第90話 秘密の姉妹
タワーマンションのエントランスをくぐった瞬間、葵が「うわっ……」と息をのんだ。広々としたロビーはホテルのように洗練され、大理石の床が足音を吸収する。間接照明の光が落ち着いた雰囲気を演出し、受付にはスーツを着たコンシェルジュが控えていた。
「すっご…こんなとこ、本当に住める人いるんだね……」
葵がキョロキョロと辺りを見回し、エントランスのシャンデリアに目を奪われる。雅も少し驚いたように周囲を見渡しながら、「……住む世界が違うわね」と小さく呟いた。
そんな中、蘭子が淡々とした口調でぽつりと呟く。
「やっぱり、いるところにはいるんですよねぇ……こういう暮らしを平然と営む人って……」
その皮肉めいた言葉に、神楽がくるりと振り返る。
「何よ蘭子、何か言いたいことでもあるの?」
「いえいえ、ただの感想です。清貧の中に生きる庶民には、なかなか体験できない世界観だなぁと」
「いちいち変な難癖つけてないで、さっさとエレベーターに乗る!」
神楽はため息をつきながら、皆をエレベーターへと促した。
今日、三人が神楽の家にお泊まりすることになったのは、来るバレンタインデーのためにチョコを作るためだった。実はこの中で料理が得意なのは真凛だけ。せっかくの機会だからと、みんな泊まりがけで真凛に教わることになったのだ。夜遅くまでかかるかもしれないし、だったら最初から泊まりにしてしまおう、という流れだった。
神楽の部屋に足を踏み入れた瞬間、再び葵が「ひえっ」と短く声を漏らした。広々としたリビングには、センスのいい家具が配置され、ガラス張りの窓からは都会の夜景が一望できる。間接照明の柔らかい光が落ち着いた雰囲気を醸し出し、まるで高級ホテルのスイートルームのようだった。
「マジか……本当にこんな部屋が存在するんだ……」
葵は呆然としながら、窓の外の景色に目を向ける。
「まあ、神楽ならこれくらい住んでてもおかしくはないけど……」と雅が小さく呟く。
「本当にねぇ。いやはや、平然とこんな暮らしをしている人が、身近にいたとは……」
蘭子が改めてしみじみとした様子で言うと、神楽は肩をすくめた。
「だから何?さっきからひがみにしか聞こえないんだけど?」
「まあまあ、違う文化に触れるのは良いことですよ。異文化交流ってやつですね」
「……言ってることがだんだんズレてるわよ」
呆れた様子の神楽だったが、すぐに場を仕切るように手を打った。
「とにかく、チョコを作るんでしょ?みんな、さっさとエプロンに着替えなさい!」
神楽がビシッと指示を出すと、真凛が微笑んだ。
「そうですね。時間も限られていますし、早速始めましょう」
雅と葵もそれぞれ自分のエプロンを取り出し、準備を整える。蘭子は少し面倒くさそうにしながらも、結局は素直に従った。
キッチンに立ち、いよいよチョコ作りが始まる。
「まずは基本のテンパリングからですね」と真凛が説明しながら、ボウルに刻んだチョコレートを入れ、湯せんにかける。
「テンパリング?」と葵が首を傾げる。
「チョコをきちんと溶かして、温度を調整する工程よ。これをしないと、綺麗な仕上がりにならないの」
「なるほど……地味にめんどくさいんだね」
葵がぼやきながらも、しぶしぶ作業を開始する。
「まあ、啓のためなんだから、気合い入れて頑張りましょう」と雅が淡々と湯せんの準備をする。
「みんなでやれば楽しいですよね」と蘭子が微笑む。
「そうね。まあ、私は啓が一番喜ぶチョコを作る自信があるけど!」
神楽が自信満々に言い放つと、すかさず真凛が反論した。
「それは私の役目だから」
「何言ってるの?私が一番啓を理解してるんだから、私のチョコが一番に決まってるじゃない」
「……そこは実際に食べてもらうまで分からないよね?」
二人がバチバチと火花を散らす横で、雅が「……こうなると思った」とぼそっと呟いた。
お菓子作りが進み、時間が経過していく。
「これ、意外と大変かも……」と葵が腕を回しながらぼやく。
「でも、みんなで作ると楽しいですよね」と蘭子が微笑む。
「それにしても、啓がどんな反応をするか楽しみだわ」と神楽が満足げに出来上がったチョコを眺めた。
その時――
「ただいま~」
玄関のドアが開く音がした。
「……え?」
雅、葵、蘭子、真凛が一斉に視線を向ける。
神楽も一瞬固まった後、慌てて声を上げる。
「え?お母さん!?なんで帰ってきたのよ!?」
神楽の声が響く中、彼女は慌てて玄関へ向かった。リビングに残された雅、葵、蘭子、そして真凛も、突然の来訪者に驚き、神楽の後を追うように立ち上がった。
玄関に立っていたのは、一人の女性だった。すらりとした長身に、艶やかなブリリアントブルーの髪色。洗練されたファッションに身を包み、その美貌は若々しく、とても一児の母親とは思えないほど。ぱっと見た印象は、まるで神楽が大人になった姿のようで、その雰囲気は気品と余裕に満ちている。
「もう、そんな言い方しなくてもいいじゃない?久しぶりね、神楽」
彼女――篠宮曜子は、微笑みながら娘の頬に手を添えた。
「いや、帰国するなら連絡くらいしなさいよ!」
神楽が不満げに言いながらも、曜子の手を振り払うことなく、そのまま見上げる。曜子はそんな神楽の様子を楽しむかのように微笑んでいた。
だが、次の瞬間、曜子の視線がふと真凛へと移った。
「真凛……元気にしていた?」
柔らかな眼差しとともに語られたその言葉に、雅と葵、蘭子が同時に真凛の方を向いた。真凛は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべ、一歩前に進んだ。
「曜子お母さま、お久しぶりです」
「えっ?」
三人の驚きが声になって漏れる。
雅が目を瞬かせながら、混乱したように真凛と曜子、そして神楽を交互に見比べた。
「……ちょっと待って。なんで真凛が、神楽のお母さんを『曜子お母さま』って呼ぶの?」
葵も困惑した表情を浮かべ、「え?え?」と理解が追いつかない様子で曜子と真凛を見つめる。
蘭子は腕を組みながら、じっと曜子を観察し、何かを考えているようだった。
「ま、あんたたちになら話してもいっか」
ため息混じりに神楽がそう言って、にやりと笑った。
「実はね――私と真凛は異母姉妹なのよ」
雅と葵が同時に「はぁ!?」と声を上げる。
「えっ、ちょ、待って待って!どういうこと!?」「神楽と真凛って、姉妹なの!?」
神楽は余裕の笑みを浮かべたまま、曜子の横で腕を組む。一方の真凛も、普段の落ち着いた様子を崩さず、静かに雅と葵の反応を見ていた。
「まあ、詳しい話はまた後でね。でも、とりあえず……そういうことだから」
神楽がさらりと言うと、雅と葵はまだ納得できない様子で混乱し続けた。
蘭子は静かに微笑みながら、「なるほど……」とだけ呟いた。




