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職業:魔法少女  作者: ずんだずんだ
第三章 進むか戻るかそれとも、、
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第六部 追跡の果て

路地の闇は、夜よりも黒かった。

 セリア・ノインは息を絞り、濡れたアスファルトに片膝をついた。肺の奥で火が弾ける。走るたび、視界の縁が白く痺れた。

 ——まだ、行ける。

 足首に“弾力”を、膝に“整列”を、胸に“静穏”を。固有魔法〈付与〉の回路が、もうほとんど擦り切れたナイフみたいに頼りなく光る。ユノへ渡した後の“残り”は、思っていた以上に少なかった。


 背後の高架の上で、車輪が軋む。

 保安部の黒いヴァンがナトリウム灯を一瞬だけ切り、音だけで距離を詰めてくる。上空には小型の観測ドローン。プロペラ音は抑えられているのに、羽ばたく虫の群れのように耳を刺す。

 路地の角で、セリアは壁に掌を触れた。壁に“滑り”を、靴裏に“粘り”を。曲がり切ると同時に、背後の角に小さな風圧を立ててやる。追跡者が反射的に身構え、半拍遅れる——その半拍で十メートルは稼げる。


 大通りに出ると、雨が来た。夏の終わりの生ぬるい雨。ネオンが水膜に溶け、歩道のガラスに虹色の筋を走らせる。

 「対象、視認。南への逃走継続」

 無線の声が雨粒に砕け、路面で小さく跳ねた。

 ——回収。非殺傷で。

 耳が覚えている命令。人に向けられた言葉ではない、標本へ向けられた言葉。


 セリアは軒下に滑りこみ、踵だけで体勢を変える。視線が吸い寄せられるショウウィンドウの奥で、安いマネキンが笑っていた。白い歯列。塗りすぎた頬紅。

 自分も今日まで、あの笑顔に近い表情を“貼って”生きてきたのだと気づいて、苦笑いが喉の奥で乾いた。

 ——でも、もう終わり。私は、戻らない。


 横断歩道の信号が点滅に変わる。

 雨音の向こうで、ドローンのローターが高音に移った。封魔網を降ろす合図だ。

 セリアは信号を待たない。塗れた白線に“硬さ”を、足裏に“軽さ”を。跳ぶように斜めへ渡り、中央島に転がる。肩に走る痛覚は“鈍感”に落とし込む。——神経はまだ騙せる。筋肉は、もう正直だ。


 橋に差しかかると、川面が黒い皮革のように重く光った。欄干には雨が斜めに打ちつけ、粒の向きが風の癖を教えてくれる。

 「封鎖、完了。南側二ブロック、外周網展開」

 上空の声。

 逃げ道は削られていく。

 セリアは橋の狭い歩廊に身を寄せ、携帯端末を取り出した。濡れた指先に、氷のように冷たいガラス。

 ——焼く。

 極秘区画で複製した〈PHASE-γ〉の断片。自分のファイルのコピー。ユノの名が印字された小さな行。

 それらを一つずつ、暗号化したパケットに刻み、無作為な公共回線へ放つ。

 届く先はわからない。届かなくてもいい。送ったという事実だけが、未来のどこかで“証拠”の形を持つ。


 指が止まった。

 〈送信完了〉の表示の奥で、水に揺れる街灯が二つ、三つ、増えた。

 ——来る。

 セリアは端末をポケットに押し込み、橋の中央へ踵を返した。

 黒い影が欄干の向こうで膨らむ。白い雨の網の隙間から、盾とヘルメットの輪郭。

 「セリア・ノイン。武器を捨て、両手を——」

 雨が言葉の角を丸くする。

 セリアは肩で笑った。

 「武器は、もう置いてきたわ」


 短杖は持っていない。

 今の自分にあるのは、貸す力と、守る意志と、走る脚だけ。

 欄干の上へ片足を掛け、もう片足で橋の端材を蹴る。

 落ちる瞬間に、体へ“軽さ”を、肌へ“水切れ”を。

 川は思っていたより浅く、冷たくなかった。夏の雨は川まで温める。

 濁った水が口の中へ入り、錆の味が舌を汚す。

 流れは遅い。

 ——助かる。

 背で雨を受けながら、橋脚の陰へ身を寄せる。頭上を過ぎる足音。

 「飛び込んだ!」「南岸へ回り込め!」

 そのやり取りの間に、セリアは橋脚のコンクリートに掌を置いた。

 “粗さ”を自分に、“滑り”を壁に。

 少しずつ、少しずつ、苔の間を這い上がる。掌の皮が剥ける感覚は“鈍感”で鈍らせ、痛みだけは逃さない。痛みは、まだ“生きている”ことを脳に教えるから。


 対岸の葦の茂みに身体を滑り込ませ、うずくまった。

 息を殺す。

 雨は相変わらず降り、遠雷が二度、低く腹を叩いた。

 ふと、胸の奥に空白があることに気づく。

 当たり前だ。そこには、さっきまで“私の半分”が入っていた。

 ユノ——。

 名前は声にならない。出した瞬間に、雨に削られて消える気がした。

 ——大丈夫。行くところへ行った。

 鍵が鳴って、部屋の青が脈打ち、あの子の寝息と私の鼓動が重なった瞬間。世界の糸は、確かに結び直された。


 「南岸、熱源反応。囲め」

 葦の群れが揺れ、黒い影が左右からにじり寄る。

 セリアは葦の葉の一枚に指先で“硬さ”を与え、微かな音を立てて折った。小さな破片が自分の頬をかすめて落ちる。その音に反応して、一人が半歩だけ前へ出る。

 ——そこ。

 彼の足首に“重さ”。膝に“鈍重”。

 体勢が沈み、動きが半拍遅れる。

 隙間を縫って、葦から背を外す。

 土はぬかるみ、靴底が吸い付く。足が上がらない分、地面に“弾力”を渡す。微かな跳ね返りが筋に返り、崩れたフォームを一歩だけ前に押す。


 けれど、限界はすぐそこだった。

 上空で、ドローンのローター音が変わる。

 封魔拘束帯——先ほどより強い型だ。

 雨の幕を破って、光の薄い網が降りる。

 セリアは空気へ“張力”を張り、網の目を一瞬だけ拡げて身体を通す。通り抜けた先に、麻痺線。地面を這う青白い糸が、ふくらはぎに絡みつく。

 意識より先に脚が止まる。

 膝が泥へ落ち、肩が走りに未練を見せて前へ崩れた。

 ——ここまでか。


 額に冷たいものが触れた。銃口ではない、封魔杭の先端。

 「動くな。非殺傷で確保する」

 男の声は若い。怯えと職務が半々。

 セリアは頷かない。頷くのは降伏の合図だから。

 代わりに、雨を見た。

 街灯に横から切られ、粒が糸のように幾筋も光る。

 美しい、と思った。

 戦場の空は、たいてい灰色だ。きれいな光は、たいてい嘘の上にある。

 今夜の光は、嘘ではない。

 ——彼女の目に、どうか。


 胸の中で、まだ微かに残った“与える回路”がうずく。

 もう渡すものはない。残り火のような感覚だけ。

 それでも、願いは回路になる。

 心臓の拍に合わせ、舌の裏で小さく呟く。

 「ユノ……あなたに全部、託したわ」


 雨音が一拍だけ遠のいた。

 上空で、雲の綻びがわずかに光った気がした。

 保安員が短く息を呑み、すぐに職務の声へ戻る。

 「対象、確保。意識レベル低下。搬送する」

 肩を持ち上げられ、担架に横たえられる感覚。

 視界はすでに輪郭を失い、世界は“音”だけの薄い膜になった。

 担架が運ばれる振動の合間に、遠くのどこかで子供の笑い声が混じる。

 錯覚かもしれない。それでもいい。

 ——笑って。どうか、笑って。

 まぶたが落ちる。

 光は閉じ、雨は続いた。


 無機質な光に満たされた部屋。

 ディスプレイのログが淡々と更新される。


 > [SECURITY LOG] 23:41 市街地南ブロックにて追跡開始

 > [SECURITY LOG] 23:47 対象 SE-09(S.Noin)活動停止確認/封魔処置実施

> [TRACE LOG] 23:47 同時刻、未知のエネルギー波形逸散を検出(種別:不明)

 > [TRACE LOG] 23:48 残余エネルギー回収:記録不可/観測不能

 > [HR NOTE] 処置区分:引退処理中事故(公表)

 > [PROJECT NOTE] Aurora_Seed:継続


 「……まるで、どこかへ“転送”されたみたいだな」

 モニターを覗き込んでいた保安部の一人が、独り言のように言う。

 隣の上席が視線だけで黙らせる。

 「記録通りに書け。余計な比喩は要らん」

 「はい」

 キーボードの音が乾いて響く。

 画面の隅で、別のウィンドウが小さく開いた。

 > [CANDIDATE REGISTRY] SE-10:新規エントリ

 > [NAME] Yuno Amatsuki(IMIA未登録/監査対象)

 > [STATUS] 次期適性検査準備


 上席はその行を見て、息を吐いた。

 「計画は続く。器は、次へ」

 誰の顔にも、表情という名の皮膚は貼られない。

 部屋の空気は冷たく、数字だけが温度を持っていた。


 窓の外では、雨がまだ降っている。

 街灯に切られて、粒は糸のように落ち続ける。

 それが誰かの祈りの形に見えることを、ここにいる誰も、口にはしなかった。

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