第94話 最終章・交わされた甘い契約
振り向いた瞬間、その姿が目に飛び込んできた。
「……小夏ちゃん?」
思わず名前を口にする。
冷たい風が吹き抜ける屋上。その風の中で、小夏ちゃんは静かに立っていた。
まるで僕が振り向くのを待っていたかのように。
彼女はいつものように柔らかく微笑んでいた。けれど、その姿に違和感を覚える。
小夏ちゃんがこうして学校にいるのを見るのは、随分と久しぶりだった。
事件以来、彼女はずっと姿を見せていなかった。怪我をしていたわけでもないのに、学校を休んでいた理由は誰も知らない。僕も、正直考えないようにしていた。
それなのに、まるで何事もなかったかのように、今、目の前にいる。
警戒心が胸の奥をじわじわと侵食していく。僕にとって小夏ちゃんは、つい最近まで伍代や鷹松と関わりがあった危険な存在だった。そして——彼女が本当に鈴ちゃんだったのか、それとも別人なのか。それを考えるだけで、胸の奥がざわついた。
「どうしてここに?」
慎重に問いかけると、小夏ちゃんはいたずらっぽく微笑んだ。
「ずっと、啓先輩が一人になるのを待ってたんです」
「……待ってた?」
小夏ちゃんはくるりと回るように軽く動き、屋上の端へと歩いていく。その仕草はどこか気楽そうに見えたが、僕の目にはそれが虚勢のように映った。
「……待ってたって、どういうこと?」
なるべく感情を押し殺して尋ねると、小夏ちゃんは手すりにもたれかかりながら、僕をじっと見つめた。
「ねえ、病院にいた時、何か気になることありませんでした?」
「気になること?」
「そう、何か違和感があったとか、変なことを言われたとか……」
小夏ちゃんが意味ありげに微笑む。その表情に、なぜか胸の奥がざわついた。
「……そういえば、病室に来た人がいたかな。何か妙に僕のことを知ってる感じで……」
「たぶん、知ってる人じゃない?」
その名前を小夏ちゃんが静かに口にした瞬間、心臓が跳ねた。
瑞樹さん。雅の従妹。入院していた時に病室へ訪ねてきて、妙に僕たちのことを知っていた男。
「……誰のことを言ってる?」
僕の反応を楽しむかのように、小夏ちゃんは口元をわずかに歪めた。
「やっぱり、会ってたんですね」
ぞわりと、背筋を冷たいものが駆け抜ける。
この話題を避けたいわけじゃない。でも、小夏ちゃんの口ぶりが、まるで答えをすでに知っているかのようで——。
「知ってるんだね。瑞樹さんが、何だっていうの……?」
小夏ちゃんは僕の目をじっと見つめ、わずかに声を潜めた。
「……あの人は、私にとって“本当に大事な人”を奪った男です」
言葉の意味をすぐには理解できなかった。
でも、その瞳の奥に浮かぶ影を見た瞬間、何かが引っかかった。
「啓先輩、あなたはまだ何も知らない。でも、知るべきことがある……」
「……知るべきこと?」
「そう。あなたが知ろうとしないなら、私はもう何も言わない。……でも、知りたくないですか? あの時交わした三人の約束が、偽りだったってことを……」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
知りたくないはずがなかった。
あの日、僕たちが信じて守り続けてきた約束。
でも、小夏ちゃんの言葉は、まるで何かを知っているかのようだった。
僕が信じてきたものとは、違う何かがあるとでもいうように——。
瑞樹さんの意味深な言葉、『今度こそ、誰も失わずに済むといいですね……』。
あの一言が、ずっと心に引っかかっていた。瑞樹さんは、何を知っているのか。何を伝えたかったのか。
でも、それだけじゃない。小夏ちゃんはなぜ、今それを僕に問いかけるのか。
そして『奪われた』 『偽りだった』と言った、その意味は——?
まるで、彼女自身の中で決着のついていない何かを、僕にぶつけようとしているようだった。
「今だけ休戦しません?そして……協力して欲しいんですよ」
小夏ちゃんの声が、静かに屋上の風に溶ける。
「私とあなた、お互いのために」
この誘いに乗るべきじゃない。そう思うべきなのに——。
「……何をすればいいの?」
気づけば、僕はそう口にしていた。
小夏ちゃんは、ゆっくりと微笑んだ。
ただ、それはいつものような軽い笑みではなく。
どこか、寂しそうな笑みだった。
——その時。
屋上の扉の方から声がした。
「啓!」
鋭い声とともに、足音がこちらへと近づいてくる。
振り向くと、神楽と真凛が息を弾ませながら屋上へ駆け上がってきていた。
「……え?」
二人は僕の姿を見て、それからすぐに隣に立つ小夏ちゃんへと視線を移した。
予想外の相手だったのか、神楽と真凛は明らかに戸惑っている。
「誰……?」
真凛が怪訝そうに眉をひそめた。
状況を把握しようとする二人の前で、小夏ちゃんは小さく微笑む。
「……ふふっ」
まるで、この状況を楽しんでいるかのように。
次の瞬間、小夏ちゃんはポケットに手を入れ、何かを取り出した。
それは——小さくラッピングされたチョコレート。
「はい、啓先輩」
さらりと言いながら、小夏ちゃんは僕の手のひらにチョコを乗せた。
「……え?」
突然のことに、僕は戸惑いしかできない。
それを見た神楽と真凛の表情が一変する。
「……っ!」
二人とも目を見開き、言葉を失っている。
小夏ちゃんはそんな彼女たちを一瞥し、にこっと微笑んだ。
「それじゃあ、私はこれで」
そう言って、神楽と真凛に向かってぺこりと丁寧に頭を下げる。
二人の視線が小夏ちゃんに注がれる。その場の空気が張り詰める中、小夏ちゃんは何もなかったかのように、静かにくるりと背を向けた。
そして、一瞬だけ僕に視線を向ける。
「じゃあね、啓先輩」
さらりとした言葉を残し、そのまま屋上の扉へ向かって歩いていった。
——取り残された僕たち。
「……神楽? 真凛?」
僕は二人の方を見て声をかける。
しかし——。
「……啓」
振り返った神楽と真凛の目には、怒りの色が宿っていた。
「ちょっと待って、誰ですかあの人!」
真凛の語気が強まる。
「どういうこと? なんであの子が啓にチョコを渡してんの?」
神楽もまた、信じられないといった表情で僕を見ている。
「いや、違うんだ……っ」
何かを言い訳しようとするが、二人の視線は鋭く、僕の言葉を遮るように迫ってくる。
冷たい風が吹き抜ける中、僕はただ、二人の怒りを正面から受け止めるしかなかった——。




