第72話 新章・切り札
喫茶店のテーブルを挟んで、僕の両隣には真凛と神楽が座り、向かいには蘭子がちょこんと座っている。
蘭子がこの場にいるのは、僕たちを助けるためだ。
神楽と真凛も、それは分かっている。
蘭子自身が「啓先生を守るために力になる」と言ってくれたからだ。
けれど、今、神楽と真凛が向けている視線は、そんな協力者を見る目じゃない。
警戒と、探るような視線。
まるでライバルでも見るかのようだ。
なんでこんな展開になったんだろう……。
「別に、争うつもりなんてないですよ~」
「……は?」
神楽が眉をひそめる。
「お二人が先生と一緒にいるのは全然いいんです。私、そういうの気にしませんから」
さらりと言いながら、蘭子はテーブルに肘をついて、リラックスした態度のまま続ける。
「でもぉ、私だって先生と特別な関係になりたいんですよ~。優しいし懐大きいし~なんてったって財力もありますしね!あ、もちろん独り占めしたいとか思ってませんよ!?お二人相手に正面から勝負なんて勝ち目無いですし。だって売れっ子女優に歌手ですよ?そんなの勝負になりませんもん」
蘭子はあくまで軽いノリを崩さず、唇を尖らせながら肩をすくめる。
「だから……」
少し間をおいて、わざとらしく人差し指を立てた。
「共存ってことでどうですか?」
「……共存?」
真凛が戸惑いながら神楽を見る。神楽も腕を組み、少し考え込んでいる。
「どうする真凛?」
「共存……」
二人がそんなふうに悩んでいる中、僕は何が何だかわからなくなっていた。
「ちょっと待って!今そんなこと話してる場合じゃないでしょ?幸田の件もあるんだから!」
思わず口を挟んだ僕だったけれど、
「先生は黙っててください」
「そうそう。今、大事な話してるんだから」
真凛と神楽、揃った声でピシャリと叱られる。
僕はなんで怒られてるの……?
口をパクパクさせる僕を無視して、神楽と真凛は再び視線を合わせる。
「私たちが先。それは絶対譲れないから」
「うん。それは譲れません」
二人の意見がぴったり合った瞬間、蘭子はぱっと明るく笑った。
「了解で~す!そういう順番なら問題ないですよ~」
「ちょ、ちょっと待って!何の話!?僕のことなんだけど!?」
慌てふためく僕を完全にスルーして、三人の間に妙な空気が漂う。
「じゃ、商談成立ってことで~」
蘭子が軽いノリで手を叩く。
何の商談が成立したのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「じゃあとりあえず、私と幸田との関係について話しておきますね〜」
そんな僕を無視するように、蘭子は明るく笑いながら、軽く手を挙げて場を仕切りだした。
「私、ちょっと前に、有名インフルエンサー特集の番組に出たことがあるんですよ。その番組で司会をしてたのが幸田で、番組が終わった後に『今度食事でも』って連絡先を渡されたんです」
神楽がすかさず顔をしかめる。
「うわ、何それ。あいつそんなこと裏でやってんの?」
「でしょ?うちのマネージャーより手が早いんじゃないかって思いましたよ〜」
蘭子が苦笑いしながら肩をすくめる。
「しかも、同じ番組に出てたインフルエンサー仲間から忠告されました。『あの人、めっちゃ手が早いし、ロリコンでヤバい性癖持ちだから気をつけて』って」
「最低……」
神楽が眉をひそめて呟く。
「その……変態性癖って、具体的に何なんですか?」
少し詰め寄る真凛に、蘭子は視線を泳がせて困った顔になる。
「それはその……言えないというか…真凛さんにはまだ早いというか……」
曖昧な空気が流れたまま、蘭子はパンっと手を叩いて強引に話を戻した。
「と、とにかく、私が幸田に連絡して、逆にネタを探り出して幸田を破滅させちゃいましょう!っていう作戦です!」
「本当にそんなに上手くいくの?」
神楽が疑わしそうに首をかしげる。
「幸田自体は、そこまで脅威じゃないんですよ。あいつは顔が良くて口が上手いだけの浅い奴ですから」
「問題は、幸田の専属マネージャー、阿久津阿久津です……」
「元格闘家で、警戒心もすごいし頭も切れる。しかも腕も立つって業界でも有名なんです」
蘭子の声は、ここまでは軽い調子だったのに、この話題に触れた瞬間、途端に重みを増した。
それまで気楽に聞いていた僕も神楽も真凛も、いつのまにか背筋を伸ばし、蘭子の言葉に無意識に集中していた。
「幸田が起こしたトラブルも、ほとんど阿久津って奴が裏で処理してるみたいで……それに、昔、幸田が暴力団関係の女に手を出して、乗り込んできたヤクザを阿久津が一人で返り討ちにしたっていう噂もあるんですよ」
「その噂がマジなら結構どころかかなりヤバいわよ……?」
神楽は腕を組みながら低く唸り、真凛は不安げに唇を噛んでいる。
二人が顔を見合わせると、自然と息を飲む音だけが喫茶店に響いた。
「せめてこっちにも、腕が立つ人が一人でもいたほうがいいですよね……」
蘭子がそう言った時、僕の頭にふっと一人の顔が浮かんだ。
子供の頃から何度も助けてもらった、あの人の姿。
無茶をして叱られることも多かったけど、いざという時には必ず僕を守ってくれた。
強引なところもあるけど、それ以上に頼りになる背中。
理不尽な出来事にも、一歩も引かずに正面から向き合ってきた。そんな姿を、僕はずっと見てきた。
「そうだ……!」
「え?」
皆の視線が集まる中、僕はスマホを取り出し、迷いなくアドレス帳を開く。
そこに表示された名前は――「相沢響子」だ。