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第76話 新章・月明りの導き

 シャワーの湯気がまだ身体に残る中、私はバスタオルで髪を乾かしながら自室に戻ってきた。


 窓際のカーテンを少しだけ開けて、夜の空気を確かめる。薄曇りの空に星は見えず、窓ガラスにはぼんやりと私の姿が映っていた。頬まで濡れた髪が肩に張り付いて、シャワーの熱が抜けきらない肌が、夜の冷気に少しだけ震える。


 ふと目に入ったのは、部屋の隅に掛けてあるカレンダー。赤い丸で囲んだ日付に、心が引き寄せられた。今日は土曜日。啓に屋上で告白してから、もう四日が過ぎた。


 あの日からずっと、葵は学校に来ていない。


 胸の奥がざわつく。私はカレンダーから視線を外し、再び窓ガラスに目をやった。そこに映る自分の顔は、想像以上に曇っていて、何とも言えない不安と焦りが滲み出ていた。


「何やってるのよ、葵…」


 独り言のように呟く声が、静かな部屋に染み込んで消える。


 私はためらいながらも、テーブルに置いたスマホを手に取り、葵の名前をタップした。ほんの少しの躊躇いを押し殺して、発信ボタンを押す。耳元に当てたスマホからは、冷たい呼び出し音が響く。無機質な音だけが何度も繰り返され、その度に胸が締め付けられるような気持ちになる。


 ――お願い、出て。


 何度目かの呼び出し音の途中で、ようやく耳に届いた声。


『……もしもし』


「葵!」


 思わず声が跳ねる。安堵と、押さえきれない不安が一気に溢れそうになった。


「良かった、出てくれて……葵、大丈夫?体調悪いの?何かあった?ずっと学校来てないから、すごく心配して……」


 矢継ぎ早に言葉を並べる私に、葵は何も答えない。ただ、沈黙だけが返ってきた。スマホ越しの静けさが、重くのしかかる。


「葵……もしかして、啓のことで悩んでるの…?」


 ゆっくりと問いかける。沈黙はそのまま続いたけれど、通話は切れない。つまり、それが答えなのだろう。


 私の胸の中に、あの日の記憶がよみがえる。あのホテルの前で、神楽さんと一緒に入っていく啓の背中を見た時の、あの心を掻き毟られるような感覚。きっと葵も、同じように苦しんでいる。


 だけど、今の葵は昔の私とは違う。あの頃の私には分からなかった、啓の想いも、葵の気持ちも、今なら分かる。


「葵……啓の小説は、もう読んだ?」


 静寂を破るように、私は静かに問いかけた。電話の向こうから微かに息を呑む音が聞こえる。


『……途中まで……でも、最後のシーンだけは、まだ読めてない……』


 かすれた声が耳に届く。私は目を閉じる。やっぱりそうだ。葵は、最後を知るのが怖いんだ。


 かつての私も、そうだった。


 あの時、伍代が書き換えた偽物の小説を読まされた。そこでは葵はただの友達で、私と伍代が結ばれるという、今はもう思い返したくもない気味の悪い話に仕立て上げられていた。


 けれど、本物の啓の小説には、私と葵、そして啓の幼い頃からの大切な思い出がしっかりと描かれていた。三人で過ごした日々の一つひとつが、あの物語の中に確かに息づいていた。


 でも、読み進めるほどに、不安が膨らんでいった。啓が誰を選ぶのか、最後の最後まで分からなかったから。葵なのか、それとも私なのか。その答えを知るのが、怖かった。


 それでも、最後まで読み続けた。啓がどれだけ悩んで、葛藤して、苦しみながら物語を紡いできたのか。読んでいて、痛いほど伝わってきたから。


 啓は、私たち二人を同じくらい大切に思ってくれていた。どちらかを選ぶなんて、簡単に決められることじゃなかった。だからこそ、あの物語は最後まで私たち二人を“主人公”として描き続けてくれていた。


 その想いに、私はようやく気づくことができた。だからこそ、自分の本当の気持ちを啓に伝えることができた。


 だからこそ、今度は、葵の番だ。


「葵は怖いんだね……自分がどうなってしまうのか……その最後を知ってしまうのが……」


 スマホ越しに、かすかに鼻をすする音が聞こえる。泣き声を必死に噛み殺しているのが伝わってくる。


「大丈夫、大丈夫だから。啓を信じてあげて……小さな頃から、私たちの約束を必死に守り続けた啓を信じて、もう一度勇気を出して読んでみて……きっと、それが葵の支えになってくれるはず」


 その言葉に返事はなく、静かに通話が切れた。私には、それが葵の精一杯の答えに思えた。


 私はスマホをゆっくりとテーブルに置いた。そして、その隣に置かれている啓の小説に、そっと手を伸ばす。


 表紙を優しく撫でる。指先に伝わる紙の感触が、あの日の約束を思い出させる。


「啓……どうか葵を、救ってあげて……」


 月明かりに照らされた部屋の中で、私はただ静かに願う。


 あの日交わした約束が、もう一度三人を繋ぐ光になることを祈って。

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