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第73話 新章・サイドミラーの向こう側

 夜の空気は澄んでいるはずなのに、窓ガラス越しに感じる冷たさは、妙に肌を刺すようだった。

フロントガラスに映る街灯の淡い光が、暗闇に沈む住宅街をぼんやりと照らしている。エンジンは切ってある。車内には小さな呼吸音だけが漂い、私の存在をひっそりとこの夜に溶け込ませていた。


 冬の夜特有の静寂が、耳をじんと痺れさせる。時折、木枯らしが木立を揺らし、公園の金属製の遊具が微かにきしむ音が響く。人気のない公園。日中なら子供たちの声が溢れているだろう場所も、今はただ闇に飲み込まれ、静寂と冷気に支配されている。


 私はハンドルに腕を乗せ、深く息を吐いた。車内には、暖房をつけていないせいで、じんわりと冷たい空気が満ちている。それがかえって、私の胸の奥底にこびりついた不安や疑念を呼び覚ましてくるようだった。


 視線をサイドミラーへと移す。そこには、リードを片手にゆっくりと歩く男の姿が映っている。


 相沢瑞樹。


 雅の従兄であり、ほんの少し前に、雅を家まで送った時に見かけた男だ。あの時は、軽く会釈を交わしただけだったけれど、その横顔に感じた微かな既視感が、今も私の胸に引っかかっている。いや、引っかかるというより、胸の奥で小さく疼いている。見覚えがあった。忘れるはずのない顔。


 あの顔を、私は確かに知っている。


 記憶の中から手繰り寄せたのは、遠い過去のある冬の夕暮れだった。


 数年前──まだ啓が幼かった頃に起きた、あの事件。


 啓の幼馴染、鈴村(すずむら) (すず)


 無邪気に笑う鈴の顔。啓と雅と葵と、いつも一緒にいたあの子。何の前触れもなく、突然いなくなった。親の話では、何か事件に巻き込まれ、家族ごと引っ越したと聞かされたけれど、詳しいことは何も知らされなかった。私も深く追及することはなかった。啓が、どこか寂しそうな目をしていたことだけが、強く心に残っていた。


 その鈴村鈴が、数年後に自殺したという知らせを聞いたのは、今から五年ほど前だった。母から告げられたその言葉は、妙に淡々としていて、私は実感すら持てなかった。ただ、あの小さな鈴が、自ら命を絶ったという現実に、ひどく胸を締め付けられた。


 啓には、話さなかった。話せなかった。


 鈴の名前が再び私の耳に届いたのは、つい最近のことだ。啓の口から、ふいに鈴の名前が零れた時、封じ込めていた記憶が一気に甦った。啓にとって鈴は、かけがえのない存在の一人だった。その鈴がどうして消えたのか、どうして命を絶ったのか──。


 サイドミラーの中の瑞樹をじっと見つめながら、私は過去の断片を繋ぎ合わせていく。


 鈴村鈴が姿を消す直前。鈴と一緒にいた少年の顔を、私は覚えている。啓の周りを、妙にうろついていたあの少年。見間違えるはずがない。あれは幼い頃の相沢瑞樹だ。


 もしも瑞樹が、鈴の失踪や自殺に関わっていたとしたら──。


 その可能性に、背筋を冷たいものが這い上がる。じっと瑞樹の後ろ姿を見つめる私の耳に、コンコンと窓を叩く音が響いた。


 反射的に体を硬直させる。窓の外には、自転車に乗った警官が立っていた。冬の制服の襟を立てたその姿が、通り過ぎる車のライトに照らされている。


 窓を開けると、警官は自転車を降り、丁寧に会釈をしてきた。


「女性の方でしたか。夜分遅くにすみません。実はこの辺りを巡回していたんですが、こちらの車がしばらく停車していたので、少し気になりまして」


「あ、すみません。邪魔でしたか?すぐに移動します」


 慌ててそう言うと、警官は軽く手を振った。


「いえ、この場所なら問題ありません。ただ……気になったので」


 その言葉に、私はわずかに違和感を覚えた。何かあったのかと問いかけると、警官は周囲を見回しながら、声を落とした。


「実は、最近この辺りで若い女性が狙われる事件が続いていまして。それで巡回を強化しているんです」


 若い女性──。


「犯人の特徴は?」


「公開されている目撃情報では、成人男性という話ですが、詳細はまだ」


 胸の奥で嫌な予感が膨らむ。


「私も何か見かけたら、すぐに連絡しますね」


「ありがとうございます。どうぞお気をつけて」


 警官が去り、私は再びサイドミラーを覗き込んだ。


 「なっ!?」


 濁ったガラス越しに映る瑞樹の姿は、まるで影のようにぼんやりと揺れていた。けれど、私を見ているのだけはわかった。サイドミラー越しなのに、視線が刺さる。寒気とは別の、背筋に張り付く湿った冷たさがじわりと広がる。


 瑞樹は微動だにせず、こちらをじっと見つめている。暗闇に浮かび上がるその姿は、どこか現実感を欠いていて、私は思わず喉を鳴らした。


 視線を逸らせない。逸らしたら、次に目を戻した時には、窓のすぐ外に立っている気がして。


 何かがじわじわと滲み寄るような圧迫感に耐えきれず、私は身を縮め、シートに深く沈み込んだ。息を殺し、気配すら消すように。ただの通りすがりの車だと気づいてほしかった。


 そうして息を潜めながら、もう一度ミラーを覗くと、瑞樹の姿はすでに消えていた。


 しかし安心できない。ふと背後から呼吸音が聞こえてきそうな錯覚に襲われる。


 鈴村鈴の事件、若い女性を狙う事件、そして瑞樹。


 すべてが、薄暗い糸で繋がっているように思えた。寒さよりも冷たいものが、背骨を這い上がる。


 その時、携帯が震えた。ディスプレイには『啓』の名前。


 ほんの数秒前まで凍りついていた心が、一気に緩んでいくのを感じる。思わず顔が綻んだ。寒さも不安も忘れて、胸がふっと温かくなる。


「どうした啓?お姉ちゃんにもう会いたくなったのか?」


 わざと軽くふざけてみせる。弟からの電話は、それだけで私には特別なものだ。そんな啓が、こんな風に真面目な声で掛けてくるなんて、よほどのことがあるに違いない。


 けれど、その重ささえ愛おしく感じる。


 だが、電話の向こうの啓はいつもの甘えた声とは違い、珍しく真剣だった。


「響姉……た、頼みたいことがあるんだ……」


 その声音に、胸がきゅっと締めつけられる。啓が私にこんな頼み方をするなんて、一体いつぶりだろう。思い返そうとしても、なかなか思い当たらない。


 普段なら、どんなことでも自分で何とかしようとする子だ。それが、わざわざ頼ってくれる。


「姉が可愛い弟の悩みを解決するなんて、世間じゃ常識だぞ。言ってみろ」


 表情に余裕を浮かべ、声も軽く弾ませながら、私は全身を耳にして、啓の言葉を待った。

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