第二部 灰の嵐
四分は、まだ来なかった。
時間は砂に似ている。握りしめるほどこぼれる量が増え、指の隙間で現実の重さだけが濃くなる。
〈中央、持続展開。側面、第二列を前へ〉
命令は濁り気味に届く。通信回線に灰が詰まるみたいだ、と誰かが言った。たぶん冗談だ。けれど笑う余裕は誰にもなかった。
ユノ・アマツキは光の骨をさらに増やした。骨と骨の間に薄膜を渡し、衝撃の逃げ道を増やす。硬さと柔らかさの比率を微調整しながら、仲間たちの背中に“もう一本の背骨”を差し込んでいく。
その最中、災厄の形がゆっくりと屈んだ。胸郭の中心に、海溝のような皺が縦に走る。杭群が地面を食み、黒い根を増やした。
「基底、増殖……」「吸い上げ量、上がってる!」
「都市そのものが“灯油”みたいに扱われてるってこと?」
「比喩にしては悪趣味だな」「現実が悪趣味なんだよ!」
言葉が言葉で殴り合うより早く、現象が進む。
災厄の“顔”にある穴がひとつ、ぎゅっと細くなり、そこから圧縮された霧の弾丸が放たれた。見えない弾丸は風景を押しのける形で通過し、二列目の一人の胸を穿つはずだった——が、その直前でユノの骨が軋んだ。
骨は砕けず、膜が裂け、代わりにユノの肺が小さく咳き込む。肺の内側がざらりと削れ、薬液の匂いが逆流した。
(取れた。……まだ張れる。)
「セーフ!」「救護、ここまで引ける?」
ユノは骨の担架で少女を後方へ滑らせた。担架の揺れを限りなく“揺れない”に近づける。振動は痛みであり、痛みは魔力の漏れ口になるからだ。
〈左側面、杭群の三本破砕。災厄、重心移動〉
少し傾いた。たったそれだけで、都市は波を打つ。瓦礫の波止場に、灰の波が寄せ返す。
災厄の足場が揺らいだ瞬間、前衛の槍術式が“刺さる”手応えを返した。表層がわずかに剥げ、中層の赤い線が露出する。
「刺さった! いま——」
「待って、見て!」
赤の線が一瞬で黒に馴染む。傷は“学習”によって封じられる。
(攻撃は記憶される。——なら、常に違う角度で、違う深さで。)
ユノは骨組みを複雑化した。直線だった梁を曲げ、円弧を重ね、無数の“逃し”を作る。
正解はない。正解の代わりに、“いまここで死なせないための構造”だけを足し続ける。
リズムは、音楽ではなく、工事だった。
災厄の腕が二度、三度と風景を撫でる。そのたびに数名がふっ、と消える。消える瞬間、彼女たちの輪郭は“水で描いた絵”のように滲んだ。
戻ってくる気配はない。
ユノは喉の奥で短く叫び、骨の網をより密にする。密にすれば視界が狭くなる。狭くなれば攻撃線が見えない。見えないから、誰かが死ぬ。
(密にしすぎない。けれど薄くもしない。中庸は戦場では嘘だ。——なら、状況ごとに中庸を作る。)
〈後方補助部隊、接近。到着まで一分四十〉
長い。
その一分四十のあいだに、災厄は背中から“音”を出した。骨が軋む音でも、筋肉が擦れる音でもない。標準化できない、名称のない音。
空気が波紋の皿になり、皿の中央から皿の縁へ向かって“圧”が伝う。
「来るぞ!」
「反転防御!」
ユノは骨をひっくり返した。内側と外側を逆転させ、波の頂点で受けず、斜面で滑らせる。
人間の背骨もそうやって衝撃を逃す——と、昔読んだ解剖学の頁が一瞬よぎる。
圧が去る。代わりに灰の雪が濃くなった。
灰は重い。薄い粉に見えるが、ひとかけらのなかに壊れた人生が詰まっているからだ。
耳の中がざらつき、フィルターの縁が痛む。
(まだ——)
突如、空が開いた。
補助部隊の光輪が上空に咲き、数十の救護術式が地上へ降り注ぐ。医療魔法の緑が瞬き、倒れた者たちの呼吸が戻る。
「繋ぐよ!」
「担架優先!」「右、空けて!」
隊列に秩序が戻りかけた、ほんの刹那。
災厄の胸の皺が深くなった。
裂ける。
黒い胸郭が縦に開き、闇の奥に、最初から存在しなかったはずの“空洞”が露出する。
空洞は底なしだ。見れば見るほど見えてこない。視線が吸い込まれ、体温が下がる。
「目を合わせるな!」
誰かが叫ぶ。
遅い。
空洞から無音の風が流れ出た。
風は風であることをやめ、意味を奪う。
ユノの骨組みから“強度”の数値が剥がれた。計算できない。計測できない。“感じろ”しか残らない。
リリースコードが小さく震えた。
——ユノ。
「まだ、やる。できる」
——わかってる。わかってるけど、数字は嘘をつかない。
「数字だけが真実でもない」
——あなたはときどき、人間の言葉を使って、世界を騙す。好きだよ、そういうところ。
ユノは骨を捨てた。
捨てた分、別の形を拾った。
手のひらから“肋骨”を生やし、空洞の風に向けて“音”を置く。
音は触れられない。触れられないから、空洞はどう扱えばいいか分からない。
肋骨の間を通る風が、ほんの少しだけ躊躇した——ように見えた。
(通った。微差でも、通るなら続ける。)
〈中央、よく持ちこたえた。側面、杭群に集中!〉
杭が一本、また一本と折れる。地面の“内圧”が上がり、災厄の足元に細かな皺が走る。
ユノは骨の代わりに“継ぎ目”を配り、継ぎ目の代わりに“やわらかさ”を渡す。
戦う、というより、縫う。
世界の裂け目を、針と糸で縫い合わせる仕事。
痛みを残す縫合を避け、瘢痕が最小になるように、針目の幅を変える。
時間は進む。
補助部隊が効いて、前線の死は減った。減ったが、負傷は増えた。
体力と魔力の境界が曖昧になる頃合い。誰もが指先を震わせ、膝で均衡を取る。
〈全体魔力残、四割〉
〈搬送区画、許容量超過。後方へ振り分け開始〉
〈災厄の再生速度、上昇傾向〉
(上がる……?)
ユノは眉を寄せる。
攻撃が激しくなるほど、あいつは“元気になる”。
学習と吸収。
(吸ってる。私たちの光を、少しずつ。なら、どうやって——)
地面の下が、ぼこり、と沈んだ。
杭群とは別に、もっと深いところで“飲み込むための器官”が開いたのだろう。
後列の数名が足場を失い、膝まで沈む。
ユノは咄嗟に彼女たちの腰に“浮力”を上書きし、泥のようになった舗道から引き剥がした。
浮いた身体を別の子の腕が受ける。受けた子の肩にユノの“強度”が宿る。
連鎖。
連鎖は希望だ。希望の反対語は絶望ではない。断絶だ。
(断たせない。まだ、続ける。)
〈中央——〉
司令の声が途切れ、ノイズに変わった。
災厄の“顔”の穴が、こちらの周波数を盗み、上書きしてくる。
通信が黒い笑い声になりかけたところで、後方のジャミングが遮断した。
「通信、回復!」「司令、お願いします!」
〈中央、よく聞け。ここからは消耗戦になる。——中央だけで持つな〉
——中央だけで持つな。
その言葉が、ユノの背骨のざわめきを少しだけ静めた。
「三列目、入れ替わる!」
「前、下がって!」「いや、私まだ——」「いいから下がれ!」
下がることは敗北ではない。
下がらないことは美徳ではない。
戦場の正義は、今日、ここを“生き残って戻る”ことだ。
災厄の胸の空洞に、ふっと違う色が混じった。
灰と黒のあいだに、薄い青。
——空だ。
空が覗いている。
空は向こう側だ。こちらではない。
(まずい。ここから“向こう”へ繋げる気だ。)
向こう側と繋がれば、吸い込みは“量”の問題ではなくなる。構造の問題になる。橋が架かる。橋は片側からも渡れる。
「切る!」
ユノは骨の刀を作り、空洞とこちらを結びかけた見えない糸を叩き切ろうとした。
刀は通らない。糸は“見えているように見える”だけだ。
(触れないものを切るには、触れない刃が要る。)
ユノは刀を捨て、音を作る。
鼓膜ではなく、骨伝導でもなく、もっと“奥”で聴く音。
音で縫い目を乱し、橋の工事を遅らせる。
(遅らせた。けれど——)
〈全体魔力残、三割五分〉
〈負傷・戦闘不能:四割超〉
〈中央、陣形維持限界まで——二分〉
二分。
二分は、砂時計の砂が一息で落ちる量に等しい。
ユノは一度、目を閉じた。
(撃たないで来た。張って、繋いで、支えた。——でも、この先は?)
リリースコードが胸の中で、指先ほどの大きさで輪を描く。
——ユノ。
「まだ」
——“まだ”は、ときに世界でいちばん危険な言葉になる。
災厄が、こちらを見た。
視線はない。目もない。
けれど、見られる感覚は確かにあった。
その“見られた”という事実が、隊全体を一瞬だけ静止させた。
心臓が同時に一拍、遅れる。
その一拍の遅れた隙に、災厄は胸の空洞をさらに広げ、空の色を引きずり下ろした。
空が落ちる。
天井が重くなり、膝が勝手に折れる。
ユノは地面に手をつき、骨を地中へ伸ばした。
支える。
この街の下に、まだ“地球”があることを思い出させるように。
〈中央、離脱準備! 第三列と入れ替え!〉
「だめ、下がれない!」「……身体が、動かない」
動かない。
命令で動く機械でさえ、機構が歪めば動かない。
人はもっと複雑だ。
心が止まれば、脚も止まる。
リリースコードが、初めて“重い”声を出した。
——ユノ。
「まだ」
——あなたが選ばないなら、代わりに選ぶ者がいる。
「誰が」
——“世界”。
空洞の風が、ユノの中へ入ってきた。
冷たい。冷たさには種類がある。氷の冷たさ、金属の冷たさ、死の冷たさ。
これは、終末の冷たさだ。
(終わる。ここで、何かが。)
彼女は唇を噛んだ。
(撃つ? 撃てば、また——)
撃たなければ、全員がここで止まる。
止まれば、その先の街も止まる。
彼女たちを待つ家も、学校も、未来も、止まる。
(……やだ。)
やだ、は意思だ。
拒絶は選択だ。
ユノは奥歯を噛みしめ、首を横に振った。
「まだ張る。——張らせて」
——わかった。君は、最後まで“骨”でいようとする。
鍵の声は、悲しむでも怒るでもなく、ただ、理解を置いた。
災厄の胸——空洞の縁に、白い亀裂が走った。
地平線の向こう、補助部隊の重魔術式が準備を終えたのだ。
巨大な魔法陣が空に広がり、都市の輪郭をなぞる。
「落とすぞ!」「総出力、二割オーバーでも行け!」
命令は焦りに近い熱を帯びる。焦りは判断を歪めるが、時に勢いを生む。
陣が点火し、空から“重さ”が降ってくる。
万有引力という古い言葉が、此処と彼方の境界を強引に引き寄せる。
災厄の脚が、ぎ、と鳴って、折れかけた。
空洞が揺れる。
ユノは一瞬、胸に微かな希望の火を見た。
——その瞬間、空洞の“向こう側”が、こちらを見返した。
向こう側の何か、名前のない“意志”が、橋を渡ろうとする。
橋は半分できている。残り半分は、今落とそうとしているこちらの“重さ”が、完成させる。
(だめ!)
ユノは骨を空へ突き立て、陣の“重さ”の向きをほんの少しだけずらした。
重さは落ちる。けれど、真下ではなく、半歩だけ“斜め”に。
半歩の斜めは、大陸の距離に等しい。
落下のベクトルが変わり、橋の接続が一瞬だけ遅れる。
遅れは、命だ。
〈中央、よくやった——〉
司令の声は、そこで途切れた。
次の瞬間、空洞が、こちらの名前を呼んだ気がした。
“ユノ”。
違う。呼ばれたのは全員だ。
全員であり、ユノでもあった。
彼女の内側で、何かが“了承”した。
——ユノ。
鍵の声が低く、深く響く。
——選ばないのは、選んだのと同じ。
——ここで終われば、明日が消える。
「……わかってる」
唇の血の味が、灰の味に負けた。
「お願い。——私を使って」
——命令、承認。
鍵が回る音が、胸の奥で確かに鳴った。
古い扉の蝶番が油を差されたみたいに、滑らかで、否応がなかった。
世界が静かになった。
音が消え、色が退いた。
ユノの左目に、あの虹が満ちる。
瞳孔の縁で、七色が薄く重なり、やがて白に溶ける。
白は色ではない。
白は、色の総和だ。
総和は、消滅に似ている。
——制限解除プロトコル:L=∞
——対象区域 半径十キロメートル
——術式名:無相/消滅
鍵の声は、機械でも、祈祷でもなかった。
“意志”だけがそこにあった。
ユノは頷いた。
意識は、そこで暗転する。
けれど暗転の向こう側で、彼女は確かに見た。
自分の中にある“扉”が開き、無数の糸が世界へ伸びる光景を。
糸は誰かの呼吸であり、鼓動であり、夢の残り香だった。
光が落ちた。
音のない轟音が、都市の中心に刺さる。
刺さった場所から、すべてが“なかったこと”になる。
瓦礫は姿勢を保ったまま透け、灰は雪の形で消え、風の渦だけが半拍遅れて空を素通りした。
消滅という言葉は、破壊の同義語ではない。
破壊は形を壊す。
消滅は履歴を壊す。
——半径十キロ。
都市の地図が円形に剥がれ、空白がぽっかりと開いた。
空白の縁に立つ者たちは、そこに“本来あったはずの街”を思い出せない。
記憶の輪郭にモザイクがかかり、家の色も、看板の文字も、通り雨の匂いも、誰の靴音も、消えた。
光の中心で、ユノは目を閉じていた。
眠っているわけではない。
眠りに似た静謐。
ふいに、内側に水が差し込むように、声が満ちた。
——ユノ。
セリアの声だった。
——大丈夫。あなたは、奪ってない。
“いまは”。
その但し書きだけが、遠い。
光はやがて薄れ、色と音が帰ってきた。
帰ってきたのは“こちら側”だけだった。
向こう側は、扉を閉じたまま、沈黙した。
最初に聞こえたのは、しゃくりあげるような泣き声だった。
誰かが、生き延びた事実に耐えかねて泣いていた。
次いで、無線の復帰音。
〈——中央、応答を〉
〈こちら中央、生存確認。被害甚大〉
〈……聞こえるか。聞こえる者、挙手〉
挙手の代わりに、光がいくつか揺れた。
ユノは何もできなかった。
膝が床に触れている。掌は灰に沈んでいる。
胸の中の鍵は、静かだった。
——よくやった。
そう言われた気がして、彼女は首を横に振った。
口が動かない。動かす言葉が見つからない。
ただ、息が浅い。
それでも、生きている。
災厄の形は、もうなかった。
あった場所にも、あった痕跡にも、何ひとつ残っていない。
“なかった”という事実だけが、そこに在る。
あまりにも大きな不在は、存在よりも重かった。
〈全隊、緊急集計。戦闘不能者、搬送優先〉
〈医療班、全力投入。後続の後続も前に出せ〉
〈ユノ・アマツキ、返答を。状態は〉
ユノは喉の奥で小さく息を吸い、マイクに触れた。
「……大丈夫。立てる。——すぐに、立つ」
立てなかった。
骨が足りない。
いま必要なのは、彼女自身の“骨”だった。
左目のオーロラは、ようやく沈静した。
瞼の裏に、白の残光だけが残る。
鍵が、ごく短く、優しく鳴った。
——これで、“半分”は守られた。
彼女は、その言い方を憎んだ。
“半分”。
残りの半分がどこへ行ったかを、彼女はまだ知らない。
空は、灰の色を薄めながら、ゆっくりと青に戻りつつあった。
風が、匂いを運び始める。薬品と焦げと、微かな土の匂い。
救護の緑が点々と灯り、遠くで誰かが仲間の名前を呼ぶ。
返事は、半分だけ返ってきた。
ユノは膝に力を込め、立ち上がった。
“骨”が戻ってくる。
自分のための骨。
世界のための骨。
その両方が必要だ。
鍵はもう何も言わない。
代わりに、心臓が答えた。
——次は、あなたが選ぶ番だ。




