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職業:魔法少女  作者: ずんだずんだ
第三章 進むか戻るかそれとも、、
10/26

三部:灰の書庫

 翌朝の訓練は、体温の測り方を忘れた身体みたいに、どこにも熱の宿らない動きで終わった。

 ユノは片付けの列を外れ、壁づたいに歩いて、観測室の隅にいる灰野の背中を見つけた。ガラス越しに並ぶモニターが、彼の頬に四角い光を貼りつけている。光は硬く、皮膚の上で角が立っていた。


 「……先生」


 呼びかけると、灰野は振り返った。反射的な笑みが一瞬だけ現れ、すぐに消える。笑みが消えた場所に、重力が戻る。


 「ユノ。どうした」


 「昨日、街で……リオを見ました」


 言ってから、言葉の置き場所を探した。見た、は正確だ。けれど足りない。見たもののどの部分がここに連れて来られるのか、廊下の空気は教えない。ユノは呼吸を整え、続けた。


 「花屋で働いていて。話もしました。『良好です』って、言ってた。……ただ、目が。ずっと同じ場所にピントが合っているみたいで」


 灰野の眉が、ごくわずかに動いた。動きは小さく、けれど、彼の中でいくつかの文が入れ替わるのが見えた。長い言葉が短くなり、短い言葉が、言えなくなる。


 「……そうか」


 それだけ言って、彼は視線を落とした。目の前の机に置かれた端末の黒が、沈黙を受け止める盆のように見える。口を開きかけて、閉じる。開けば説明になる。閉じれば保留になる。どちらも正しい顔を持つ。


 「先生、引退って」


 ユノは一歩踏み込むように問いを置いた。問いは角がある。角を持ったまま、相手の前に置けば、誰かが指を切る。だからできるだけ、角を手で隠して渡す。


 「……戻る、ことなんですよね」


 灰野はゆっくりと息を吸った。胸の内側が動く。答えは簡単だ。簡単な答えは、誰かを守ることがある。守られる側がそれを望むかどうかは、また別の話だ。


 「制度上は、そうなっている」


 やわらかい言い方だった。「なっている」。誰が、の主語を抜いた。主語を抜けば、言葉は空気に混ざる。


「本人も、そう言ってた。『良好です』って」



 「……ユノ」


 灰野は言いかけ、言葉を噛み直した。舌の上に乗った文が、重すぎたのだろう。重いものは、落ちる音を立てる。


 「見間違いかもしれない。あるいは、式の後で会えば、気持ちの整理がつかなくて、いつもと違って見えることもある」


 「そうかもしれません」


 ユノは頷いた。頷く動作は、相手の責任を軽くする。軽くすることで、受け取りがちょうどよくなる。ちょうどよさの中に、真実のかけらが入っていれば、なお良い。


 「……ただ」


 声が少し低くなる。低い声は、床に近い。


 「彼女の『おかえりなさい』が、店の言い方じゃなかった。誰かが、わたしを、帰る場所に呼ぶみたいに」


 言葉にしてみると、ますます説明にならなかった。説明にならないものほど、肉体に残る。灰野は目を閉じ、開いた。薄い皺が増え、光が一つ、そこに沈む。


 「……わかった」


 彼は端末を閉じた。閉じる音が、小さく硬い。


 「今は、忘れろ」


 忘れろ。

 ユノはその語を、耳の奥で何回か裏返す。忘れるは動詞だ。動詞は、身体がやる。身体は、命令で動かない。命令で動かないものに命令するのは、優しさのふりをした暴力になる。灰野がそのことを知らないはずがなかった。知っていて、なお、そう言った。


 「先生は、見ましたか」


 ユノが問うと、灰野は少しだけ顔を背けた。顔を背ける動作は、答えだ。


 「……何も見ていない」


 嘘ではない。

 見ない、という動詞は、現実の一部を加工する。加工された現実は、誰かの胃の中で長く滞留する。灰野の喉仏が、ひとつ上下した。彼は言葉を継がず、代わりにユノの肩に、手を置こうとして、やめた。やめる、という動作が、触れるより多くを伝えると知っている人のやめ方だった。


     *


 灰野はその日の深夜、誰もいない資料室へ降りた。鍵は認証で開き、空気は古い紙の匂いを残していた。紙は嘘を吸う。吸って、黄色くなる。古い機密文書の背表紙が、列になってこちらを向いている。顔のない人々が、静かに並んでいるみたいだ。


 端末を端に置き、内線の電源を切る。カメラの死角を作るために、立ち位置を少しずつ変える。どこに目があるか知っているのは、目に晒される仕事を長くやってきた証拠だ。

 灰野はファイル名をいくつか打ち、すぐに打ち直した。直接的な言葉は、警告をよび、警告は、誰かの足音を呼ぶ。


 間接路。隠語。符牒。

 押下。

 表示。


 画面に、記号が現れ、次に灰色の文が現れ、最後に黒が浮き上がる。


 ――〈被験個体No.014:リオ・フェリス〉

 状態:安定稼働中

 行動ログ:市内商店勤務(第三区アーケード内店舗)

 応答パターン:標準応答セットβ


 灰野の喉が、音を立てずに細く狭まった。

 稼働。

 状態の欄に相応しくない単語が、そこにあった。

 彼はスクロールし、付記を読む。


 ――「標準応答セットβ」:新規生活環境下における適応アルゴリズム。社会的役割言語の選択負荷低減と、観察対象(周囲個体)への違和感抑制を主目的とする。


 長い言葉の列が、そのまま胃に降りて、胃の壁を擦った。

 違和感抑制。

 それは薬の名のように聞こえる。違和感は病か。病だとしたら、誰が病むのか。見ている側か、見られている側か。

 灰野は指先に力を入れて、スクロールを止めた。画面の下に小さなタブが並び、そのひとつに、赤い印が点いている。「保守」。開く。眼球が乾く前に、文字が、静かに現れる。


 ――保守:第三区店舗稼働個体014における応答遅延〈微小〉を確認。調整済。


 微小。

 微小は、いつだって最初に書かれる。最初に書かれて、最後に消えない。

 灰野は画面を閉じ、目を押さえ、天井の蛍光灯を数えた。数は、嘘をつかない。数は、安定を運ぶ。しかし今夜は、数も、吐き気を止めない。

 立ち上がり、棚の影に身を寄せる。影は厚さを持ち、胸の前に空間をつくる。彼はそこで小さく息を吐き、独り言のようにつぶやいた。


 「……戻れる、のか」


 戻る、という動詞の始まりの位置が、彼の中で動いた。始まりが動くと、終わりも動く。線で結ばれている。線を切ると、線自体がこちらへ絡みついてくる。


     *


 ユノはその夜、眠りに落ちる前のわずかな宙に吊られていた。

 意識の表面に、細かな泡が上がってきて、それが弾ける音が、耳の芯で鳴る。泡のひとつひとつに、小さい誰かの声が入っている。たぶん、昼間聞いた言葉たちだ。


 ――良好です。

 ――おかえりなさい。

 ――忘れろ。


 泡が弾け、音が消え、次の泡が上がる。やがて泡は泡であることをやめ、光の粒に変わる。粒は重力を持ち、湖の底へと降りていく。


 湖が現れた。

 夢の中の湖面は、今夜だけ、はっきりと輪郭を保っている。縁のない黒い鏡。風がないのに、表面が波立つ。波立ち方は、遠くで誰かが息をしているリズムに似ている。

 ユノは湖の手前に立っている。足の裏が冷たい。靴を履いているのに、足の形が水に触れてしまう。


 水面の向こう側に、もう一人のリオが立っていた。

 昼間見た花屋の彼女と同じ髪、同じ姿勢、同じ手。

 ただ、ここでは、彼女の目がわずかに揺れている。ピントが、波に合わせて短く震える。

 ユノは呼吸を整え、声を作った。声は小さく、湖の上で丸くなる。


 「リオ」


 湖の向こうの彼女が、頷く。

 頷きは、遅い。遅いから、信じられる。速い頷きは、演技のリズムに乗る。遅い頷きは、身体が導かれる。

 ユノは一歩踏み出そうとして、止まる。湖は踏み石を隠す。足場がどこにも見えない世界で、前進は落下に変わりやすい。


 「……戻れた?」


 問いは、違う単語に置き換わって口から出た。生きてる、ではない。戻れた、だ。戻る、は誰かの期待の形をしている。期待の形をしているものは、崩れると、期待した側を怪我させる。


 湖の向こうの彼女は、首を少し傾けた。

 傾ける、は花屋で見なかった動きだった。

 そこに、体温のある迷いが宿る。

 彼女は唇を動かした。音が出る前に、言葉が形になる。形だけが、風に乗る。


 《……わたし、ちゃんと……戻ってるつもり》


 つもり。

 その最後の二音が、湖面で少し重く沈んだ。沈んだまま、ゆっくり回転する。


 ユノは胸の前で指を組んだ。指の骨が触れ合う音が、小さく鳴る。わたしの音、だ。誰にも聞こえない種類の音。

 湖のこちら側の風景の中で、背後に気配がした。

 振り返ると、霧の奥に白い影がひとつ立っている。輪郭は柔らかく、目だけがはっきりしている。セリア、と呼べばいいのかもしれない。呼ばない。呼ばないことが、ここでは礼儀のように思えた。


 白い影は、一歩だけ近づき、ユノと湖の間に、見えない橋の端をそっと置いた。

 橋は、目に見えない。

 でも、橋が置かれる音がする。

 細い金属の触れ合う音。

 鍵の音に似ている。


 ユノは一歩、進んだ。

 足が沈まない。

 湖面の上に、薄い膜が伸びている。

 膜は破れやすい。破れやすい膜を渡るとき、人は歩き方を変える。

 リオの前に立つ距離まで、たどり着いた。

 手を伸ばす。

触れない。

 触れない、が、触れたときよりも多くを伝えることがある。空気が、指の形に合わせて震える。震えが、彼女の頬へ届く。頬の上の影が、わずかに揺れる。


 《ユノ》

 名前は、距離を縮める。

 呼ばれながら、ユノは目を細めた。目の裏に、街灯の冷たさと、花紙のざらつきが交互に映る。

 世界の表面が、皮膚の裏まで入り込んでくる。


 《お願いが、あるの》

 彼女は言った。声は、風よりも薄く、でも、水よりも重い。

 《わたしを、見て。時々でいいから。見に来て。わたしが、ちゃんと、戻ってるつもりでいる間に》


 ユノは頷いた。頷きは遅く、確かだ。

 見に行く、は、行為の約束で、救済の約束ではない。

 救済の約束は、ここでは軽すぎる。軽い約束は、足場になる前に、風で飛ぶ。

 見に行く、ならできる。できることなら、失敗の方法も知っている。失敗の方法があるほうが、怖くない。


 白い影が、橋を少しだけ持ち上げた。

 橋が鳴る。

 鍵のような音。

 その音だけを合図に、景色が、ゆっくり、薄く、ほどけていった。

 リオの輪郭が湖へ溶け、ユノの足元の膜が、波に代わり、ユノは自分の部屋の硬い床へ戻る。

 目を開ける。

 天井のスリット。

 カーテンの隙間の街灯。

 胸の上に置いた鍵。

 鍵は、静かだった。静かでいることを、自分で選んでいる静かさだった。


     *


 灰野は資料室から出る前に、もう一人の男の気配を感じた。

 振り返ると、扉の影にシロウ・エガワが寄りかかっている。

 彼は拍手をしなかった。拍手に似た顔もしなかった。

 ただ、淡い笑みを貼る。笑顔を貼るのに使う糊は、彼のポケットから減らない。


 「夜更けに古文書、風流ですね」


 「……ここはあなたの持ち物ではない」


 「誰の持ち物でもないですよ。所有者は名義が多すぎると、薄まって見えなくなる。あなたも知っているでしょう」


 灰野は返事をせず、彼の横を通り過ぎようとした。肩が触れる。硬い。人間の肩は、もっと柔らかいはずだ。

 シロウが小さく言う。


 「ユノ・アマツキ。監視レベルを引き上げます」


 「誰の命令だ」


 「命令はいつだって、集合名詞です」


 集合名詞は責任の背に羽を生やす。羽の生えた責任は、隙間から逃げる。

 灰野は足を止め、振り返らずに言った。


 「彼女に“希望”を見せるな、と言いましたね」


 「ええ。希望は時に暴発しますから」


 「あなたたちこそ、希望を必要としているくせに」


 シロウは笑わないまま、唇の端を少しだけ動かした。

 「だからこそ、量を管理する。配給と同じです」


 管理。

 配給。

 言い慣れた言葉。

 言い慣れた言葉は、刃を鈍くする。鈍い刃は、長く人を傷つけ続ける。

 灰野は歩き出し、階段の途中で一度だけ立ち止まった。胸の奥で、眠っていた怒りが、背骨に沿って目を覚ます。怒りは、正しい方向を持たないと、すぐに燃え尽きる。正しい方向は、紙の上では定規で引けるのに、現実では風が吹く。


     *


 翌朝、ユノは花屋の前に立った。

 開店前の空気は、冷蔵庫の中のように密度が高い。シャッターの隙間から朝の光がこぼれ、塵を均一に照らす。

 店の裏手から小さな足音。

 エプロンの紐を結びながら、リオが現れる。

 視線が合う。

 今度は、ピントがわずかに揺れた。

 ユノは胸の中で、小さく息を吐く。

 「おはよう」

 「おはようございます」

 今朝のリオは、「良好です」を言わなかった。

 言わない、は変化だ。

 変化は、裂け目の中から生まれる。裂け目を怖がっているうちは、変化は来ない。


 「昨日、ありがとう」

 ユノが言うと、リオは首を傾けた。

 傾ける。

 傾げる角度が、昨夜の湖と同じだ。

 夢と現実の角度が一致する。

 それは、怖い。

 それは、嬉しい。


 「今日も、買っていく?」

 「うん。カスミソウ、昨日のと同じの」

 「かしこまりました」


 包む手つき。紙の音はやはり鳴らない。

 ユノはふと、店先のカード立てに目をやった。小さな名札が並ぶ。

 その隅に、薄いカードが一枚、裏返しになって挟まっている。癖の強い裏面の紙。風でめくれ、表が見える。

 〈新生活応援・標準セットβ〉

 小さな文字で、花束の組み合わせ例が書かれていた。

 “標準”という語に、指先の皮膚が反応する。

 ユノはカードから視線を外し、リオの手元を見る。

 手は美しい。動きは美しい。

 美しいものの中に、痛みは隠れやすい。

 痛みを隠すために美しいのか、美しいから痛みが見えないのか。


 受け取った花束は、昨日より軽かった。

 軽くなったのは、気のせいかもしれない。

 気のせいでも、身体は覚える。

 ユノはうなずき、何も言わずに店を離れた。言葉は今朝、重すぎた。


     *


 昼の講義の最中、ユノの端末に短い通知が届いた。

 〈特別課程・午後より個別訓練へ移行〉

 文面は乾いている。乾いた文面は、感情の吸水性が高い。読み手の中の水分を奪って、紙のようにする。

 ユノは目を閉じ、呼吸を数えてから席を立った。

 廊下を歩く。

 角に、新しいカメラ。

 レンズに自分の瞳が映る。

 瞳の中に、レンズが映る。

 映り込みの往復。

 世界は、自己相似の箱庭になっていく。


 訓練室のドアの前で、一度だけ足を止めた。

 あの湖の、膜の感触が足裏に戻ってくる。

 ユノは自分の靴紐を結び直し、リリースコードの輪に指を通して、そっと回した。

 鍵は鳴らない。

 鳴らないことが、今は合図だった。

 扉が開く。

 光が、刃物のようにまっすぐ降りてくる。

 そのまっすぐの中で、ユノは一歩、入った。


     *


 夜更け、灰野は再び資料室へ降りた。

 扉の前で立ち止まり、手をポケットに入れて、拳を握る。

 指の節が、骨の輪郭を確かめる。

 扉が開く。

 今夜は、光の色が昨日より冷たい。

 端末を接続し、昨日のファイルを開く。

 ログが追加されていた。

 〈被験個体No.014:リオ・フェリス〉

 状態:安定稼働中/微小揺らぎ検知(要観察)

 備考:観察対象0147による接触(視認)履歴を追記。影響度、閾値内。


 0147。

 ユノの識別番号。

 接触。影響度、閾値内。

 灰野は額に指を当て、目を閉じた。

 閾値内、という言葉は、祈りの形に似ている。

 祈りは、数値に変換されると、別のものになる。

 彼は短く息を吐き、画面を閉じた。

 閉じたスクリーンの黒に、自分の顔が映る。

 その顔を、彼は好きでも嫌いでもない。

 好きでも嫌いでもない顔で、彼は階段を上がった。

 上がりながら、心のどこかで決めた。

 ――見届ける。

 ただ、それだけを、今は選ぶ。

 選ぶことだけが、まだ許されている。


     *


 ベッドの上、ユノは鍵を胸に置いたまま、横向きに眠りに落ちた。

 眠りの薄皮の向こうで、湖は今夜も呼吸している。

 白い影は、遠くに立っている。

 距離は変わらないようで、少しずつ縮む。

 縮む速度は、数字にならない。

 数字にならないものの方が、信じられる夜もある。

 ユノは夢の中で、口の形だけ「またね」と作った。

 声は出ない。

 出さない。

 その静けさの中に、返されない返事が、確かにあった。

 それで十分だと、身体のどこかが、頷いた。

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