第一部 集結する光
夜明けが来ない街がある。
風向きが日付を忘れ、雲が地表の匂いを吸い込み続ける——そんな場所だ。アルト・ヘイム。地図では「第八特防区」。数十年前の噴出で壊死した都市は、今日、もう一度“終わり”に立ち会う。
ユノ・アマツキは輸送艇の窓から、灰の都市を見下ろしていた。
機体を震わせるのは乱気流ではない。空気そのものが粗く、ざらついた膜になっている。高度が落ちるにつれ、世界は色を減らし、黒と灰の濃淡だけが幅を利かせ始める。
〈全ユニットへ。作戦名:オーロラ・ヴェイル。目標、災厄級実体の完全殲滅〉
艦内に司令の声が落ちる。「浄化」でも「押し戻し」でもない、“殲滅”。その単語が喉に引っかかったまま降りてこない。
(殲滅……。)
ユノは無意識に左目の奥へ指先を寄せた。そこには微かな脈動がある。眠っているのではない、起きているわけでもない、呼吸の前段階のような、曖昧な拍動。
〈中央隊は降下用魔法陣を展開。地上は転位点E-3からの侵入を推奨〉
窓の外、空に幾重もの光輪が浮かぶ。輸送艇ごと収まる直径の転位陣が、ほぼ同時に百を超えて開いた。薄い青の幾何学が、灰色の空を押しのけて規則を作っていく。
ユノは席のベルトを外し、立ち上がる。周囲には同年代から少し上の先輩まで、さまざまな魔法少女が静かに並んでいた。互いに目を合わせない。ここで交わす言葉は、祈りか嘘になる。
「大丈夫?」と隣の少女が唇だけで訊く。
ユノは頷いた。声にすると震える気がした。
胸元のリリースコードが微かに揺れる。銀の鍵は何も言わない。だが、言葉の輪郭だけが、息のようにユノの内側を撫でていく。
——恐れを知っているのは、弱さじゃない。
——恐れを持ったまま進むことを、強さと呼ぶ。
(分かってる。今日は、私が“撃たない日”にする。)
前回の灰の戦場。あの白い閃光の直後、仲間が次々倒れた景色が網膜に焼き付いている。あの後遺症の病棟の匂いを、もう二度と嗅ぎたくない。
ユノは自分に言い聞かせるように、低く息を吐いた。
輸送艇が光輪を抜け、地上に落ちる。
足裏が瓦礫の感触を拾った瞬間、空気は別物に変わった。湿った鉄の味、濃い樟脳のような刺激、土と油が腐った匂い。何層もの汚れが肺に貼り付く。
「フィルター、最大値」
誰かが言い、全員の首元の装具が小さく鳴いた。薄い膜が喉から肺へ滑り、呼吸の通り道を張り替える。
〈中央隊、前進。第一から第三攻撃群、試射〉
命令と同時に、前方百メートルの空気が白く裂けた。低出力の光弾、氷の槍、結界を削るための音圧魔法。教本通りの連携が、霧へ等間隔に刻まれていく。
——が、刻まれない。
見えない壁に押し花のように貼り付いて、余熱だけを残し、ゆっくりと消えていく。霧は笑わない。怒りもしない。ただ、そこに“在る”。
「無効化……?」「いや、屈折と吸収の混合だ」
通信が飛び交う。定義より先に現象が進む。
灰の街路の向こう、中央広場だった場所に、黒い柱が生えた。
粒の集合が凝集し、脈動を持ちはじめる。よく見れば柱ではない。骨格だ。肋骨に似た弧、関節の曲面。
「形になる」
その呟きが合図になったかのように、空が少し暗くなった。
“災厄の形”が立ち上がる。
高さ二百メートル。両腕はだらりと長く、指は街路灯を掬うほどの長さ。顔にあたる部位は凹んだ穴の集合で、目のようなものはない。ただ穴が、見てくる。穴に“見られる”のは、見つめられるより冷たい。
広場を囲うビルの骨が、一斉に悲鳴を上げた。災厄が息をしただけで、窓が自壊し、弱った梁が粉塵になる。
〈前衛、散開! 側面からの針攻撃で皮膜を削れ。中央、圧縮砲で中層を狙え〉
号令。
ユノは中央の二列後方に位置取り、支援結界を重ねた。“撃たない”代わりに、張る。覆う。繋ぐ。
「スパイン、張るよ」
彼女の指の軌跡が空中に細い糸を描く。糸はすぐ骨になる。光の骨組みが仲間と仲間を結び、転倒の衝撃を逃し、過負荷の魔力を別ルートに逃がす。
「助かる!」と短い声。次の瞬間、その声は爆音に飲まれた。
災厄の形の腕が振られる。振りかぶりも予備動作もない。
——空白が走った。
腕が通った空間は、そこだけ“音が消える”。次の瞬間、瓦礫と少女の身体がどこか“別の場所”に押しやられたように消える。遅れて風だけがやってくる。
巻き込まれた二人の位置に、ユノの骨組みが残滓を拾い上げ、別の少女の背へ明滅を移した。無意識に、交換を成立させる。ひとつの過負荷を群れで受ける。
「射線、通らない!」「外層、再生速度が速い!」
「針で剥がしても、すぐ戻る……」「中心に届かない!」
連携の声は悲鳴ではない。作業だ。ここでは恐怖も段取りのひとつ。
ユノは砲撃魔法の構えを取り、そして解いた。
(駄目。私が撃てば、誰かが倒れる。だったら張る。繋ぐ。押す。)
光の骨を厚くし、重ね、柱のように積み上げる。折れそうな背に背骨を足していく作業。数十、数百。
汗が耳の裏を流れる。フィルターの薬品臭と混じって、頭が軽く痺れる。
災厄の左肩がわずかに沈んだ。そこに中層があると誰かが読んだのだろう。圧縮砲が連続で叩き込まれ、黒い皮膜の内側で赤い光が跳ねた。
「通った! 今、通った!」
——通っていない。
赤は血ではない。災厄の“学習”だ。攻撃の偏りはパターンであり、パターンは対策の餌。赤はそこに抗体が生じたことのサインに見えた。
(賢い……いや、違う、賢さというより、反応速度の化け物。)
〈第三群、上空からの垂直落下術式——〉
指示は最後まで届かなかった。災厄の頭部に集まっていた穴が、一斉に開閉し、低い唸りを発する。空気が反転。上空から降りるべき術式が、逆流して空を吸い上げられ、陣がひっくり返る。
落下予定だった三十名が空で絡まり、結界と結界がぶつかって弾けた。
「スパイン拡張!」
ユノは自分の背骨を抜いて、遠くの誰かの背に刺す。光の骨は痛くない。だが、刺すたびに胸が薄くなる。
(大丈夫、まだいける。撃たない。まだ張れる。)
右側面の瓦礫帯で白い花火が上がった。治癒の合図。
「負傷多数! 搬送ルートが足りない!」
ユノは骨格の輪を変形させ、担架のようにして後方へ流す。担架の上で、少女の唇が「ありがとう」と形だけ動く。声帯は震えていない。震えを骨が引き受けたから。
〈中央、耐えろ。側面から基底部の“脚”を削る。動きを止める〉
脚。言われて初めて、災厄の下半分に“支え”のような構造があると気づく。柱状、いや、杭群。地中から吸い上げ、地中へ流し込む、循環器。
(あれを折れば……でも近づく前に吹き飛ばされる。)
ユノは喉を鳴らし、骨の束を一本、足元に打ち込んだ。地面の下に潜らせ、杭群の根本へ回り込ませる。
振動が返る。硬い。だが、完全な剛ではない。
「いける……!」
彼女は束を撚り合わせ、螺旋にし、さらに深く潜らせ——
世界が、息を飲んだ。
災厄が低く弾んだのだ。ほんの数センチ。だが、その“弾み”に都市が追従した。瓦礫が同時に跳ね、地割れが千鳥足のように走り、空気中の灰が瞬きのように上下する。
耳の奥で鼓膜が叩かれ、平衡感覚がずれる。膝が軽く笑った。
骨束が弾かれ、ユノの掌の皮膚が切れた。赤い点がぽとりと落ちる。灰がそれを食べ、すぐ灰色に変えた。
(まずい……陣が崩れる)
〈中央、下がるな! 下がれば押し潰される。前へ。前へだ〉
前へ。
命令は単純で、困難だ。
ユノは一歩出た。足の甲の上に、誰かの破片のような何かが当たって、滑っていった。見ない。見ても記録できない。この場の記録者は別にいる。
リリースコードが、やっと声を出した。
——ユノ。
「撃たない」
——知ってる。
「張る。繋ぐ。支える。今日の私の仕事はそれ。」
——知ってる。だから、今は言わない。
数十秒。数分。時間は砂のように指の間を落ちる。
攻撃と再生、削りと学習。反復。反復。
眉間の奥を、倦怠が固い球になって転がる。
〈前衛の消耗、三割〉
〈搬送区画、飽和〉
〈弾数(魔力)残、五割〉
数字だけが現実を刻む。
ユノの骨束は細くなり、色が少し薄くなる。薄くなっても、繋がる限りは意味がある。
災厄の形が、首を傾けた。
“見る”仕草だ。目はないのに、見てくる。
どこかを、ではない。全員を、同時に。
冷たいものが背骨をなぞり、ユノは思わず肩をすくめた。
(嫌だ……嫌だ、これは。)
嫌悪は恐怖と違う。恐怖は退避を促すが、嫌悪は拒絶の姿勢を作る。ここで背を向ければ、嫌悪は後悔に変わる。
ユノは踵を固め、一歩分だけ前へ重心を移す。
「来なさい。ここまでは、私が“骨”になる」
災厄の胸部のどこかで、心臓に似た脈が強く打った。
黒の深いところに、赤い線が一瞬走り、消える。
全隊がそれを見た。
〈今だ、中央! 圧縮——〉
号令が終わる前に、災厄の腕が水平に払われた。地平線が傾ぎ、ビルの骨格がドミノのように倒れていく。波紋のように広がる破壊の導線。
ユノは骨束を扇に広げ、十、二十と支点を増やす。流れの向きを変え、押し寄せる破片に“煩わしさ”を付与する。煩わしさは、勢いをそぐ。少しだけ。
肩で息をしながら、ユノは思った。
(まだ、撃たない。ここで撃てば、きっと“前回”になる。)
視界の端で、誰かの結界がはじけて霧散する。別の誰かが、そこに自分の結界をそっと置く。置き換えはスムーズだ。練度と信頼が要る。ここにいる五百は、今日初めて会った者もいるはずなのに、“隊”になっている。
(だから、私は骨でいい。撃たない骨でも、隊は進む。)
〈後方より補助部隊到着まで、あと四分〉
四分。
言葉にすると短い。戦場の四分は、大陸の距離だ。
ユノは左の掌を開いた。皮膚の切れ目から滲む赤が、灰に馴染み、薄い桃色に溶ける。
(あと四分。張れる。繋げる。落とせる——)
世界が、低く鳴った。
災厄の形が、初めて“音”を出したのだ。
地鳴りではない。声でもない。
脊髄に直接触れてくる振動。骨の内側で鳴る、名のない鐘。
次の瞬間、空が泡立った。泡は見えない。だが、肌が泡立つ。鳥肌が時間差で追いかけてくる。
前列の三人が同時に崩れた。気絶ではない。電源を落としたように、すとん、と倒れる。
「起こせるか?」「だめ、入らない。スイッチが……」
スイッチ、という単語を口にした子が、自分で口を押さえた。人はスイッチではない。けれど今、彼女たちの体から“入出力”が消えた。
ユノは喉の奥で呻いた。
(だめ。これは——いや、だめ。まだ張る。支える。四分だ、四分。)
リリースコードは沈黙を保った。
——本当に、強くなった。
声は言葉にはしない。けれど、ユノの背中に手を添える気配があった。
〈中央、持ちこたえろ。持ちこたえれば、反撃の形ができる〉
命令の声にも疲労が滲む。
灰の雪が降り始めた。雪ではない、粉砕されたコンクリートとガラスの粉。視界が乳白色に濁る。
ユノは骨束を天蓋に変え、降り注ぐ粉を吸着させる。骨は飽和する。飽和するたび、一本、また一本と光がくすむ。
(まだ——いける)
遠くで救護の緑の光が三つ、ぱっと弾けた。そこまでが今の限界。
災厄の足元、杭群の一本がわずかに折れた。側面部隊の成果だ。
〈折れる。支えが折れる!〉
歓声に似た短い声。
ユノは息を吸い込む。胸が痛い。空気が重い。
(反撃の形。ここで崩れない。)
彼女は骨束を地中へもう一段潜らせ、杭の根を“邪魔”する。理不尽の定義は簡単だ。理に“邪”と書く。邪魔は戦術だ。
災厄が重心を下げた。
地面が、低く、雄叫びの前に喉を鳴らすような振動を発する。
——来る。
ユノは、骨を広げた。
張る。繋ぐ。支える。
撃たない。
彼女は心の中でだけ、鍵に話しかける。
(お願い。まだ黙っていて。私は、まだ、やれる。)
銀の鍵は静かだった。
静かに——しかし確かに、胸の奥で拍を刻み続けていた。
四分は、まだ来ない。
戦場は、まだ崩れない。
朝は、まだ遠い。




