三部:灰の書庫
翌朝の訓練は、体温の測り方を忘れた身体みたいに、どこにも熱の宿らない動きで終わった。
ユノは片付けの列を外れ、壁づたいに歩いて、観測室の隅にいる灰野の背中を見つけた。ガラス越しに並ぶモニターが、彼の頬に四角い光を貼りつけている。光は硬く、皮膚の上で角が立っていた。
「……先生」
呼びかけると、灰野は振り返った。反射的な笑みが一瞬だけ現れ、すぐに消える。笑みが消えた場所に、重力が戻る。
「ユノ。どうした」
「昨日、街で……リオを見ました」
言ってから、言葉の置き場所を探した。見た、は正確だ。けれど足りない。見たもののどの部分がここに連れて来られるのか、廊下の空気は教えない。ユノは呼吸を整え、続けた。
「花屋で働いていて。話もしました。『良好です』って、言ってた。……ただ、目が。ずっと同じ場所にピントが合っているみたいで」
灰野の眉が、ごくわずかに動いた。動きは小さく、けれど、彼の中でいくつかの文が入れ替わるのが見えた。長い言葉が短くなり、短い言葉が、言えなくなる。
「……そうか」
それだけ言って、彼は視線を落とした。目の前の机に置かれた端末の黒が、沈黙を受け止める盆のように見える。口を開きかけて、閉じる。開けば説明になる。閉じれば保留になる。どちらも正しい顔を持つ。
「先生、引退って」
ユノは一歩踏み込むように問いを置いた。問いは角がある。角を持ったまま、相手の前に置けば、誰かが指を切る。だからできるだけ、角を手で隠して渡す。
「……戻る、ことなんですよね」
灰野はゆっくりと息を吸った。胸の内側が動く。答えは簡単だ。簡単な答えは、誰かを守ることがある。守られる側がそれを望むかどうかは、また別の話だ。
「制度上は、そうなっている」
やわらかい言い方だった。「なっている」。誰が、の主語を抜いた。主語を抜けば、言葉は空気に混ざる。
「本人も、そう言ってた。『良好です』って」
「……ユノ」
灰野は言いかけ、言葉を噛み直した。舌の上に乗った文が、重すぎたのだろう。重いものは、落ちる音を立てる。
「見間違いかもしれない。あるいは、式の後で会えば、気持ちの整理がつかなくて、いつもと違って見えることもある」
「そうかもしれません」
ユノは頷いた。頷く動作は、相手の責任を軽くする。軽くすることで、受け取りがちょうどよくなる。ちょうどよさの中に、真実のかけらが入っていれば、なお良い。
「……ただ」
声が少し低くなる。低い声は、床に近い。
「彼女の『おかえりなさい』が、店の言い方じゃなかった。誰かが、わたしを、帰る場所に呼ぶみたいに」
言葉にしてみると、ますます説明にならなかった。説明にならないものほど、肉体に残る。灰野は目を閉じ、開いた。薄い皺が増え、光が一つ、そこに沈む。
「……わかった」
彼は端末を閉じた。閉じる音が、小さく硬い。
「今は、忘れろ」
忘れろ。
ユノはその語を、耳の奥で何回か裏返す。忘れるは動詞だ。動詞は、身体がやる。身体は、命令で動かない。命令で動かないものに命令するのは、優しさのふりをした暴力になる。灰野がそのことを知らないはずがなかった。知っていて、なお、そう言った。
「先生は、見ましたか」
ユノが問うと、灰野は少しだけ顔を背けた。顔を背ける動作は、答えだ。
「……何も見ていない」
嘘ではない。
見ない、という動詞は、現実の一部を加工する。加工された現実は、誰かの胃の中で長く滞留する。灰野の喉仏が、ひとつ上下した。彼は言葉を継がず、代わりにユノの肩に、手を置こうとして、やめた。やめる、という動作が、触れるより多くを伝えると知っている人のやめ方だった。
*
灰野はその日の深夜、誰もいない資料室へ降りた。鍵は認証で開き、空気は古い紙の匂いを残していた。紙は嘘を吸う。吸って、黄色くなる。古い機密文書の背表紙が、列になってこちらを向いている。顔のない人々が、静かに並んでいるみたいだ。
端末を端に置き、内線の電源を切る。カメラの死角を作るために、立ち位置を少しずつ変える。どこに目があるか知っているのは、目に晒される仕事を長くやってきた証拠だ。
灰野はファイル名をいくつか打ち、すぐに打ち直した。直接的な言葉は、警告をよび、警告は、誰かの足音を呼ぶ。
間接路。隠語。符牒。
押下。
表示。
画面に、記号が現れ、次に灰色の文が現れ、最後に黒が浮き上がる。
――〈被験個体No.014:リオ・フェリス〉
状態:安定稼働中
行動ログ:市内商店勤務(第三区アーケード内店舗)
応答パターン:標準応答セットβ
灰野の喉が、音を立てずに細く狭まった。
稼働。
状態の欄に相応しくない単語が、そこにあった。
彼はスクロールし、付記を読む。
――「標準応答セットβ」:新規生活環境下における適応アルゴリズム。社会的役割言語の選択負荷低減と、観察対象(周囲個体)への違和感抑制を主目的とする。
長い言葉の列が、そのまま胃に降りて、胃の壁を擦った。
違和感抑制。
それは薬の名のように聞こえる。違和感は病か。病だとしたら、誰が病むのか。見ている側か、見られている側か。
灰野は指先に力を入れて、スクロールを止めた。画面の下に小さなタブが並び、そのひとつに、赤い印が点いている。「保守」。開く。眼球が乾く前に、文字が、静かに現れる。
――保守:第三区店舗稼働個体014における応答遅延〈微小〉を確認。調整済。
微小。
微小は、いつだって最初に書かれる。最初に書かれて、最後に消えない。
灰野は画面を閉じ、目を押さえ、天井の蛍光灯を数えた。数は、嘘をつかない。数は、安定を運ぶ。しかし今夜は、数も、吐き気を止めない。
立ち上がり、棚の影に身を寄せる。影は厚さを持ち、胸の前に空間をつくる。彼はそこで小さく息を吐き、独り言のようにつぶやいた。
「……戻れる、のか」
戻る、という動詞の始まりの位置が、彼の中で動いた。始まりが動くと、終わりも動く。線で結ばれている。線を切ると、線自体がこちらへ絡みついてくる。
*
ユノはその夜、眠りに落ちる前のわずかな宙に吊られていた。
意識の表面に、細かな泡が上がってきて、それが弾ける音が、耳の芯で鳴る。泡のひとつひとつに、小さい誰かの声が入っている。たぶん、昼間聞いた言葉たちだ。
――良好です。
――おかえりなさい。
――忘れろ。
泡が弾け、音が消え、次の泡が上がる。やがて泡は泡であることをやめ、光の粒に変わる。粒は重力を持ち、湖の底へと降りていく。
湖が現れた。
夢の中の湖面は、今夜だけ、はっきりと輪郭を保っている。縁のない黒い鏡。風がないのに、表面が波立つ。波立ち方は、遠くで誰かが息をしているリズムに似ている。
ユノは湖の手前に立っている。足の裏が冷たい。靴を履いているのに、足の形が水に触れてしまう。
水面の向こう側に、もう一人のリオが立っていた。
昼間見た花屋の彼女と同じ髪、同じ姿勢、同じ手。
ただ、ここでは、彼女の目がわずかに揺れている。ピントが、波に合わせて短く震える。
ユノは呼吸を整え、声を作った。声は小さく、湖の上で丸くなる。
「リオ」
湖の向こうの彼女が、頷く。
頷きは、遅い。遅いから、信じられる。速い頷きは、演技のリズムに乗る。遅い頷きは、身体が導かれる。
ユノは一歩踏み出そうとして、止まる。湖は踏み石を隠す。足場がどこにも見えない世界で、前進は落下に変わりやすい。
「……戻れた?」
問いは、違う単語に置き換わって口から出た。生きてる、ではない。戻れた、だ。戻る、は誰かの期待の形をしている。期待の形をしているものは、崩れると、期待した側を怪我させる。
湖の向こうの彼女は、首を少し傾けた。
傾ける、は花屋で見なかった動きだった。
そこに、体温のある迷いが宿る。
彼女は唇を動かした。音が出る前に、言葉が形になる。形だけが、風に乗る。
《……わたし、ちゃんと……戻ってるつもり》
つもり。
その最後の二音が、湖面で少し重く沈んだ。沈んだまま、ゆっくり回転する。
ユノは胸の前で指を組んだ。指の骨が触れ合う音が、小さく鳴る。わたしの音、だ。誰にも聞こえない種類の音。
湖のこちら側の風景の中で、背後に気配がした。
振り返ると、霧の奥に白い影がひとつ立っている。輪郭は柔らかく、目だけがはっきりしている。セリア、と呼べばいいのかもしれない。呼ばない。呼ばないことが、ここでは礼儀のように思えた。
白い影は、一歩だけ近づき、ユノと湖の間に、見えない橋の端をそっと置いた。
橋は、目に見えない。
でも、橋が置かれる音がする。
細い金属の触れ合う音。
鍵の音に似ている。
ユノは一歩、進んだ。
足が沈まない。
湖面の上に、薄い膜が伸びている。
膜は破れやすい。破れやすい膜を渡るとき、人は歩き方を変える。
リオの前に立つ距離まで、たどり着いた。
手を伸ばす。
触れない。
触れない、が、触れたときよりも多くを伝えることがある。空気が、指の形に合わせて震える。震えが、彼女の頬へ届く。頬の上の影が、わずかに揺れる。
《ユノ》
名前は、距離を縮める。
呼ばれながら、ユノは目を細めた。目の裏に、街灯の冷たさと、花紙のざらつきが交互に映る。
世界の表面が、皮膚の裏まで入り込んでくる。
《お願いが、あるの》
彼女は言った。声は、風よりも薄く、でも、水よりも重い。
《わたしを、見て。時々でいいから。見に来て。わたしが、ちゃんと、戻ってるつもりでいる間に》
ユノは頷いた。頷きは遅く、確かだ。
見に行く、は、行為の約束で、救済の約束ではない。
救済の約束は、ここでは軽すぎる。軽い約束は、足場になる前に、風で飛ぶ。
見に行く、ならできる。できることなら、失敗の方法も知っている。失敗の方法があるほうが、怖くない。
白い影が、橋を少しだけ持ち上げた。
橋が鳴る。
鍵のような音。
その音だけを合図に、景色が、ゆっくり、薄く、ほどけていった。
リオの輪郭が湖へ溶け、ユノの足元の膜が、波に代わり、ユノは自分の部屋の硬い床へ戻る。
目を開ける。
天井のスリット。
カーテンの隙間の街灯。
胸の上に置いた鍵。
鍵は、静かだった。静かでいることを、自分で選んでいる静かさだった。
*
灰野は資料室から出る前に、もう一人の男の気配を感じた。
振り返ると、扉の影にシロウ・エガワが寄りかかっている。
彼は拍手をしなかった。拍手に似た顔もしなかった。
ただ、淡い笑みを貼る。笑顔を貼るのに使う糊は、彼のポケットから減らない。
「夜更けに古文書、風流ですね」
「……ここはあなたの持ち物ではない」
「誰の持ち物でもないですよ。所有者は名義が多すぎると、薄まって見えなくなる。あなたも知っているでしょう」
灰野は返事をせず、彼の横を通り過ぎようとした。肩が触れる。硬い。人間の肩は、もっと柔らかいはずだ。
シロウが小さく言う。
「ユノ・アマツキ。監視レベルを引き上げます」
「誰の命令だ」
「命令はいつだって、集合名詞です」
集合名詞は責任の背に羽を生やす。羽の生えた責任は、隙間から逃げる。
灰野は足を止め、振り返らずに言った。
「彼女に“希望”を見せるな、と言いましたね」
「ええ。希望は時に暴発しますから」
「あなたたちこそ、希望を必要としているくせに」
シロウは笑わないまま、唇の端を少しだけ動かした。
「だからこそ、量を管理する。配給と同じです」
管理。
配給。
言い慣れた言葉。
言い慣れた言葉は、刃を鈍くする。鈍い刃は、長く人を傷つけ続ける。
灰野は歩き出し、階段の途中で一度だけ立ち止まった。胸の奥で、眠っていた怒りが、背骨に沿って目を覚ます。怒りは、正しい方向を持たないと、すぐに燃え尽きる。正しい方向は、紙の上では定規で引けるのに、現実では風が吹く。
*
翌朝、ユノは花屋の前に立った。
開店前の空気は、冷蔵庫の中のように密度が高い。シャッターの隙間から朝の光がこぼれ、塵を均一に照らす。
店の裏手から小さな足音。
エプロンの紐を結びながら、リオが現れる。
視線が合う。
今度は、ピントがわずかに揺れた。
ユノは胸の中で、小さく息を吐く。
「おはよう」
「おはようございます」
今朝のリオは、「良好です」を言わなかった。
言わない、は変化だ。
変化は、裂け目の中から生まれる。裂け目を怖がっているうちは、変化は来ない。
「昨日、ありがとう」
ユノが言うと、リオは首を傾けた。
傾ける。
傾げる角度が、昨夜の湖と同じだ。
夢と現実の角度が一致する。
それは、怖い。
それは、嬉しい。
「今日も、買っていく?」
「うん。カスミソウ、昨日のと同じの」
「かしこまりました」
包む手つき。紙の音はやはり鳴らない。
ユノはふと、店先のカード立てに目をやった。小さな名札が並ぶ。
その隅に、薄いカードが一枚、裏返しになって挟まっている。癖の強い裏面の紙。風でめくれ、表が見える。
〈新生活応援・標準セットβ〉
小さな文字で、花束の組み合わせ例が書かれていた。
“標準”という語に、指先の皮膚が反応する。
ユノはカードから視線を外し、リオの手元を見る。
手は美しい。動きは美しい。
美しいものの中に、痛みは隠れやすい。
痛みを隠すために美しいのか、美しいから痛みが見えないのか。
受け取った花束は、昨日より軽かった。
軽くなったのは、気のせいかもしれない。
気のせいでも、身体は覚える。
ユノはうなずき、何も言わずに店を離れた。言葉は今朝、重すぎた。
*
昼の講義の最中、ユノの端末に短い通知が届いた。
〈特別課程・午後より個別訓練へ移行〉
文面は乾いている。乾いた文面は、感情の吸水性が高い。読み手の中の水分を奪って、紙のようにする。
ユノは目を閉じ、呼吸を数えてから席を立った。
廊下を歩く。
角に、新しいカメラ。
レンズに自分の瞳が映る。
瞳の中に、レンズが映る。
映り込みの往復。
世界は、自己相似の箱庭になっていく。
訓練室のドアの前で、一度だけ足を止めた。
あの湖の、膜の感触が足裏に戻ってくる。
ユノは自分の靴紐を結び直し、リリースコードの輪に指を通して、そっと回した。
鍵は鳴らない。
鳴らないことが、今は合図だった。
扉が開く。
光が、刃物のようにまっすぐ降りてくる。
そのまっすぐの中で、ユノは一歩、入った。
*
夜更け、灰野は再び資料室へ降りた。
扉の前で立ち止まり、手をポケットに入れて、拳を握る。
指の節が、骨の輪郭を確かめる。
扉が開く。
今夜は、光の色が昨日より冷たい。
端末を接続し、昨日のファイルを開く。
ログが追加されていた。
〈被験個体No.014:リオ・フェリス〉
状態:安定稼働中/微小揺らぎ検知(要観察)
備考:観察対象0147による接触(視認)履歴を追記。影響度、閾値内。
0147。
ユノの識別番号。
接触。影響度、閾値内。
灰野は額に指を当て、目を閉じた。
閾値内、という言葉は、祈りの形に似ている。
祈りは、数値に変換されると、別のものになる。
彼は短く息を吐き、画面を閉じた。
閉じたスクリーンの黒に、自分の顔が映る。
その顔を、彼は好きでも嫌いでもない。
好きでも嫌いでもない顔で、彼は階段を上がった。
上がりながら、心のどこかで決めた。
――見届ける。
ただ、それだけを、今は選ぶ。
選ぶことだけが、まだ許されている。
*
ベッドの上、ユノは鍵を胸に置いたまま、横向きに眠りに落ちた。
眠りの薄皮の向こうで、湖は今夜も呼吸している。
白い影は、遠くに立っている。
距離は変わらないようで、少しずつ縮む。
縮む速度は、数字にならない。
数字にならないものの方が、信じられる夜もある。
ユノは夢の中で、口の形だけ「またね」と作った。
声は出ない。
出さない。
その静けさの中に、返されない返事が、確かにあった。
それで十分だと、身体のどこかが、頷いた。




