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職業:魔法少女  作者: ずんだずんだ
第五章 進むことも戻ることもできない
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第二部 灰の街を抜けて

 非常灯の緑が、廊下の床を細長く切り分けていた。

 スプリンクラー配管の影が天井を這い、薄いサイレンの脈が壁の奥で鼓動している。

 資料室を出ると同時に、シロウはユノの肩を軽く押した。


「右。今は職員導線じゃなく、保守点検の通路を使う」


 廊下の角には監視球が一つ。黒曜石のような眼がこちらを覗く。

 シロウは歩を止めず、手首の端末に指を滑らせた。画面の上に幾何学模様の鍵穴が浮かび、彼が無言で触れるたびに凹み、回転し、解ける。監視球の中で光点がひとつ瞬き、死んだ。


「三十秒。次は別の目が開く」


 ユノは頷くだけで、声を飲んだ。声は空気を重くする。今はそれが敵だった。

 靴底の音を殺し、角を二度曲がる。静まり返った夜の研究棟は、昼間と寸分違わぬ清潔さのまま、ただ生き物の気配が抜け落ちていた。


 非常口の先、階段室は冷える。下へ三階。扉の横に非常用のマグロック。

 シロウは腰を落として耳を扉に寄せ、向こう側の空気の流れを聴くように目を細める。

 ユノには音は聞こえない。ただ、彼の肩で呼吸が浅く長く伸びた。


「掃除ロボの定期巡回。音が薄い……通れる」


 鍵に携帯のコイルを押し当て、干渉させる。数秒の後、マグロックが微かにうなる。閉じ込められていた空気が扉の隙間から吐き出された。


 二人は、走らない速度で、しかし止まらない速度で移動した。

 曲がり角ごとにカメラの死角を綱渡りし、金属の階段を段差を踏まずに滑るように降りる。ユノの裸足は冷たい鉄に汗を残し、その汗が後ろ髪をつかむように粘りつく。


 踊り場の壁に、白い小箱。

 非常用の酸素マスクが並び、警告文が赤い線で縁取られている。

 ——大気質指数が規定値を超えた場合は——


「ここからが本番だ」

 シロウが囁き、ユノに薄いパーカーを渡す。フードを被せられ、顎下で留め具を閉じられたとき、ユノは自分が細い糸で世界に縫い止められる感覚を覚えた。


「いいか、外の空気は通常のフィルターで問題ない。問題は“目”だ」


 “目”。

 ユノは頷き、リリースコードを袖の中に隠す。

 銀の鍵は掌に冷たく、しかし心拍と同調するように、ごく微かに脈を打っていた。


 最後の通路。

 手押しの車輪が二つ置かれ、白いシートに覆われた物体がいくつか。清掃用具に偽装された荷台だ。

 シロウはそのうちのひとつのシートを小さくめくり、箱の蓋を開ける。中に、薄いグレーの耳栓、視野を狭くするための簡易バイザー、喉元に貼る微弱電流パッチ。


「バイザーで視野を限定、耳栓で環境音の情報量を減らす。パッチは心拍間隔をランダム化する。ヴェラの追跡アルゴリズムは“規則”に敏感だ。規則を曖昧にする」


「ヴェラ?」

 初めて聞く名に、ユノが囁きで返す。

 シロウの口角がわずかに引きつった。笑いの形ではなかった。


「IMIAの監視中枢AI。正確には、監視支援アルゴリズム群の集合知。俺が設計の一部に関わった」


 彼はわずかに視線を逸らし、次いでユノに視線を戻す。

 懺悔の色が、瞳の奥で瞬いて消えた。


「……だから、こちらには抜け道がある」


 最後の扉が開く。外気が流れ込む。

 夜明け前。

 都市の骨格は、薄灰色の膜に包まれていた。遠くの高架道路の灯りが、微生物の蛍光のように瞬く。空はまだ夜だが、その暗さは夜ではない。汚れたガラスを一枚挟んだような鈍い暗さ。

 雨は小降りになっていた。舗装の上に薄い水の膜が残り、風が押すたびに路面の蛍光が歪む。


「走らないで歩く。歩かないで止まらない」

 シロウが言い、先に路地へ出た。

 研究棟裏手の搬入口から、配送用の細い道路へ。周囲にはコンテナ、配送ドローンの充電ベイ、仮設の鉄柵。

 ユノの足音が、雨の音に溶ける。耳栓越しの世界は、音が薄い。自分の呼吸音だけが大きい。


 角を曲がる。

 暗がりに、三本脚の影が三つ、アスファルトにじっと座っていた。

 単眼の自律監視機械——通称「牽制灯」。

 丸い目玉の縁があかく光り、眼球がわずかに動く。ユノの体温を測り、呼吸の周期を測り、足音の周波数を測る。


「左見て、右見て、上は見ない」

 シロウが小さく告げた通りに、ユノは視線を流す。

 牽制灯の目が一斉にゆっくりと閉じた。

 ——目の前で、何かが眠る。


 ヴェラは、直接“人”を見ない。

 ヴェラは“規則”を見る。

 規則——足音のリズム、視線の動き、温度の帯の形。異常があれば近づき、異常でなければ遠ざかる。

 いま、ユノとシロウは異常ではない。少なくとも、この瞬間だけは。


 搬入口の防犯フェンスの脇、目立たない錆びた扉。

 シロウが斜めに押す。鍵は、押す方向で緩むように組まれている。


 中は、匂いのある闇だった。

 オイル。湿った段ボール。古い機械の熱が冷めた匂い。

 ユノの胸が、少しだけ楽になった。匂いがある場所には、人間の時間がある。IMIAの空間に欠けていたもの。


「ここから運河沿いに出る。都市外縁まで行ければ、灰翼が拾う」


「灰翼?」

 小声で訊くと、シロウの頬の筋肉がわずかに緩んだ。


「俺の、やっと呼べた“味方”だ」


 通路の先で、ドアが二つの影に分かれる。片方は地下へ、もう片方は外へ。

 シロウは地下を選ぶ。コンクリートの階段を降り、薄暗い地下搬送路に出る。

 壁の低い場所に埋め込まれたスリットから、冷たい風が一定の間隔で吹き出してくる。外気を引き込み、地下の空気をゆっくり循環させるための装置。


「この風のタイミングに合わせて歩く。匂いと音を隠す」


 タイミング。規則。

 ユノは風の周期を体に刻む。フードが微かに揺れ、頬に当たる空気の温度が変わる瞬間だけ、歩幅を伸ばす。

 彼女の中の何かが、「逃走」という行為の細部を吸収していく。歩幅の長さ、肩の振り角、踵をつく角度。

 すべてを、何もなかったかのように見せるために。


 搬送路の突き当たり、鉄扉が、他の扉よりも重い音で息を吐いた。

 油汚れが濃い。使用頻度が高い方の“裏口”。

 扉の向こう、しっとりした夜気と、川の匂い、藻の涼しさ。


 運河は静かだった。

 街灯が水面に縦の線をつくり、そこへ雨の円がいくつも重なっている。

 遠くの高架を、物流車両が低い唸りで通り過ぎた。音は濡れ、すぐに切れる。

 護岸の縁に腰の高さの鉄柵。柵の下は小さな遊歩道。

 シロウは柵を跨ぎ、遊歩道に降りた。


「ここからは走る。三分だけ」

「……うん」


 耳栓越しの世界が、足裏から震えはじめた。

 アスファルトの粒が、ゴム底を通して指の骨に触れる。

 呼吸が浅くなる。バイザーの縁が視界を切り落とし、世界が二割ほど減る。

 減った世界は、代わりに濃くなる。濃さに紛れる。


 背後で、羽音に似た低い音がした。

 ユノの首筋の汗が、そこだけ冷える。


「……来た」

 シロウが言うより前に、ユノは理解していた。

 夜気の中に紛れる、機械の匂い——乾いた金属粉と樹脂の軽い焦げ。

 護岸の上、黒いシルエットが等間隔に滑空してくる。

 円盤型の監視ドローン。直径四十センチほど。下側に赤外と魔力波を拾う複眼群。

 ——ヴェラの“目”が、ひとつの方向に集まる。


「下を向いて。走るテンポ、変えない」

 シロウが横でペースを刻む。一定の呼吸、一定の歩幅、一定の腕振り。

 ユノは、心臓が反射的に速まるのを、喉元のパッチの微弱電流で曖昧にされた鼓動で意識の端へ追いやる。


 ドローンが通り過ぎる。

 ユノの頭のすぐ上で、羽虫の群れが押し潰されるように空気が曲がる。

 複眼の一つが、一瞬だけ緑から黄へ変わり、また緑へ戻った。

 ——見逃した。いや、見なかったのだ。今は。


 護岸の終点。階段。地上。

 背丈ほどの雑草が、フェンスの切れ目から顔を出す。

 都市の端の匂い——アスファルトではなく、湿った土と錆びた鉄と、遠くの油。

 ユノの心は、その匂いに少しだけ救われた。世界にまだ土の匂いがある。


「ここからは旧市街の縁。建て替えの決まった区画で、人の目は薄い。だがヴェラは濃い」

 シロウはポケットから小さな端末を取り出し、画面をユノに傾ける。

 格子状の地図が表示され、赤い点がネットワークの収束域を示す。

 いくつもの赤が、蜘蛛の巣の中心へ吸い寄せられている。

 「中央に向かうな。外へ向かうほど、目が粗い」


 二人は、朽ちた倉庫街へ紛れ込む。

 壁の塗装は剥げ、グラフィティが風にさらされている。

 窓が板で塞がれ、鉄扉は錆で褐色に変わっていた。

 見捨てられた時間は、しかしどこか安心する。

 ——誰かの目が手入れをしない場所には、目そのものが少ない。


 雨は完全に上がった。

 屋根の水滴が時折落ち、鉄板を叩く乾いた音が遠い。

 「あと十五分。そこから地上ではなく、下へ入る」


「下?」


「水路と電力トンネルが交差するメンテナンス空間。灰翼の引き込み線だ」


 引き込み。

 この逃走劇には、彼らの意思の線が通っている。

 ユノは、その線に指をかけるだけでいい。引かれているのではなく、自分で掴んでいるという実感を、細いところから少しずつ取り戻す。


 倉庫の裏手、グレーチングのはまった細い溝。

 シロウは工具も出さず、スリットに手を差し込んで、水と鉄の隙間をつまむ。

 歯車が、内部でかすかに噛み合う音。

 蓋が人差し指一本分だけ浮き、そこに引っかけた針金が、猫の尾のようにしなって蓋を持ち上げる。


「この仕込みに、二年かかった」

 息を殺した笑い。

 ユノは目だけでシロウを見た。

 その横顔から、どこか痛みが剥がれ落ちている。準備してきた者の顔。間に合ってほしいと願い続けた者の、わずかな救済の顔。


 穴の中は狭く、湿っていた。

 梯子を降り、コンクリートの壁に手を触れる。水の薄い膜が掌に広がる。

 狭い歩廊を進むと、視界がふっと開けた。

 ——地下の部屋。

 背丈より少し高い天井。四角い空間を、太い配管が幾つも斜めに横切っている。

 配管の下に、折り畳みの机。オイル染みのついた布。ポータブルのランタン。

 そして、ひとりの女。


 短く切った黒髪、灰色のパーカー、首元に古いホイッスル。

 彼女はユノとシロウを見ると、ランタンの明かりを少しだけ絞った。

 光が柔らかくなり、顔の影が人間に戻る。


「——おかえり、シロウ」

 低く、よく通る声だった。

 年齢が読めない。若くも老いてもいない。

 「カナリア」と、彼女は自分を名乗った。

 灰翼のリーダー。退役魔法少女。


 カナリアはユノをじっと見て、ほんのわずかに笑った。

 「初めまして、ユノ・アマツキ」

 呼び捨てでも敬称でもない、奇妙な距離の呼び方だった。

 「あなたが来る前から、この“部屋”はあなたのために用意されていた。数年前から、ずっと」


「私の、ため?」

 ユノの声は自分のものではないように小さかった。

 カナリアは頷く。

 首のホイッスルが、きらりと音もなく光った。


「世界は、あなたを“装置”にするための部屋を用意する。

 なら、私たちは“人間”を迎えるための部屋を用意する」


 簡易椅子が差し出される。

 座ると、体重が地面に帰っていくのが分かった。

 呼吸が深くなる。

 バイザーを外し、耳栓も外す。

 世界の音が戻ってくる。遠くの水音、配管の内側を流れる空気の擦過音、ランタンの発電素子の唸り。

 音には、それぞれの時間がある。人の時間と、機械の時間と、地下の時間。


「間に合ったわね」

 カナリアはそう言い、片眉を上げた。

 「ヴェラの足は速い。あなたたちは、その一歩の隙間で滑り込んだ」


「ヴェラは、君をどう見てる?」

 シロウの問いに、カナリアは肩をすくめて笑った。

 「退役済みの“灰”。興味を持たない対象よ。役目を終えた薪は、監視のコストをかけるほどのものじゃない」


 その「灰」という言葉を、ユノは胸の内側で何度も反芻した。

 灰——燃え尽きたもの。

 世界の装置は、燃やすために名前を綺麗にする。英雄、継承、引退、灰。

 どれも美しい言葉で、どれも人間を減らすための言葉。


「ここからどうする?」とシロウ。

 カナリアは机の上に古い紙の地図を広げた。市街地の下水道・電力・通信の配線図。手書きの書き込みがびっしり埋め尽くしている。

 「外縁の廃工場帯を抜けて、南東の丘陵へ。私たちの本拠はそこで“折り重なって”る。空にも地上にも地下にも、一度に見えない」


「折り重なってる?」


「見えるものを、全部嘘にするコツよ」

 カナリアは肩を竦める。

 「——その前に、あなたに見せたいものがある」


 机の端の小型プロジェクタが点く。

 壁に映し出されたのは、地球の雲の流れではなかった。

 繊毛のようなものがうごめく、淡い靄の地図。

 魔素分布ヒートマップ。

 赤い海。黄色い大陸。青いはずの海が、鈍い橙に染まっている部分が広がる。


「世界は、もうこうよ」

 カナリアは静かに言った。

 「オーロラリアクターは、魔素の“沸騰”を止める蓋に過ぎない。止まっているように見せているだけ。沸点は上がり続け、蓋は薄くなっている。……間に合ってないの」


 ユノの口の中が乾いた。

 喉の奥で、言葉が砂になる。

 知っていた気がした。戦場の霧は濃くなっていた。小さな任務が増え、大規模討伐の密度が上がっていた。

 だが、マップの赤は、その予感の何倍も重かった。


「これが、今の“世界の呼吸”。あなたは感じていたでしょう?」

 カナリアの問いに、ユノは頷いた。

 感じていた。

 戦場の端に立つだけで、空気がざわざわと寄ってくる感覚。

 そのざわめきは、祈りに似ていて、呪いに似ていた。


「オーロラリアクターは、あと数年で臨界に達する。その前に“より効率のいい蓋”が必要。IMIAの出した結論は明瞭よ。——ユノ・アマツキ」


 名を呼ばれて、ユノはまぶたを閉じた。

 瞼の裏にセリアの微笑が浮かぶ。

 “終わらせない”という言葉の、柔らかな輪郭。


「私は、蓋にはならない」

 声に骨が通る。

 カナリアの目が、ほんのわずか細められ、肯定の影を孕んだ。

 「なら、別の選択がいる」


 そのときだった。

 ユノの手の中で、リリースコードが微かに震えた。

 銀の鍵が、金属ではない音を鳴らす。

 光ではなく、声でもなく、しかし確かに響きとして存在する震動。

 ユノはそれを手のひらに乗せ、耳を澄ませる。

 ——聞こえる。

 言葉ではなく、構造。

 形のない提案が、鍵の歯の間から流れ出てくる。


『わたしには、別の道が提示できます』


 声が、うまく口の形に合わない。なのに意味は、脳の内側の静かな湖に落ちて、波紋を広げる。

 シロウとカナリアが、同時に視線をユノの掌に落とした。


「鍵が、喋るの?」

 カナリアの口元に、わずかな驚きと懐かしさが混ざる。

 「リリースコードは、ただの媒介じゃない。選択の器官よ。——聞かせて」


 ユノは目を伏せ、鍵の震えに身を委ねる。

 波紋は、幾つもの図になっていく。

 巨大な円——オーロラリアクター。

 その中心に伸びる細い管——魂の流路。

 そして、その管を切り替える仕組み——リリース。


『リアクターを破壊し、内部エネルギーを解放し、ユノに注入します』

『ユノの“奪う”特性は、飽和点で相転移します』

『相転移の先は、“奪う”ではなく、“清める”に変換可能です』


「……変換?」

 シロウが低く呟く。

 鍵の震えが、わずかに強くなる。

 ユノの左目の奥に、薄い虹が灯った。微かな痛み。だが、その痛みは拒絶ではない。

 身体のどこか忘れていた器官が、ゆっくりと目を開けるような、そんな痛み。


『ユノは“エンテレケイア”になり得ます』

『世界の魔素を、総体として浄化する存在』

『リアクターの蓋を厚くするのではなく、鍋の中身を薄めるのでもなく——鍋そのものから毒を抜く行為です』


 カナリアの喉が上下した。

 「……それは、本当に可能?」

 彼女の声には希望と恐怖が混ざっていた。

 鍵は震えで応える。

 その震えは、確信の形をしていない。可能世界の地図だけを差し出している。


『未知数が多い。ユノの肉体は保たない可能性が高い』

『魂の形も、現在の定義では保存が困難』

『ただし、浄化が成功すれば、魔素濃度は“百年前の平衡点”まで後退する』

『魔法少女は、生きて引退できる世界に戻せる』


 静寂が落ちた。

 ユノは、自分の鼓動の音が耳の奥で膨らむのを聞いた。

 ——ユノの生が、前提から外れる。

 ——代わりに、世界が生き直す。


「エンテレケイア」

 シロウがその語を繰り返した。

 「完成へ向かう“内的目的”……哲学の教科書にあった単語だな」

 カナリアが苦笑する。

 「皮肉ね。人を装置にする連中が、今度は“完成”を人に押し付ける」


 ユノは、鍵を握りしめた。

 手の中の冷たさが、逆に体温を上げる。

 思い出す。

 レナの手の温度。ミナトの息の荒さ。戦場の風の匂い。

 彼女たちの笑い声。薔薇色のグミを分け合う小さな休憩。

 そして、ベッドの上で眠っていた九歳の自分に触れた、セリアの掌の温もり。


 ——終わらせない。

 その言葉は、犠牲の連鎖を終わらせない、という意味だった。

 世界の延命を、終わらせる。

 人間の命を、数値の欄外へ追いやる制度を、終わらせる。


「……怖いです」

 ユノは正直に言った。

 声は震えていたが、隠さなかった。

 「私が消えるのが怖い。痛いのも、怖い。

  でも、あの子たちが、また火にくべられるのは、もっと怖い」


 シロウが息を吸った。

 その瞬間だけ、彼の瞳は少年のように脆かった。

 彼は言葉を探し、それが見つからないまま、ただ頷いた。

 カナリアは手の甲で、目尻をわずかに押さえ、すぐにいつもの揶揄の笑みに戻した。


「選ぶのは、あなた。……でも、選ぶだけが人間の仕事じゃない。選んだ後に、背中を押すのが、仲間の仕事」


 灰翼のメンバーが、地下の別室から数人現れた。

 老いた技師、片脚に義肢をつけた支援兵、まだ十代に見える看護師。

 彼らはユノを見て、驚きではなく、挨拶の頷きをした。

 ——待っていた、という顔だった。


「ヴェラの追跡が近づいてる」

 義肢の男が言った。耳の補聴器に手を当てている。

 「市街地のカメラ、四割がこっちに振られた。地上を動くな。ここはあと二十分」


「じゃあ、すぐに移動を」

 カナリアが手を叩いた。

 「二班——搬送準備。三班——擬装。四班——攪乱。シロウ、ユノは私と。鍵は……」

 カナリアはユノの手の中の銀色を、目で問うた。

 ユノは頷き、鍵をしっかり握り込む。

 「——私が持ちます」


 地下空間に人の動きが生まれ、空気の温度が一瞬上がった。

 折り畳み机が畳まれ、布が巻かれ、配管の陰に隠される。

 ポータブルのランタンは消され、代わりに暗視モードが配られた。

 ユノのバイザーが暗くなり、緑黒の世界に切り替わる。

 人の輪郭が黒の中の黒で浮かぶ。

 静かな興奮と、恐怖と、決意の匂い。

 その全部が、ユノの喉の奥で熱になった。


 移動ルートは、さらに深く。

 コンクリートの壁が湿り、冷たい。

 足元のグレーチングの下を、細い水が一定のリズムで走る。

 音は低く、長い。心臓に似た音。

 ——世界の裏側にも、鼓動がある。


 曲がり角の先で、空気が変わった。

 重い。

 湿り気ではない。情報の密度が重いのだ。

 ユノは立ち止まりそうになった。

 カナリアが振り返り、指先で前へ促す。

 「大丈夫。ここは“通るだけ”」


 扉がある。

 小さな鋼鉄の扉。

 その表面には、塗りつぶされたロゴの痕跡。

 IMIAの旧式分室の標章。

 ——過去。

 扉の向こうに、使われなくなった旧観測室。

 カナリアが端末を翳し、鍵が静かに泣いた。


 室内は、時間が止まっていた。

 古いモニター、紙のファイル、ホワイトボードに書かれた数式。

 埃っぽい。しかし、埃をそのままにしてさえ、ここは生きている。

 カナリアは迷いなくボードの裏を押した。

 板がわずかに沈み、壁の一部が押し戸のように少しだけ開いた。

 中は狭い。人ひとりが横を向いて通れるほどの隙間。

 「ここが、灰翼の引き込み線のひとつ。ヴェラの地図には載らない」


 ユノが通るとき、壁の冷たさが肩の骨に直接触れた。

 身体の輪郭が、世界に擦れて輪郭を確かめ直される。

 ——私は、まだある。

 透明になってしまいそうな恐怖が、その摩擦でわずかに薄まる。


 狭い通路を抜けると、空気が広がった。

 地下空洞。

 コンクリートで固められた円筒の空間。

 壁を這うように螺旋の足場。

 その中央に、光のない井戸。

 深い。見えないほどに。

 風が、下から上へ、ゆっくりと昇ってくる。

 何かの“吐息”のような、低い長い息。


「旧式の地熱排気孔。今は封鎖されたはずの管だが、完全には止まっていない。……つまり、まだ誰かがここを“呼吸”に使ってる」

 カナリアの声が、壁で柔らかく反響する。

 「降りるよ。安全帯は——シロウ」


 シロウはもう、ロープとカラビナを用意していた。

 ユノに安全帯を装着し、金具を確認し、軽く引く。

 「滑るな。手を一度に離すな。怖くても、足に重心を置け」

 その言葉は、訓練ではなく、生活の知恵のように平らだった。

 ユノは頷く。

 手袋の布が縄の繊維を掴み、粗さの中に規則を見つける。


 降下。

 足場の鉄が、湿り気を帯びて滑りやすい。

 靴底で踏むと、鉄が小さく鳴り、音はすぐ下に吸い込まれていく。

 暗視の緑の中、下から上がる風が、汗を冷やす。

 深い場所の匂い。地球そのものの匂い。

 ——ここにも、生き物の時間はある。


 五分、十分、時間の感覚がずれる。

 やがて底が見えた。

 水ではなかった。

 巨大なコンクリートの空洞の底に、別の通路が口を開けている。

 そこには灯りがあった。

 黄色い、柔らかな灯り。

 人の手が置いた灯り。


 着地。

 足の裏に、確かな固さ。

 カナリアが先に進み、古い扉を叩く。

 内側から合図の音。

 扉が開き、暖かい空気が、顔に触れた。

 パンの香り。スープの匂い。

 ユノは思わず、泣きそうになった。

 ——生きている匂い。


 そこは、小さな共同生活の場だった。

 長机、鍋、マグカップ、毛布の山。

 壁に地図、子どもの落書き、草花の押し葉。

 灰翼の“アジト”。

 だが、“アジト”という言葉が似合わない。

 ここは、避難所であり、巣であり、家だった。


「おかえり」

 フードを被った女性が、ユノにマグカップを差し出す。

 中には温かいミントティー。

 ユノは両手で受け取り、鼻先で湯気を吸い込んだ。

 ミントの清涼が、肺の奥に落ちて、胸の緊張のひだを一枚ずつほどく。

 涙は出なかった。

 体が先にそれを飲んだ。


 シロウの肩から、ようやく力が抜けたのが分かった。

 彼は壁に背を預け、深く息を吐いた。

 ユノは、その横顔を見た。

 この人は、今日までこの瞬間のために、何度息を止めてきたのだろう。

 何度、バレないように震えてきたのだろう。

 想像が、喉の奥で温度になる。


「ここが、灰翼の“郊外アジト”。本拠は、もっと“折り重なってる”。ここはその手前」

 カナリアが微笑み、肩のホイッスルを、癖のように指先で転がす。

 「ヴェラは、まだあなたの位置を“確率”でしか掴めてない。二時間後には濃度が上がる。——だから、今のうちに核心を」


 核心。

 ユノは頷き、マグを置く。

 リリースコードを掌に置き直す。

 鍵は、もう震えてはいない。

 だが、触れているだけで、脈のように微細なリズムを返す。

 聞こえない音楽。

 それは、ユノの心拍と、世界のどこかで鳴っている巨大な機械の鼓動の間に、静かに挟まっていた。


「リリースコードは、提案をくれた」

 ユノは二人に向き直る。

 「オーロラリアクターを破壊して、内部のエネルギーを私に流し込み、私を覚醒させる。そうすれば、私は“エンテレケイア”になれるかもしれない。世界全体を浄化できる存在に」


 空気が揺れた。

 スープの火の上で揺れる湯気のように。

 部屋の空気が、一度だけ膨張して、また静まる。


「代償は?」カナリア。

「——私の肉体は、おそらく保たない。魂の形も、現在の定義では保存が難しい。……鍵は、そう言ってる」


 沈黙。

 誰かの持つスプーンが、カップに触れて小さく鳴った。

 シロウは拳を握ったまま、何も言わなかった。

 言葉はある。だが、それを簡単に口に乗せれば、軽くなる。

 軽くなった言葉は、重い現実を傷つける。

 彼は、それを知っている表情をしていた。


「私は、怖い」

 ユノは繰り返した。

 「でも——選びたい。自分で。

  誰かが“良い世界”と呼んだ世界のためではなく、私が“生きたい世界”のために」


 そのとき、遠く、地上の方角で鈍い低音が響いた。

 地下の壁が、わずかに震える。

 ヴェラの“足音”。

 灰翼の何人かが、顔を見合わせ、端末に手を伸ばした。


「来るわ」

 カナリアが短く言い、全体に目線で指示を飛ばす。

 「攪乱を増やす。偽装の熱源を三倍に。換気を逆流。——ユノ、シロウ、こちら」


 薄暗い通路のさらに奥へ。

 金属のドア。

 開くと、そこは配電盤と古いサーバが並ぶ細長い室だった。

 ファンの唸り。赤と緑の小さなLEDが規則的に点滅している。

 カナリアは端末を繋ぎ、手早く文字を流す。

 「世界の“延命装置”の全図を、あなたに見せる。オーロラリアクターの位置、護衛、回廊、バイパス、フェイルセーフ。——やれるかどうかじゃない。やるために、どれだけ嘘を剥がすか」


 画面に、複雑な配線図が層になって現れる。

 国境の線はない。

 世界は、装置の線で結ばれている。

 ユノは、その線の密度に目眩を覚えた。

 ——こんなにも多くの“筋”で、世界は延命されている。

 一本切っても、他が代わりに流す。

 全部を止めるには、“中心”を撃ち抜くしかない。


「中心は?」

 ユノが問うと、カナリアは躊躇なく一点を指差した。

 「東京——中央管理棟のさらに下。**“虹の層”**と呼ばれる多重防御帯の中心に、オーロラリアクターのコアがある」


「虹の層」

 ユノの左目が、淡く疼いた。

 虹——オーロラ。

 空にかかる光は、美しいという言葉で飾られてきた。

 だが、それが“層”として、世界を覆っていると想像した瞬間、ユノの背筋に冷たいものが走った。

 ——美しいは、いつも罠だ。


「やるなら、早いほうがいい。向こうも“融合”の準備を進めている」

 シロウが唇を結び、言葉を絞る。

 カナリアは頷き、地図を閉じた。

 「準備に二日。移動に一日。実行は三日後の夜明け。虹の層の輝度が落ちる“隙間”が、その時間帯にわずかに生まれる」


「三日……」

 短い。

 だが、長い。

 死ぬと決めるには短すぎ、悩むには長すぎる。

 ユノはリリースコードを握り、胸に当てた。

 鼓動と鍵の冷たさが交差する場所。

 そこに、自分の“真ん中”がある。


「……私は、やる」

 言葉が、部屋の空気の密度を変えた。

 シロウが目を閉じ、息を吐く。

 カナリアが、ただ一度頷く。

 誰も拍手しない。

 この部屋では、決意は祝われない。

 決意は、ただ実行されるだけだ。


「三日の間に、あなたの体を“持たせる”術を探る。吸収特性の再配線、相転移時の補助、魂の“縫い止め”の仮説。私は医学じゃない。だが、私たちは諦める術を持たない」

 カナリアの目が、少年のようにいたずらっぽく光った。

 「諦めるのはいつでもできる。諦めないのは今しかできない」


 その瞬間、天井の配線が震え、蛍光灯がひとつ弾けた。

 ヴェラの“手”が、ここまで伸びてきている。

 灰翼の誰かが短く罵り、別の誰かが笑いで返した。

 ——人間の時間が、ここにはある。


 ユノは深く、ゆっくり息を吸った。

 空気は湿っていて、温かい。

 ミントの残り香が、喉の奥で微かに残っている。

 彼女は、目を閉じた。

 セリアの手の温度を思い出す。

 レナとミナトの笑い声を思い出す。

 シロウの歩幅を思い出す。

 カナリアのホイッスルの、鳴らない音を思い出す。


 ——私は、まだ終わらせない。

 鍵が、掌の中で静かに答えた。

 言葉ではなく、震えで。

 その震えは、もう恐怖ではなかった。

 鼓動だった。

 彼女自身の、そしてこの場所にいる人たちの。

 さらに遠くの、眠っている人たちの。

 世界の端で灯っている、消えかけの火の鼓動。


 外のどこかで、朝が始まりかけている。

 地上の雲がわずかに薄くなり、虹の層が、ほんのひとすじだけ褪せる。

 まだ誰も気づかない程度の、わずかな変化。

 けれど、その隙間は確かにある。

 そこへ向けて、細い針を通すために、三日の準備が始まった。


 ユノは目を開け、シロウとカナリアを見た。

 ふたりが頷いた。

 それで十分だった。

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