第95話 最終章・小悪魔会議
放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
神楽と真凛は撮影で、雅と葵もアニメの声優の件で早々に帰宅した。気がつけば、僕は一人だった。いつもなら、それが当たり前で特に気にも留めないのに、今日は少しだけ寂しさを感じる。
屋上での出来事が、何度も頭を巡る。
——「三人の約束が偽りだった」
小夏ちゃんの言葉が、心に小さな波紋を広げる。
瑞樹が何かを知っている。彼の言葉も、小夏ちゃんの態度も、どこか繋がっているように思えるのに、神楽と真凛が来たせいで、肝心な部分を聞き逃してしまった。あの言葉が事実とは思えない、思えないけど……。
考えたところで答えが出るわけじゃない。
それでも、どうしても気になってしまう。
小さく息を吐いて、帰ろうと歩き出す。今日はあまり考えすぎないほうがいい。そう自分に言い聞かせながら校門を抜けた瞬間——。
「啓先輩、さきほどはどうも。ちょっと付き合ってもらえますか?」
その声に、足が止まる。
振り向くと、そこには小夏ちゃんがいた。ツインテールに結んだ髪が風に揺れ、大きな瞳がじっとこちらを見つめている。可愛らしい装いと愛嬌のある笑顔——だけど、その裏にあるものを、僕はまだ読み取れずにいる。
「……今度は何の話?」
なるべく穏やかに聞き返す。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。ただ、少しお話したいだけですから。」
小夏ちゃんは軽く肩をすくめながら、後ろへと視線を向ける。すると、その後ろから、もう一人の人物が現れた。彼女は小柄で、見慣れないデザインの学生服を着ていた。髪型は小夏ちゃんとお揃いで、軽く巻かれたツインテール。笑うと糸目になるのが特徴的で、無邪気な笑顔を浮かべながらも、その表情の奥には何を考えているのかわからない曖昧さがあった。
「あんたが啓にいさん? うちのバカ兄貴がお世話になりました。幸田昴の妹、幸田早苗です~」
軽快な関西弁が弾むように響く。その口調はどこか人懐っこいが、軽薄さの裏に本心を隠しているようにも思えた。
僕は一瞬、相手の顔を見てから、その言葉を反芻し、思わず息を呑む。
——幸田昴。
その名前が示すものは、決していい記憶ではない。
彼は真凛と神楽を脅し、歪んだ欲望のままに手を出そうとした男。
僕たちはハニートラップを仕掛け、彼の本性を暴き、社会的に抹殺した。
その妹が、今、目の前にいる。
「……」
自然と、肩に力が入る。
僕の警戒心を感じ取ったのか、早苗はクスクスと笑った。
「ああ、心配せんでええよ。うちとバカ兄貴、仲良しやったわけちゃうし、そないに警戒せんでもええんちゃう?」
その軽い調子に、一瞬肩の力が抜けそうになるが、すぐに警戒心が戻る。
「むしろ、ようやく逮捕されてスッキリしたわ~。ホンマ、うちも『ざまぁみろ』って言いたいぐらいやねん」
——この子は一体何者なんだろう。ただの陽気な子に見えるけれど、その言葉の端々にどこか掴みきれないものがある。
僕の中の疑念を見透かしたように、早苗は楽しげに笑う。
小夏ちゃんが、そんな僕の様子をちらりと見て、ふっと息をついた。
「ボケッとしてないで、さっさと行きますよ」
先を歩いていた小夏ちゃんちゃんが立ち止まり、僕と早苗を促す。
「了解~」
早苗は軽快に返事し、小夏ちゃんの後をついていく。
僕は少しだけ考え込む。
——ついていくべきじゃない。
こんなものに関わるべきじゃない。
けれど、小夏ちゃんは何を知っているのか。
瑞樹のこと、三人の約束のこと。
そして、僕に何をさせようとしているのか。
考えても答えは出ない。
それなら——。
知るしかない。
静かに息を整え、僕は二人の後を追った。
――喫茶店の扉をくぐると、ほんのりとしたコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「ここで少し休憩しましょう」
小夏ちゃんが足を止め、扉を押しながら微笑みかける。僕はまだ彼女の意図を掴みかねていたが、断る理由もないまま、そのまま後をついていった。
「うち、甘いもん食べたいしちょうどええわ」
早苗が軽く笑いながら言い、先に店内へ入る。
店内は落ち着いた雰囲気で、客はまばらだった。三人掛けのテーブルに案内され、僕は静かに座る。目の前の二人はメニューを手に取り、気軽に注文を決めていた。
「何頼むん?」
早苗が軽く僕に問いかけるが、僕はまだ店に落ち着けず、なんとなく周囲を見渡す。何か仕掛けられているわけじゃない、そう分かっているのに、やはり警戒してしまう。
そんな僕をよそに、小夏ちゃんがメニューを閉じ、軽く手を組んだ。
「改めて、先輩には協力してもらいたいことがあります」
話が始まった。僕は徐に顔を上げ、彼女の視線を正面から受け止めた。
「先輩は、本当に知らなくていいんですか?」
少し考えてから、僕は慎重に答える。
「……まだ、話を聞くだけなら」
小夏ちゃんは満足そうに微笑み、テーブルに肘をつく。
「先輩、入院している間、瑞樹さんって人と会いましたよね?」
「う……うん」
「そのとき、何か言われませんでした?」
僕は一瞬思い出しながら、言葉を選ぶ。
「『今度こそ、誰も失わずに済むといいですね』って……」
小夏ちゃんはふっと微笑みながら、目を伏せた。
「……やっぱり」
「やっぱりって……?」
小夏ちゃんは答えない。
「先輩、私たちの手を借りれば、啓先輩が知りたがってる真実に、たどり着けるかもしれませんよ?」
その言葉に、僕は再び迷う。
「僕は……。」
早苗がくすっと笑う。
「ほらほら、そんなに悩まんでもええやん?」
けれど、僕は簡単に頷けなかった。
そんな僕を見て、小夏ちゃんが口元を歪ませた。
「鈴……彼女が何者か、知りたくないんですか?」
心臓がざわざわとしだす。
「彼女……?」
僕はゆっくりと口を開いた。
「……じゃあ、やっぱり君は鈴ちゃんじゃないんだね?鈴ちゃんは……鈴ちゃんはどうして亡くなったの?」
一瞬だけ、小夏ちゃんの表情が揺れた。
けれど、それはすぐに消え、彼女は楽しげに微笑む。
「おや、もうそこまで知ってたんですか。意外でした」
まるで僕の反応を試しているかのような態度だった。
小夏ちゃんが人差し指を唇に当てながら、くすっと笑う。
「ここから先は、ギブアンドテイクですよ、先輩……」
小さく息を吐きながら、僕は頷く。
「分かったよ、僕は何をすればいいの?」
その瞬間、早苗が手を叩いて笑った。
「おっ、やる気になったやん!兄さんの男前上がったで~!」
小夏ちゃんはくすくすと笑いながら、僕を見つめる。
「いいですね~、従順な先輩、私嫌いじゃないですよ? ふふ……」
早苗がすかさずツッコミを入れる。
「おお~、こなっちゃんもときめいとるやん!」
小夏ちゃんが指先でカップの縁をなぞりながら静かに息をつく。
「私を、雅先輩に会わせてください」
僕は思わず息を呑んだ。予想外の言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。
「雅に?」
「はい、私伍代の件で雅先輩には嫌われちゃってるんで……先輩にはその仲介役を頼みたいんですよ~?」
迷いが胸の奥で絡まり、ほどけないまま膨らんでいく。雅の顔が頭をよぎる。彼女が感じた恐怖、あの時の震えを思い出すと、簡単に首を縦に振ることはできなかった。
だが、考える間もなく、突然、別の声が割り込んできた。
「何ですか~?秘密の会談ですか~?」
軽やかで、どこか楽しげな声が響く。
僕は驚いて顔を上げると、ソファー越しに身を乗り出した姿があった。
――蘭子!?
ポニーテールを揺らしながら、ソファーの背もたれに肘をつき、ニヤリと笑っている。その視線は悪戯っぽく、獲物を狙う猫のようだった。
「いや~、面白そうな話してるじゃないですか~?」
甘ったるい声とともに、蘭子は顎に手を添えてこちらをじっと見つめる。
「何やら楽しそうな取引の話でもしてました~?」
僕が言葉を失っていると、早苗が即座にツッコんだ。
「だ、誰やねん!?どっから湧いてきたんや!?」