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第89話 最終章・歯車が回る時

 火曜日の朝、教室はいつになく騒がしかった。週明けという理由だけではない。先週から囁かれていた“あの噂”が、いよいよ現実のものとなったからだ。


 ざわめく生徒たちの視線が、一斉に教室の入り口へ向けられる。そこに立っていたのは、響芸能学院からの転校生――篠宮神楽と香坂真凛。


 「おはよー、みんな! 今日からここでお世話になりま~す」


 神楽が持ち前の明るさで、軽い調子の挨拶をすると、教室は一気にどよめいた。


 「マジで来た!」

 「本当に転校するって噂だったけど……!」

 「え、やっぱり映画の関係?」


 すでにこの学校は、映画『二人と一人』のロケ地に選ばれており、それが転校の理由の一つではないかという憶測が飛び交っていた。


 続いて、真凛が一歩前に出る。彼女は神楽とは対照的に、落ち着いた笑みを浮かべ、丁寧に一礼した。


 「香坂真凛です。皆さんと仲良くできれば嬉しいです。よろしくお願いします」


 その優雅な立ち居振る舞いに、教室内はさらにざわめく。まさに“女優”といった雰囲気に、生徒たちは少し緊張しながらも興奮を隠しきれない様子だった。


 しかし、騒ぎを鎮めるべく、担任の教師が咳払いをして前に立つ。


 「はいはい、静かに! ええと、それじゃあ二人の席を決めようか……」


 そう言いながら教室内を見渡す先生。しかし、その瞬間、神楽と真凛が顔を見合わせると、同時に教室の一番後ろの席を指さした。


 「先生、私たち、あそこがいいです!」


 教室が再びざわつく。


 「え、ちょっと待って、あそこって……」 

 「相沢の席の隣じゃん!?」


 前々から啓と神楽、真凛の関係に興味を持っていた生徒たちが、一斉に彼の方を振り返る。


 「ねえ、やっぱり相沢くんと知り合いなんじゃ?」

 「どういう関係なの!?」


 クラスの視線を浴びながら、啓は無言で窓の外を眺める。青空が広がる気持ちのいい天気だった。


 (帰りたい……)


 そんな彼の心情を知る由もなく、さらに波乱が起きる。


 「先生、例え転校生だとしても、あまり我儘を聞きすぎるのはどうかと思います」


 立ち上がったのは雅だった。冷静な口調ながら、強い意志がこもった言葉。


 「私も天音さんと同意見です。先生が決めるべきだと思います」


 隣に座っていた葵も立ち上がり、雅に力強く同意する。


 すると、神楽が二人を睨みつけた。


 「へえ~、開き直り姉妹は随分口が達者になったじゃない」


 それに対して、真凛も強く頷く。


 しかし、葵もすぐに言い返した。


 「色々あって鍛えられましたから」


 雅も余裕たっぷりの表情で、静かに微笑みながら告げる。


 「おとなしくしているつもりはもうないから」


 まるで火花を散らすようなやり取りに、クラス中が固唾をのんで見守る。そして、先生は完全に収拾がつかなくなり、あたふたと場を落ち着かせようとする。


 


――そして場面は、静かな病室へと移る。




 都内の病院。窓から差し込む朝の光が、白いカーテンを優しく照らしている。


 ベッドの上には、相沢響子の姿。額には薄く絆創膏が貼られ、腕にも包帯が巻かれている。


 「まったく……あなたって子は、どうしていつも無茶ばかりするの?」


 響子のベッドの横に座るのは、彼女の母、相沢翔子。穏やかな佇まいの中に、厳しさを感じさせる女性だった。


 「大したことないって、こんなの」


 響子は軽く笑ってみせるが、翔子は表情を崩さない。


 「病院を抜け出してまで弟を助けに行くなんて、普通の姉のすることじゃないわよ」


 「私が普通の姉だったことなんて、一度でもあった?」


 響子の返しに、翔子はため息をつく。


 「……本当に、貴方は誰に似たのかしら」


 「少なくとも父さん似ではないかな」


 響子は軽く肩をすくめ、母の言葉をさらりと受け流す。


 翔子は呆れたように小さく笑い、「もう少し自分の体を大事にしなさいよ」とぼやいた。


 病室には穏やかな朝の空気が流れていた。


 窓の外を眺めながら、響子はしばらく黙っていた。そして、ふと小さく息をつきながら口を開く。


 「なあ、母さん……」


 ふと響子が言葉を発すると、ベッドの横で椅子に座っていた翔子が顔を上げる。


 「なあに?」


 響子は何かを決意したように、慎重に言葉を選びながら口を開いた。


 「鈴村鈴……」


 その名前が発せられた瞬間、翔子の表情がわずかに曇る。


 「五年前、彼女が亡くなったって……」


 そこまで言いかけた響子を、翔子がそっと制するように声をかける。


 「響子……その話は……」


 話しづらそうにする翔子。しかし、響子は引くつもりはなかった。


 「大事なことなんだ。私にとっても、啓にとっても……鈴ちゃんは、なんで自殺したんだ? 母さんは何か知ってるんじゃ?」


 翔子は深くため息をついた。


 「そうね……いつか話さなきゃいけない日が来るとは思っていたわ……」


 一瞬言いよどむも、翔子はゆっくりと覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。


 「鈴ちゃんが引っ越しした時のこと、覚えてる?」


 「……何か事件に巻き込まれたって、母さんから聞いたのは覚えてる……」


 響子がそう答えると、翔子は遠い記憶を辿るように目を伏せる。


 「あの日のこと、よく覚えてるわ……蒸し暑い夏の昼下がりだった……警察や救急車が来て、静かな住宅街は騒然としていたわ……そんな中、担架で運ばれる鈴ちゃんの痛々しい姿、今でも忘れられない……」


 翔子は軽く息をついた。そして、再び静かに話し始める。


 「現場にいた人が言っていたわ……鈴ちゃんが何者かに襲われたみたいだって……」


 その言葉を口にするだけで、翔子の表情は苦痛に歪む。心配そうに響子が母を見つめるが、翔子は小さく首を振り、「大丈夫よ」と自分に言い聞かせるように続けた。


 「鈴ちゃんの家、けっこう有名な資産家だったでしょ? あの事件が噂になるのを嫌って、すぐに引っ越しちゃったのよ……でもその数年後、知り合いのママさんから聞いたの。鈴ちゃんが自殺したって……」


 そこまで話して、翔子は静かに俯いた。


 その姿を見て、響子はまだ母が何か隠しているのではないかと直感する。だが、その真実を知るのが怖くもあった。


 一瞬、口を開きかけては閉じる。そして、意を決したように、絞り出すように問いかけた。


 「……どうして、鈴ちゃんは……?」


 その言葉に、翔子の肩がわずかに揺れた。まるで、最も聞かれたくなかった質問を突きつけられたように。


 沈黙が落ちる。やがて、観念したように、翔子は沈んだ声で答えた。


 「……鈴ちゃん……妊娠していたらしいわ……」


 空気が、凍りついた。


 病室の窓から差し込む朝の光が、冷たく白いカーテンを揺らす。


 病室の静寂が張り詰めたまま、重い空気が流れる。


 響子は沈んだ表情の母を見つめながら、胸の奥に消化しきれない思いを抱えた。


 この話の続きを聞くべきなのか、それともここで終わらせるべきなのか——。


 そんな迷いが、静かに病室に満ちていく。


 遠くで救急車のサイレンが響く。



 そして、その音と共に、場面は渋谷の雑踏へと移る。



 救急車両が通り過ぎ、無数の人が行き交う交差点。その真ん中で、笹原小夏と幸田早苗が立ち止まり、頭上の大型ビジョンを見上げていた。


 ビジョンには速報が流れていた。


 『緊急ニュースです。一昨日、都内での警察の緊急捜査により、今日未明、俳優の幸田昴容疑者を逮捕』


 『未成年への脅迫、暴行事件への関与、また、それ以外にも別件での事件の関係が疑われており……』


 画面に映し出されたのは、無数のフラッシュを浴びながら連行される幸田昴の姿だった。


 「……ま、いつかこうなるとは思っとったわ。こなっちゃんあんなのとホテル行ったとかマ?」


「別に……特に何もしてなけど。ただ首絞めて踏んでやっただけ……」


「あ~ね……ほんまブレんなあのド変態……」


 早苗は特に驚くこともなく、淡々とした口調で呟いた。


 「兄貴がアホなんは昔からやし。そら、いずれこうなるわな……」


 その言葉とは裏腹に、どこか冷めた表情のままビジョンを見つめ続ける。


 一方、小夏はじっと画面を睨みつけていた。その目には、苛立ちと悔しさが滲んでいる。


 「……クソ、あの役立たず……もっと踏みつけてやれば良かった……」」


 小夏は歯噛みするように呟く。


 本来なら、幸田昴を利用して神楽と真凛を罠にかけ、啓を苦しめる計画だった。しかし、それが崩れたという事実に、彼女は静かに怒りを募らせていた。


 しかし、その時、違和感が小夏の背筋をぞくりと駆け上がった。隣にいる早苗の様子が明らかにおかしい。


 「……ん?」


 小夏は眉をひそめた。早苗の指先が、まるで凍りついたかのように微かに震えている。呼吸も浅く、唇がかすかに開閉を繰り返している。


 「何……? さなっち、どうしたの?」


 早苗は大型ビジョンを見ているのではなかった。彼女の視線は、まったく別の方向へ向いている。


 普段の軽薄な表情は消え去り、早苗の顔は恐怖に支配されていた。目は見開かれ、瞳は焦点を結ばず宙を彷徨っている。まるで、何か忌まわしい過去がフラッシュバックし、身体を完全に支配されてしまったかのように。


 「さなっち! しっかりして!」


 小夏は早苗の両肩を掴み、軽く揺さぶる。いつもの飄々《ひょうひょう》とした彼女とは違い、今の早苗は異様なほど静かだった。


 「こなっちゃん……あ、あかん……あれ……!」


 ようやく意識を現実に戻したように、早苗が震える指で前方を指さす。


 小夏は早苗の指先を追い、ゆっくりと視線を向けた。その動作は無意識だった。どこか胸の奥で、嫌な予感がじわじわと広がっていくのを感じながら。


 人混みの向こう――


 そこには、知的で落ち着いた雰囲気を持つ、二十代くらいの男が立っていた。


 だが、その顔を見た瞬間、小夏の脳裏に遠い昔の記憶が蘇る。


 蒸し暑い夏の日。じりじりと焼け付くアスファルトの匂い。蝉の声が遠のき、世界の音が歪む。


 あの時、目の前に現れた、ナイフを握りしめた狂気じみた笑顔の青年。


 全身が金縛りにあったように動かなくなった。汗が背筋を伝い、喉がひゅっと鳴る。


 そして、今――


 目の前にいる男の姿が、あの日の青年の面影と、ぴたりと重なった。



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