第80話 新章・決戦は日曜日(3)
ロビーに立ってるだけで、心臓がバクバク。作戦だからって分かってても、全身の毛穴から冷や汗が吹き出しそう。
でも顔は、作戦用に作り込んだ特別仕様。ちょい甘めに小首を傾げて、目をほんのり潤ませて、警戒されないように無害な女の子に見せる。
場違い感ハンパない高級ホテルのロビー。シャンデリアも、ピカピカの床も、こんなの普段なら縁のない世界。でも今日は啓たちと立てた作戦の日。絶対に成功させなきゃ。
私から幸田に連絡したのは、全部この日のため。前に幸田から誘われた時は適当に流してたけど、今はそんな余裕ない。幸田を泳がせて、弱みを握って、どんな手を使ってでも引きずり下ろしてやる。
目の前の幸田。全身を舐めるように見てくる視線が、肌にまとわりついて気持ち悪い。パパ活慣れてても、こいつの目は別格。ベタベタしてて、奥に何か濁ったものがある。ぞわっと鳥肌が立つ。
でも、ここで顔に出しちゃダメ。ニコッと笑って、可愛く見せる。それも計画のうち。男は笑顔ひとつで勝手に勘違いしてくれる。そうやって油断させる。
「蘭子ちゃんから連絡もらったときは、本当に嬉しかったよ」
幸田の歯茎まで見せたニヤケ顔に、喉の奥がきゅっと詰まる。笑顔を保つのがこんなにキツいの、久しぶりかも。
「こちらこそ、お誘いありがとうございます。すぐにお返事できなくてごめんなさい」
営業スマイル炸裂。趣味でやってる配信でも笑顔の作り方には自信ある。でも、今日はいつもの配信より何倍も神経すり減らしてる。
幸田の後ろ——。
阿久津。
ガタイ、雰囲気、目つき、全てが異質。スーツ着てても隠せない分厚い肩と胸板。ひとつ動くだけで周囲の空気が揺れるほどの存在感。元格闘家って肩書きは伊達じゃない。
目が合った瞬間、全身の毛が逆立った。人を見てるんじゃなく、獲物を品定めする目。冷たい氷みたいな視線が、皮膚を突き刺して骨に染みる。
この人、最初から私のこと疑ってる。
「チェックイン済ませてきます……」
低く響く声が、鼓膜にじんわり響いてくる。声だけで喉がカラカラになる。阿久津がフロントへ向かっていく背中が消えるまで、まともに呼吸できなかった。
阿久津がいなくなった途端、幸田がグイッと距離を詰めてくる。
「蘭子ちゃん、久々に見るとますます可愛いね。今日はずっと一緒にいられるなんて、僕はツイてるなぁ」
うっわ、無理。喉の奥に込み上げる嫌悪感をギリギリで飲み込む。口角だけ上げて、いつものパパ活スマイル。
「そんなこと言われると照れちゃいます〜」
表面だけの軽いノリで流す。でも、幸田にはそれで十分。こういう男は、勝手に自分が主導権握ってるって思ってくれる。
エレベーターに乗ると、阿久津の視線がまた私を貫く。密室の空気が、重い。
部屋に入るなり、阿久津が無言でチェックを始める。家具の裏、クローゼットの中、カーテンの裏、ひとつ残らず丁寧に。ガサツに見えて、異常に手際がいい。プロの仕事って感じ。
「蘭子ちゃん、不思議?」
幸田がニヤニヤしながら、わざとらしく問いかけてくる。
「僕くらいになるとね、盗撮とか盗聴とか仕掛けられること多いんだよ。嫌な世の中だよね」
ほんとに嫌な世の中だよ。あんたみたいな奴がいるせいで。
「本当にそうですね」
愛想笑いも作戦のうち。
阿久津がチェックを終えて、今度は私をじっくり見つめる。その目に、冷たい光がきらりと宿る。
「問題ありません」
そう言いながらも、阿久津の目は全然信用していない。私の全身を最後まで値踏みしてる。
「じゃあ蘭子ちゃん、ごめんね?ちょっとだけ我慢してね」
「え……?」
その意味を理解する前に、阿久津の手が私の身体に触れた。
「ちょ、待って!」
容赦ないボディチェック。胸元から足先まで、まるで物扱い。
「やっ……やめてください!」
最悪。でも、ここで抵抗したら全部終わる。目頭が熱くなるのを耐えながら、唇を噛み締める。
ポケットからスマホが引き抜かれ、阿久津が幸田に差し出す。
「ロックかけてていいから、預からせてもらうね」
幸田の笑顔が気持ち悪い。指先が震えるのを隠しながら、小さく頷いた。
「……はい」
その時、ノックの音。
阿久津がドアを開ける。そこに立っていたのは、きっちりした身なりの女性スタッフ。
でも、私はすぐに分かった。響子さんだ。
ピシッと揃えた手、落ち着いた微笑み、作り物みたいに完璧な所作。さすが響子さん、余裕のある空気が全然崩れない。
「お客様のお車の防犯ブザーが鳴っているとのことで、お知らせに参りました」
響子さんの声も、別人みたいに丁寧で落ち着いてる。ほんの数秒のやり取りなのに、場を支配する力がある。こういうとこ、私なんかじゃ絶対真似できない。
「チッ」
幸田が舌打ち。イライラを隠しもしない。
阿久津は、そんな幸田とは対照的に無表情のまま微かに眉を動かしただけ。
「戻るまで何もせず、お部屋で待機してください」
阿久津の声には釘を刺すような硬さがあった。俺がいない間に余計な動きをするなと、言わんばかりに警戒しているのが、ヒシヒシ伝わる。
淡々とした声に、響子さんも軽く頭を下げると静かに去っていく。
阿久津が部屋を出る。その背中を見送りながら、私はギュッと拳を握った。
チャンス、今しかない。
「喉乾いちゃいました〜。ルームサービス頼んでいいですか?」
私がそう言うと、幸田が「じゃあ頼んでおこうか」と電話に手を伸ばす。
「私が呼びますから、幸田さんはベッドで待っててください」
声のトーンを少しだけ甘くして、指先をそっと幸田の手に重ねる。わざとらしいくらいの上目遣いを加えると、幸田の目がゆるっと緩んだ。
今だ。
すかさず電話をスッと引き寄せる。幸田がデレ顔になってるうちに、主導権は私がいただき。
表情は可愛く、内心は修羅場。
先生…お願いします!ここでしくじったら、私ほんとに終わる…
緊張で手汗が滲む指を必死に隠しながら、笑顔だけは絶対に崩さない。
私の未来、先生にかかってるんだから!




