸えば静まる。静まれば、誰も騒がない。——彼らの“理想”だ」


 ユノは首を振った。

 「理想じゃない。停止だ」

 カナリアが頷き、今度は別の図を開いた。

 鍵——リリースコード——と、オーロラリアクターの関係を示す模式図。

 「鍵は回路を持っている。解放の回路。継承の回路。停止の回路。そして——昨夜示した変換の回路」

 リリースコードが微かに震え、ユノの掌の上で静かな肯定を打つ。


「変換は、相転移を必要とする。奪うから清めるへ。相転移を起こすには、飽和点を超える必要がある」

 シロウが淡々と続ける。

 「飽和点を越えるには、エネルギーが要る。世界中の“蓄え”を一度に器へ流し込む。器は耐えられない。器は——君だ」


 観測室に、誰にも聞こえない音が落ちた。

 それはユノの胸の奥で鳴った。

 恐怖と、同意。

 「私が器になる。別の誰かではなく」

 言葉にすると、覚悟は重くなる。でも、その重さは骨組みになる。


「……ただ、別の道もゼロではない」

 カナリアがゆっくりと言った。

 「根源が“点”ではなく“意志”である可能性。言い換えれば——誰かやなにかが、増やしている可能性」

 ユノの目が揺れた。

 「意志?」

 「分からない。だが、もしそうなら、“交渉”や“遮断”や“儀礼”の手段が生まれる。世界には、数字で測れない層がある。魔素が“位相”を持つなら、そこに言葉が入る余地もある」

 カナリアの言葉は、荒唐無稽ではなかった。退役者の目は、夢でなく現実の端を見てきた目だ。


 ユノは静かに息を吐く。

 彼女の左目の奥で、虹が淡く灯る。

 ——言葉。

 世界を変えるほどの言葉を、自分は持っていない。

 けれど、選ぶ言葉なら、今ここにある。

 「全部を、やる」

 もう一度、同じ答えを置く。

 根源を探す。融合を遅らせる。鍵の準備を進める。言葉の余地を探す。

 全部が、どれも他の時間を買ってくれる。


 会議は実務へ移った。

 根源探索班は海と地の深部データの再解析に入る。子どもの頃に読んだ地図帳では見たことのない“世界の断面図”がスクリーンに踊り、退役者たちの指先がそこに印をつけていく。

 ヴェラ対策班は、都市インフラのログを偽装し、ユノの“位置”を複数にする手筈を整える。

 医療班は、ユノの器としての基礎体力と魔力循環の再配線を考え、古い論文と新しい噂話を同じ強度で読み直す。

 「魂の縫い止め」という言葉が、暗号のようにささやかれた。迷信と科学の境界線でしか、今はできることがない。


 休憩の合図が出た。

 観測室の隣の小部屋で、ユノは水を飲んだ。冷たい水は、喉ではなく、胸に届いた。

 シロウが紙コップを持って入ってくる。

 「……数字は、残酷だな」

 「うん。でも、嘘ではない」

 会話は短く、長い。

 言葉の間に、互いの時間が詰まっている。

 シロウがふと笑う。

 「ミントティー、気に入った?」

 ユノも、少し笑った。

 「うん。甘いやつじゃないけど、甘くなるやつ」


 短い笑いは、すぐに真顔に戻る。

 「ユノ」

 シロウが名を呼び、真っ直ぐに見る。

 「選ぶのは君だ。俺たちは背中だ。推すことはできるが、押し込むことはしない。……どの道も、君のかたちを変える」

 ユノは頷いた。

 「変わるよ。変えるために、ここに来た」


 観測室へ戻ると、カナリアが一枚の古い写真を机に置いた。

 白黒に近い色調。

 若い魔法少女たちが笑っている。カナリアもいる。まだ“退役”の影はない。

 彼女は写真に視線を落としたまま、静かに言った。

 「九十五を見ても、笑えるように。百を見ないように。——それが、この場所の仕事だ」


 ユノは写真の中の笑顔を見た。

 誰もが“正面”を見ている。

 カメラという、今ここではない誰かの目。

 今、ユノが見るべき正面は、スクリーンの向こうでも、カメラの向こうでもない。内側と外側の両方だ。

 鍵が、掌で静かに答える。

 変換の回路は、恐怖を素材にしない。決意を素材にする。


 夕刻、地上の換気音が少し強くなった。

 誰かがパンを焼く香りがした。

 ユノは観測室を出て、短い通路の突き当たりで立ち止まる。

 壁のひび割れに指をかける。

 冷たい。

 ここは“家”ではない。けれど、帰れる場所だ。

 帰れる場所が一つでもあるなら、世界はまだ九十五のままだ。百ではない。


 カナリアが後ろから声をかける。

 「今夜から訓練を始める。奪うを減らす練習。清めるの予備動作。言葉を入れる余地があるかの実験」

 ユノは振り返り、頷く。

 「わかった。——根源は?」

 「海が黙ってる。地が唸ってる。空は笑ってる。どれも答えはくれない。……でも、声は拾える」

 カナリアは胸のホイッスルを指で弾き、音を鳴らさない。

 「鳴らさない音は、遠くまで届く」


 夜、観測室の灯りが落ち、サーバだけが低く唸る時間。

 ユノは、ひとりでスクリーンの前に立った。

 赤い海、黄色い大陸、鈍い橙の海。

 指先を伸ばしても、触れられない世界。

 ——触れられないから、触れる方法を作る。

 扉を壊すのではなく、鍵で回路を切り替える。

 蓋を重ねるのではなく、鍋から毒を抜く。


 背後で、足音。

 シロウが水を持ってきた。

 「眠れない?」

 「眠る。眠るけど、見る」

 「見るの、いいね」

 「見ないで選ぶのは、嘘だから」


 二人は、しばらく並んでスクリーンを見た。

 やがてユノは鍵を胸に当て、目を閉じる。

 左目の奥で、虹が灯る。

 恐怖はいる。だが、もう方向がある。

 根源を探す。融合を拒む。覚醒を備える。

 全部をやる。

 九十五を、九十に。八十に。五十に。百年前に。

 遠い。だが、遠いからこそ、折れない。


 ユノは目を開け、スクリーンに向かって小さく、しかしはっきりと言った。

 「見つける。間に合わせる。奪わないで、清める」

 言葉は、観測室の空気に沈み、どこかで機械の鼓動と重なった。

 鍵が、掌で答える。

 震えは小さい。だが、確かだ。


 世界は、九十五。

 原因は、まだ見つからない。

 百が来れば、すべては粒に還る。

 だから、今。

 根源を探し、融合を拒み、覚醒を備える。

 この三つの線を、ひとつの結び目にして、虹の層へ投げ込むために。

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