第93話 最終章・甘くて、苦い日
朝の教室は、いつも以上にざわついていた。まだホームルームが始まる前の時間、生徒たちは思い思いに会話を楽しみ、教室の空気はどこか浮ついている。何の話をしているのか、耳を傾ければすぐに分かった。
「お前、誰かにチョコもらえそうなの?」
「う~ん、ワンチャンあるかも?」
「マジかよ!いいなぁ!」
あちこちで交わされるバレンタインの話題。それを聞きながら、僕は自分の席に座り、カバンから教科書を取り出した。いつも通り机にしまい、授業の準備を整える。だけど、頭の片隅で、じわじわと何かが引っかかる。
……そうか、今日ってバレンタインだったんだ。
昨日までは特に意識していなかった。でも、最近は真凛と神楽に加え、雅と葵とも少しずつ距離が縮まっている気がしていた。だからこそ、もしかしたら……という淡い期待を、どこかで抱いてしまっていたのかもしれない。
いや、でも、だからといってもらえるとは……。
自分の気持ちを誤魔化すように、そっとため息をついた。けれど、その時——。
「おはよう」
教室の入り口から、雅と葵の元気な声が響いた。二人は友人たちに軽く挨拶を交わしながら入ってくる。けれど、彼女たちはすぐに自分の席へ向かうことはなかった。
まっすぐ、僕の元へと歩いてくる。
えっ……?
その瞬間、教室の空気が変わるのを感じた。周囲の会話が一瞬止まり、誰もがこちらに注目しているのが分かる。雅と葵の二人が、まっすぐ僕の机へ向かっていることが、どれほど目立つ行動か。いや、そんなことより——。
雅が、小さく息を整えながら、カバンから何かを取り出した。
それは、可愛らしいリボンでラッピングされた、小さな箱。
「これ……その……バレンタインだから」
顔を赤らめながら、雅はそっと僕の机の上に置いた。
「私も……受け取って。わ、私も雅も、ぎ、義理とかじゃないから!」
葵もまた、頬を染めながら、同じようにラッピングされた箱を取り出し、机の上に並べた。
え……え……!?
頭が追いつかない。心臓がうるさいほどに跳ねる。周囲の視線が突き刺さる。信じられない光景に、僕はただ目を見開くばかりだった。
雅と葵は、恥ずかしそうにモジモジしながらも、ほんの少しだけ僕を見つめて——。
「……じゃあね!」
次の瞬間、二人は逃げるように自分の席へと戻っていった。
その場に取り残された僕は、手元に並べられた二つの箱を見つめる。
これ、本当に……僕に?
戸惑いのまま手を伸ばそうとした瞬間、肩にぐいっと力強い腕が絡んできた。
「お前なんであの二人からチョコもらってんだよ!!」
「え!?どういうこと!?お前、雅ちゃんと葵ちゃん、どっちかと付き合ってんのか!?」
「くっそ羨ましいんだけど!!」
男子たちがワラワラと僕の机に集まり、肩を揺さぶられ、騒ぎ立てる。まるで何かの事件でも起こったかのように、教室中がざわついていた。
「ちょ、ちょっと待って、違う、違うから!」
必死に否定しようとしても、男子たちは全く聞いてくれない。
「えー、でも二人とも顔赤かったし、義理じゃないって言ってたぞ?」
「マジかよ……この世の不公平さを実感したわ……」
「お前さぁ、どっち選ぶの?」
「選ぶとかじゃないから!!」
もう無理だ。顔が熱い。何を言っても誤解が広がるばかりだ。
「はいはい、騒ぐな!席につけ!」
チャイムが鳴り、先生が教室に入ってくる。その声に、ようやく男子たちは渋々自分の席へ戻っていく。
僕はため息をつきながら、机の上のチョコをそっとカバンの中へしまった。
——本当に、もらっちゃったんだ。
雅と葵が、僕に。
動揺を押し込めようとしても、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。
先生の話が始まる。でも、僕の意識は、カバンの中にある二つの箱から離れることはなかった。
授業が進んでも、頭の中はさっきの出来事でいっぱいだった。ノートを開いても、ペンを握っても、気が付けば考えているのは雅と葵のこと。まさか二人から本命のチョコをもらうなんて思ってもみなかった。周囲の視線もまだどこかチラチラと僕に向いている気がして、落ち着かない。
気づけば授業は終わり、昼休みのチャイムが鳴る。僕は深く息をついた。
そんな時——。
教室のドアが開き、遅れて登校してきた真凛と神楽が姿を見せた。二人は自然に僕の方へ視線を向け、何かを言いたげな表情を浮かべている。
——まさか、この二人も……?
周囲の空気が変わる。男子たちがそわそわし始めるのが分かった。香坂真凛と篠宮神楽——人気のある二人が、しかもバレンタインの日に登校してきたのだから、無理もない。
その場の期待を裏切らないかのように、真凛が微笑みながらカバンの中を探り、小さな包みを取り出した。
「はい、チョコです、どうぞ」
満面の笑みで、教室の男子たちに次々とチョコを配り始める。
「うおおっ!香坂さんからチョコ……!か、家宝にします!」
チョコを受け取った男子の一人が歓喜の声を上げる。しかし、それも束の間——。
「義理チョコです」
真凛がさらりと言い放つと、その男子の表情が一気に曇る。
「くっ……!」
周りの男子たちも、同じように喜んでから絶望する者が続出した。中には「まあ、もらえただけでも……!」と前向きに受け止める者もいたが、大半はむせび泣くような表情を浮かべていた。
その一方で、真凛は女の子たちにもチョコを渡していた。
「わ~、ありがとうございます!」
女子生徒たちは純粋に喜び、笑顔で受け取る。対して男子たちは落胆しきっていた。
そんな彼らの嘆きをよそに、真凛は軽やかに配り終えた。僕の方を見たかと思ったが、それ以上何かする様子はない。
そして、神楽もまた僕と一瞬目が合ったが、特に何事もなかった。
……はは、自意識過剰過ぎたかな。
そんなことを考えていた時、ポケットの中で携帯が振動した。
メッセージ通知。
画面を見ると、送信者は——神楽だった。
『西棟の屋上に来て』
胸の奥がざわつく。驚きと、わずかな期待が入り混じる。
……え?
戸惑いながら顔を上げると、神楽と目が合った。彼女は、周囲に気づかれないようにこっそりと僕にウインクをしてみせる。
ひょっとして——。
考えるより先に、僕はそっと席を立った。あまり目立たないように教室を抜け出し、西棟へと向かう。
階段を上がり、屋上へと続く扉の前で一度立ち止まる。心臓が妙に騒がしい。手を伸ばし、そっと扉を開けた。
冷たい風が吹き抜け、制服の裾を揺らす。足を踏み出し、ゆっくりと進む。
視界には広がる青空と、遠くに見える校舎の屋根。まだ誰もいない屋上は静かで、昼のざわめきとは別世界のようだった。
手すりのそばまで歩き、金属の冷たさを感じながら深呼吸をする。冬の空気が頬を冷やした。
微かな足音が響き、屋上の静寂が破られる。
その時——。
背後で扉が軋む音がした。
瞬間、心臓が跳ねる。
神楽だろうか?それとも——。
期待と不安が入り混じる中、僕は振り返った。
そして。
扉の向こうに立っていたのは——。
「小夏……ちゃん?」
信じられなかった。まさか、ここで彼女と再会するなんて。確か雅たちの話しによると、彼女はずっと学校を休んでいたはず……。
久々に見るその姿——それなのに、彼女はまるで何事もなかったかのように涼しげな笑みを浮かべていた。
喉が一瞬、強ばる。何か言葉を発しようとしたが、思うように声が出なかった。
小夏はそんな僕を見つめたまま、一歩、また一歩と近づいてくる。
「久しぶりですね、啓先輩……」
風に揺れる髪、冷たい空気の中でも変わらないその表情。その瞳の奥に何を秘めているのか——僕にはまだ分からなかった。




