第82話 新章・決戦は日曜日(5)Re:Real bout
響子の呼吸が乱れ始めていた。阿久津の猛攻を捌ききるたびに、腕が痺れ、脚がわずかに沈み込む。受ける一撃ごとに、じわりと体力が削られていくのを感じる。
「はっ!もう限界か?」
阿久津の挑発に、響子は奥歯を噛み締めながら必死に動きを止めない。だが、焦りだけが胸の奥にじわじわと広がっていく。
(これ以上……もたない……)
その瞬間、脳裏に蘇るのは、幼い頃の啓の姿だった。
夕暮れの公園。響子が駆けつけた時には、啓は泥だらけで地面に倒れていた。周りには啓よりも大きないじめっ子たちが何人もいた。雅と葵を庇うように立ちはだかり、殴られても蹴られても、啓は逃げようとしなかった。
「なんで逃げないの!逃げなきゃダメじゃない!」
響子が泣きそうな声で叫んだあの日。
「いやだ……逃げて後悔なんか嫌だ!」
涙と泥にまみれながら、啓は震える声で叫んだ。鼻血を流しながらも、小さな体で立ち続けた姿が、響子の胸に強く焼き付いている。
あの時、啓を守れなかった自分の悔しさ。弱くても、逃げずに立ち向かう啓の強さ。あの日から、響子の中で何かが変わった。
(私が……啓を守る、)
その想いが、響子を道場へと向かわせた。鍛え上げたのは拳だけではない。逃げずに立つための覚悟。その覚悟が、今の自分を支えている。
(あの日誓ったはずだろ……!相沢響子!)
響子はゆっくりと腰を落とし、両手を胸の前で構える。目を閉じ、ひとつ深く息を吸う。壱百零八手、型の始まり。頭で考えずとも、体に染み付いた一連の動きが、響子を守る。
師範の教え、あの日の啓の涙、そして守りたいもの。すべてが響子の中で一つになる。
「ふっ……!」
息吹と共に響子の身体が滑り出す。次の瞬間、響子の動きが変わったことを、阿久津の目が確かに捉えた。
両手を胸の前で大きく回しながら、阿久津のジャブを中段受け。前足の向きを内側にし、引いた手を素早く突き、受け、移動。背筋を伸ばしたまま、迷いのない重心移動が響子の身体を滑らかに進ませる。阿久津は攻撃を捌きつつ、その静かで無駄のない動きに初めて目を細めた。
響子の手が大きく開き、地を撫でるように手刀が構えられる。次の瞬間、響子の足が弾けるように地を蹴る。視界を攪乱する目潰しが放たれ、阿久津が一瞬顔を背けた。
その刹那、響子の身体が音もなく気配を殺して移動――縮地。目潰しからの一連の流れが淀みなく繋がる。
「おおおっ!!!」
響子の雄たけびが地下駐車場に響き渡る。全身の力と気迫を乗せ、正中線に沿って、顎、喉、水月へと正確に突きが放たれる。高速の三段突き。鋭く、重く、迷いのない拳が、阿久津の巨体を寸分の狂いもなく貫いていく。
「ぐっ……!」
巨体が揺れ、膝が軋みを上げるように崩れ落ちる。響子は正拳突きの姿勢のまま、呼吸を荒くしながらも微動だにしない。
意識が遠のく感覚。けれど、その両脚はまだ踏ん張っている。身体の奥底に染みついた“絶対に倒れない”という意地だけが、崩れ落ちるのを辛うじて支えていた。
響子の視界の端で、阿久津の巨体がゆっくりと膝を突く。さっきまで見下ろしてきた男が、今、自分よりも低い位置にいる。
それでも、響子は勝ち誇るような表情は見せない。むしろ、心の中に浮かんだのは、幼い啓が泣きながらも立ち上がり続けたあの日の姿。
(啓……お姉ちゃん、逃げなかった……ぞ……)
ゆっくりと膝を突き、前のめりに倒れ込む響子。脳裏に浮かんだ言葉は、誰にも負けたくない、逃げないと誓った自分への最後の意思。
「ハグだけで済むと思うなよ……はじ……め……」
力尽きるように倒れ込む響子。
「響子さん!」
物陰から飛び出した真凛と神楽が、慌てて響子の身体を抱き起こす。ぐったりとした響子の顔は、どこか満足そうな笑みに包まれていた。