第1部:招集~出撃前夜
雨の音が窓を叩いていた。
IMIA養成施設の敷地には、季節外れの冷たい風が流れ込み、灰色の空を背景に、整然と並ぶ訓練塔の影が淡く滲んでいた。
ユノ・アマツキは、廊下の突き当たりにある掲示板の前で立ち尽くしていた。
そこには新しい任務通達が貼られていた。
【第三区・旧工業地区 魔素異常濃度調査・収束】――新人Cランク班派遣。
文字を追った瞬間、自分の名前がそこにあった。
“ユノ・アマツキ 所属:Cランク第二班”
小さく息をのむ。
半年間の訓練。毎日の模擬戦、無数のシミュレーション、そして終わりなき制御テスト。
ようやくこの瞬間が来たのだ。
指先が少し震えた。
喜びなのか、恐れなのか、自分でも区別がつかない。
「やったね、ユノ!」
背後から声がした。振り向くと、リオ・フェリスが駆け寄ってきた。
彼女はユノの同期で、誰よりも明るく、誰よりも負けず嫌いな少女だった。
「ついに現場デビューだよ! ほら見て、私たち同じ班だって!」
「……ほんとだ」
リオは目を輝かせ、拳を突き上げる。
「これでようやく“本物の魔法少女”って感じだね!」
ユノは微笑んだ。
その言葉を聞いて、心の奥がわずかにざわめく。
“本物の魔法少女”――それは、ずっと夢見た響きのはずなのに、どこか遠くのもののように感じられた。
リオはそのまま廊下の向こうへ駆け出しながら、振り返って言った。
「ねぇ、今日の夜、出撃前のパーティーやるんだって! 絶対行こうね!」
「うん……行くよ」
ユノは小さく答え、貼り出された任務票をもう一度見つめた。
“第三区・旧工業地区”。
訓練中に何度も名前を聞いた地域。
かつて金属産業の中心だった場所は、いまでは魔素の濃度が高すぎて、人が住むことすらできなくなっている。
そこに“異常値”が発生した。
通常より濃い魔素が観測され、その収束のために新人班が派遣される。
――それは、彼女の初任務だった。
夜。
寮の食堂は珍しく賑やかだった。
テーブルの上には簡素な食事と、訓練教官からの小さな祝福メッセージ。
「初任務組へ ――世界は君たちに期待している」
それだけの言葉が、何よりも重かった。
ユノはスプーンを手にしながら、周りの笑い声をぼんやりと聞いていた。
リオは隣で明るく喋り続けている。
「ねぇユノ、明日どんな敵が出ると思う? “犬型”かな? “霧型”? それとも、例の“ヒト型”?」
「……たぶん、霧型じゃないかな。異常濃度なら」
「うわ、あれ苦手なんだよね……。輪郭がはっきりしなくて、どこ攻撃してるかわかんないもん」
「大丈夫。私が後ろから援護する」
「頼りにしてる!」
リオは笑って、フォークを突き立てるように掲げた。
その笑顔を見て、ユノは少しだけ緊張がほぐれた。
けれど、同時に胸の奥にわずかな痛みが走る。
――あんなに明るく笑える自分でいられるだろうか。
明日、自分が何を見て、何を壊すのかもわからないのに。
食堂を出ると、廊下は静まり返っていた。
雨がまだ降り続いている。
天井の蛍光灯が淡く反射し、床に伸びる光の線が揺れている。
ユノは自室に戻り、制服のジャケットを脱いで椅子に掛けた。
机の上には一つの小箱。
白い金属でできた、無機質なケース。
それを開けると、中には銀色の“鍵”が収まっている。
リリースコード。
彼女に与えられたアークウェポン。
その金属の質感は冷たいのに、触れると微かな脈動が伝わる。
それは心臓の鼓動よりも遅く、けれど確かに生きているように思えた。
訓練中、彼女はその共鳴音を何度も聞いた。
静かな夜になるほど、その音は深く、耳の奥に届く。
“カチリ……カチリ……”
まるで鍵が、見えない扉の前で開く瞬間を待っているようだった。
ベッドに腰掛けたユノは、窓の外を見上げた。
夜空は厚い雲に覆われ、街の灯りが滲んでいる。
遠くでサイレンの音。
どこかでまた、魔素濃度の急上昇が起きたのだろう。
この世界では、誰もが“日常の終わり”を予感して生きている。
だからこそ、魔法少女という職業が崇拝される。
それは単なる英雄ではなく、“終末の延命装置”としての希望。
ユノはまだ知らなかった。
その希望が、どれほど残酷な仕組みの上に築かれているのかを。
翌朝。
集合時間は午前七時。
IMIA本部の出撃ゲート前には、四人の新人が整列していた。
ユノ、リオ、エトナ、クロウ。
皆、同じ養成機関出身の同期だ。
「第一班、確認完了。各自、武器の共鳴チェックを」
部隊長の女性が短く告げる。
その声には一切の感情がない。
訓練中は穏やかだったが、今はまるで別人のようだ。
彼女の背中に浮かぶ黒い紋章が、光を吸い込むように鈍く輝いていた。
ユノはリリースコードを握りしめた。
“カチリ”――また、あの音。
体の内側に小さな震えが走る。
周囲の魔素濃度を感知しているのだと説明は受けている。
だが、その反応があまりにも人間的すぎた。
輸送車の扉が開き、四人が乗り込む。
エンジン音が低く唸り、地面の振動が座席を通して伝わる。
リオが笑いながら、ユノの肩を軽く叩いた。
「行こう、ユノ。私たちの“最初の戦場”へ!」
ユノは小さく頷き、窓の外を見た。
空はまだ曇り、霧雨がガラスを流れている。
街の端を過ぎると、景色が徐々に荒廃していく。
錆びた鉄骨、崩れかけた工場、封鎖線の向こうに広がる灰色の大地。
それはまるで、世界が少しずつ朽ちていく過程のようだった。
その時、ユノの掌の中で――リリースコードが脈打った。
金属が“呼吸”する。
まるでこれから訪れる惨劇を、先に知っているかのように。




