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第78話 新章・決戦は日曜日

 日曜日の朝。車の窓ガラス越しに見える景色は、静かに眠る都会の顔を映していた。ビルのガラスに朝日が反射し、街全体が淡いオレンジ色に染め上げられている。普段は雑多な通りも、この時間は人気が少なく、車の流れもどこか穏やかだ。どこまでも続くビル群の隙間を縫うように走る車の中、僕は助手席に座り、ぼんやりと流れる景色を眺めていた。


 ハンドルを握る響姉は、普段通り落ち着いた運転だ。信号で止まるたびに、チラリと僕に視線を寄こしてくる。その視線はいつもの姉らしい柔らかさもあるけど、改めて見ると、響姉ってやっぱり美人だなと思ってしまって、ちょっとだけ目のやり場に困る。


 それに、今日の作戦を考えると、どうしても胸の奥がざわつく。僕と響姉がこれから向かうのは、幸田が蘭子に指定した高級ホテル。幸田が蘭子に指定した部屋の隣を、緋崎さんが僕の名前を使って手配してくれた。波木賞を受賞した作家として、ホテル側も急なお願いにも関わらず、好意的に受け入れてくれたらしい。正直、こんな形で名前が使われるとは思ってもいなかったけど。


 響姉が何気なく口にした「着くぞ」という言葉に、僕の身体は反射的に強張った。緊張に手のひらがじっとりと汗ばんでいる。車窓から見えたのは、ガラス張りの外観が朝の陽射しを反射して輝く、高級ホテル。その佇まいだけで、僕には場違いな場所だと痛感させられる。


 エントランスには、スーツをビシッと決めたドアマンが立ち、さりげなく通る車や人をチェックしている。その姿に余計に肩身が狭くなる。響姉はそんな僕の気配を察したのか、「さっさと降りるぞ」と半ば強引に車から降ろした。


 広々としたロビーに足を踏み入れると、シャンデリアの柔らかな光が天井から降り注ぎ、豪奢な装飾が目に飛び込んできた。重厚な絨毯に沈み込む足音。耳に入るのは控えめなピアノの生演奏と、フロント近くで囁き交わされる上品な会話の数々。


 僕と響姉は並んでフロントに向かう。響姉が落ち着いた口調でチェックインを済ませていると、突然背後からふわりと柔らかな香りが漂った。


「先生っ!」


 その声と同時に、背中にふわっと抱き着いてきた感触。思わず飛び上がりそうになるほど驚いて、振り返ると、そこには蘭子がいた。


 いつものカジュアルな服装とは違う、露出の多い大胆な衣装。レースとシフォンが重なった白いワンピースは、まるで夜のパーティにでも出かけるような華やかさ。それなのに、その下にはきっちりガーターベルトまで見えてしまいそうなほどスリットが深い。


「な、な、何でそんな格好……!」


 耳まで赤くなる僕を見て、蘭子はくすっと笑った。


「先生、可愛い」


 さらに身体を押し付けるように、豊かな胸が背中にぴったり密着する。もう頭が真っ白だ。全身から湯気が立ちそうなくらい熱くなって、思考も追いつかない。


「こ、こんなことしてる場合じゃないから!」


 なんとか振り払おうとするけど、蘭子は甘えた声で「だってぇ、これから好きでもない男の相手しなきゃいけないんですよぉ? ちょっとくらいいいじゃないですかぁ」と、ますます密着してくる。


 その言葉に、僕の中の何かが引き締まった。こんなふざけてる場合じゃない。僕は蘭子の肩を両手で掴み、真剣な顔で見つめる。


「本当に大丈夫? 無理してない?」


 これがただの演技じゃないことくらい、僕にもわかる。蘭子は笑ってるけど、その奥にある不安や恐怖を無視するわけにはいかない。彼女の身に何かあったら…そう思うだけで、心臓が掴まれるように苦しくなる。


 そんな僕の表情を見た蘭子は、優しく僕の頬を撫でた。


「先生が近くにいるって思うだけで、私、頑張れるんです。だから、信じてください」


 その言葉は、本当に強くて優しかった。だけど――。


「さてと、行くぞ啓」


 背筋が凍るような声が背後から響く。振り返ると、響姉が笑顔……のはずなのに、目がまるで笑っていない。僕の肩に無理やり腕を回し、そのまま部屋へと引きずるように歩き出した。


「ちょ、ちょっと待って!まだ……」


 抵抗も虚しく、ずるずる引きずられる僕。振り返ると、蘭子が小さく手を振っている。でも、その手が微かに震えているのを見て、僕は反射的に響姉を振り払った。


「蘭子!」


 駆け寄る僕の足音がロビーに響く。蘭子は驚いたように目を丸くしたけど、その手はまだ小さく震えていた。僕はその細い手を両手で包み込む。指先がひんやりと冷たくて、思わずぎゅっと握る力が強くなる。


「何があっても、僕はずっと側にいるから……」


 言葉にすると、思っていた以上に胸の奥が熱くなった。


 蘭子の瞳が一瞬大きく揺れ、その目尻に涙がぽつりと浮かぶ。あの軽い調子で人をからかって笑ういつもの蘭子じゃなくて、年相応の女の子らしい、素直で不安げな顔。それでも、震える声で「はい……信じてます」と、優しく微笑んだ。


 一瞬、これがドラマのワンシーンだったらどれほど良かっただろうと思うくらい、胸が詰まるほど綺麗で儚い笑顔だった。


……だったんだけど。


「……はいそこまで。啓、後でお姉ちゃんといろいろ話し合おうな」


 背後から、冷蔵庫の扉を開けたときよりも冷たい声が降ってきた。


 振り返ると、そこには満面の笑顔──の皮をかぶった響姉。目だけは完全に獲物を捕らえた肉食獣。首根っこを掴まれた瞬間、僕の未来が軽く見えた気がする。


「い、いや、これは……!」


 言い訳を探す僕をよそに、響姉は無言でずるずると僕を引きずる。ロビーにいた宿泊客たちが「何事?」と目を丸くしているのにも気づく余裕がない。


「きょ、響姉!?」


 最後の叫びは虚しく、僕の身体は響姉の圧倒的な腕力によってエレベーターへと吸い込まれていった。

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