第74話 新章・青空に響く想い
教室の窓から差し込む朝の光が、ゆっくりと床に伸びている。私は自分の席に座ったまま、周りを取り囲むクラスメートたちの声に耳を傾けていた。
「天音さん、大丈夫!?無理しないでよ」
「伍代たち、本当に酷いよな!あんな奴らだとは思わなかったよ」
「未遂で済んで本当に良かった!」
次から次へと声をかけられ、そのどれもが本気で私を心配してくれているのが伝わってくる。事件のことは、きっと少しだけ広まっている程度だと思っていた。警察沙汰にはなったけれど、未成年絡みだから大事にはならないようにと配慮されたはずなのに、こんなにも詳細まで知られているなんて。私は少し戸惑いながら、近くの席の子に尋ねた。
「ねえ、みんな、どこでそんなこと知ったの?」
私の問いに、すぐ近くにいた数人が目を見合わせながら口を開く。
「雅、知らないの?学校の掲示板に匿名で書き込みがあったんだよ。伍代たちがやったって」
「しかも、それだけじゃないんだよ。天音さんと立花さんを助けたのが、相沢君だったって!」
「え……?」
私は思わず息を飲んだ。そこまで知れ渡っているなんて。
「ちょっと待って、その掲示板にそこまで書かれてたの?」
「いや、そこまで詳しくは書かれてなかったけどさ。でも、事件の次の日に、天音さんと立花さん、それに相沢君も休んでたじゃん。だからみんな、助けたのは相沢君じゃないかって噂してたんだ」
「しかもさ、助けたのはA.Hっていう超絶カッコいい男子って書かれててさ。A.Hって相沢啓のイニシャルでしょ?」
超絶カッコいいという表現に、私は心当たりがあった。啓をここまで持ち上げる人……。
「……響子さん」
思わず小さく呟く。あの人なら、弟のためにそれくらいのことはする。いや、それ以上のことだってやりかねない。
そんなことを考えていると、少し離れた席から男子たちの声が耳に届いた。
「相沢、お前すげえな!」
「ああ、マジ見直したよ!」
驚いて目を向けると、啓が数人の男子生徒に囲まれて、背中を叩かれながらも、照れくさそうに笑っていた。あの啓が、クラスメートに囲まれて笑っている姿は、何だか不思議な光景に見えた。心の奥が少しだけ温かくなるのを感じる。
「そういえば、葵は今日も休みなんだね」
「無理ないよ。未遂だったとはいえ、あんな怖い目に遭ったんだから……。雅はもう平気なの?」
心配そうに私の顔を覗き込むクラスメートたち。その気遣いに私は少しだけ微笑んだ。
「うん、大丈夫。かすり傷程度だから、心配かけてごめんね。ありがとう」
私の言葉に、みんながほっとしたように顔を見合わせる。こうしてクラスメートが気にかけてくれることが、今は何よりもありがたかった。
すると、教室の扉が開き、先生が教室に入ってきた。
「よーし、授業始めるぞー。みんな席に着けー!」
先生の声に、クラス中が一斉に動き出す。ざわめいていた教室も、次第に静まり、朝のホームルームが始まる。私はふと横目で視線を向けると、啓もいつもの様子でノートを開いていた。
授業は淡々と進み、私もなんとか集中しようと教科書に目を落とす。けれど、なかなか集中できないでいた。
先日の神楽さんと啓、あの二人の姿が頭から離れない。気が付くと、ノートの端にはいつの間にか啓の名前を書きかけていて、私は慌てて消して回る事になった。
授業の内容が頭に入らないまま、時間だけが過ぎていく。その合間に、何度も教室の窓に視線を向けていた。季節外れの柔らかな風がカーテンを揺らし、窓の外には澄んだ青空が広がっている。気づけば数時間が経ち、昼休みを知らせるチャイムが鳴り響いた。
「雅、一緒にお昼食べようよ!」
数人のクラスメートが声をかけてくれる。けれど、私は笑顔で首を振った。
「ごめんなさい。ちょっと用事があるの」
そう言って席を立つと、視線の先には啓がいた。目が合うと、啓は少し驚いたように目を瞬かせる。
「啓、少し話せる?」
「……あ、うん。わかった」
啓はおとなしく頷き、私と一緒に教室を出る。廊下を歩きながら、周りの視線が少しだけ気になったけれど、私はそのまま階段を上がる。誰もいない静かな場所がいい。そう思って選んだ場所は、冷たい風が頬を撫でる屋上だった。
私は鉄柵に捕まり、風を感じながら立つ。足元に広がる校庭を見下ろしながら、ゆっくり口を開く。
「単刀直入に言うわね」
振り向くと視線が合った。啓がびくりと肩を震わせる。私は彼の顔をしっかり見つめた。
「昨日、神楽さんと啓が二人でホテルに入っていくのを見たの」
啓の顔が一瞬で青ざめる。
「あ……」
言葉を失い、目を泳がせる啓。その姿に、私は思わず小さく笑った。
「ふふ」
目の前の啓は、困惑した顔のまま私を見つめている。
「だけど……どうせ啓のことだから何もできなかったんでしょ?」
わざと軽い口調で言ってみせる。でも、私の胸は少し痛んでいた。
「な、なんでそれを?」
啓の声は予想通りの動揺に満ちていて、思わず切なくなる。啓を困らせたいわけじゃない。でも、どうしても避けて通れない話だった。
「私、啓の小説、昨日読み終わったの」
その言葉に、啓の目が大きく見開かれる。
「読んでくれたんだ……」
「ええ」
私は頷き、強く吹き付ける風に髪が揺れる。
「それで分かったの。啓があの小説で何を書きたかったのか、私たちに何を伝えたかったのか」
あの物語を読んだとき、胸が苦しくて、目の前が滲んだ。啓の言葉一つ一つに、幼い頃から積み重ねてきた思いが詰まっている。あれは啓にしか書けない物語だった。
啓の喉が小さく鳴るのが分かる。まるで心の奥に触れられるのを恐れるように、身構える姿が痛々しい。
「啓は私と葵、どちらかを選べなかったんでしょ?」
あえて核心を突く。それは、私自身にも突き刺さる言葉だった。でも、今ならちゃんと向き合える。
「神楽にも……同じことを言われたよ」
啓が絞り出すように言ったその声は、どこか自嘲気味で、けれど優しさも滲んでいた。
「やっぱりね」
風に負けないように、私ははっきりと口にする。
「昔から啓は優柔不断だったもの」
懐かしさが込み上げてくる。何も変わらない、でも、少しだけ変わった。私たちは大人になる途中なんだ。
「でもね」
私は目を逸らさず、真っ直ぐに啓を見つめる。
「そんな事どうでもいいの……誰がなんて関係ない、大事なのは、今の……自分の正直な気持ちだって」
強い想いを込めた言葉が、風に乗って広がる。
「正直な、自分の気持ち……」
繰り返す啓の声は、まだ迷いを含んでいる。そんな彼が、愛しくて、切なくて、だからこそ私は伝えなきゃいけなかった。
「啓、大好き。昔も、今も、これからも……ずっと」
堪えきれずに滲んだ涙を風がさらっていく。だけど、私は笑った。心の底から、啓の前で一番素直な私でいたかった。
「うん……ありがとう、雅」
啓もまた、小さく微笑んでくれる。その笑顔が、私にとって何よりの答えだった。
何も変わらない、今のまま、これからの啓を愛していこう。
――私は今日、その事を改めて、自分自身に強く誓った。




