第71話 新章・4万円の女と二人の女神
大通りに面した場所にある喫茶店、スターバルクス。
ガラス窓の向こうに広がる街並みは、ネオンと街灯に照らされて煌めいていた。冬の夜空にはうっすらと雲がかかり、時折吹く風が木々を揺らす。その隙間から漏れる光が、静かな店内にも柔らかく染み込んでいる。
夜の喫茶店は、昼間とは違った顔を見せる。
店内は程よく暖かく、コーヒーの香ばしい香りと焼き菓子の甘い香りが優しく混ざり合う。カップとソーサーが触れ合う小さな音、カウンターの奥から聞こえる豆を挽く音、穏やかなジャズが静かに流れ、心地よい空間を作り出していた。
その片隅、窓際の席に座る僕は、コーヒーカップを両手で包み込みながら、深いため息をひとつ吐いた。
まだ寒さが残るこの季節、ホットコーヒーの温もりが指先にじんわり染み込んでいく。けれど、それだけでは心の冷たさまでは温めてくれない。
「啓!」
ガラスのドアが勢いよく開き、店内の鈴が高く鳴る。振り向くと、見覚えのある二つの姿が駆け込んできた。
神楽と真凛。
夜の冷気を引き連れながら、二人は不安そうな顔で店内を見回し、僕を見つけた瞬間、表情が一気に和らいだ。
「啓!」
「はじめ君!」
二人は声を重ねながら、僕目掛けて駆け寄ってくる。そして次の瞬間、左右から同時に抱きつかれた。
「会いたかった……!」
神楽がほっとした声で呟く。彼女の柔らかい髪が僕の頬をかすめ、甘い香水の香りがふわりと漂う。
「私も会いたかったです……!」
真凛も涙目で僕の袖をぎゅっと握りしめ、心細さを全身で訴えてくる。
「え、ちょ、待って……二人とも近いから!」
いきなりの密着に慌てふためく僕。けれど、彼女たちはお構いなしに身体を寄せてくる。
「で、それはそうと……誰?」
不意に神楽の声のトーンが変わる。僕の肩越しに何かを見つけ、目を細める。
二人が鋭い目つきで見つめる先にいるのは──蘭子だった。
明るい金髪にメイク映えする整った顔立ち。黒のオフショルニットにタイトなデニム、ヒールブーツを合わせたラフなギャル系コーデ。けれどどこか上品なオーラも纏っている。そんな蘭子が、カウンター席に腰掛け、頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「あ、えっと……」
説明しようとした僕より早く、真凛も不機嫌そうに口を開く。
「はじめ君、この人誰ですか……?」
突き刺すような視線を向けられ、僕は胃がキリキリと痛み始める。
「ちょっと待って、落ち着いて……!」
必死に両手を振る僕。しかし、そんな空気を読んでか読まずか、蘭子はにこっと笑い、席を立ってこちらへ向かってきた。
「はじめまして~。4万円で先生に買われた女で~す」
「……は?」
「……なっ……!?」
真凛と神楽が同時に息を飲み、僕は思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「誤解!!あ、いや合ってる……?いや、やっぱり合ってはいるけどそれは違うから!!」
必死に意味不明なことを言いながら否定する僕を無視して、神楽と真凛はそれぞれ両サイドから僕を挟み込み、睨みをきかせる。
「はじめ君、どういうこと?」
「啓!ちゃんと説明して!」
「ちょっと待って、本当に誤解なんだって!」
蘭子はそんな修羅場を面白そうに眺めながら、くすくす笑っている。
僕は震える声で、これまでの事情を必死に説明した。
パパ活少女に、4万円を渡して帰らせたこと。その子が動画配信で知り合ったレイランだったこと──。それだけじゃなく、さっき神楽と電話で話していた真凛への脅迫の件も、すべて蘭子に盗み聞きされていたこと──。
「つまり……」
神楽が腕を組み、まとめるように言う。
「お金がなくてパパ活迫ってきたそこの蘭子って子に4万円渡したら、動画配信コラボで出会ったレイランがそこの蘭子だったってわけ?それに加えて、私たちが電話で話してたことまで全部聞かれてたってこと?」
「……そういうこと」
僕が小さく頷くと、真凛がじとっとした目で蘭子を見る。
「それで、その蘭子さんが今ここにいる理由は?」
「それは──」
僕が答えようとした時、蘭子がにこっと笑って口を開いた。
「だって、私なら力になれるかもしれませんよ?」
「力に……?」
「はい、二人とも幸田昴に脅されてるんですよね? だったら私、何かできるかもしれません。私あの人とちょっとした知り合いなんで……」
希望の光が差したように、僕は二人を見つめる。
「蘭子が助けになってくれるって言ってるんだ。だから二人にも話を聞いてもらいたいんだけど……どうかな?」
神楽と真凛は一瞬顔を見合わせた。けれど、どこか神妙な顔つきだ。
「……それで、何が条件なの?」
神楽が核心を突く。真凛も無言で頷く。
「え、条件って?」
僕だけが全く話についていけず、ぽかんとしている。
そんな僕を見て、蘭子はにやっと悪戯っぽく微笑んだ。
「お二人は先生の恋人?それともそれに近い存在?」
神楽と真凛は揃って大きくうなずいた。
「えぇ!?ちょ」
僕は盛大に椅子からずり落ちそうになり、慌ててテーブルに手をついた。突然の展開に頭が追いつかず、目を丸くして神楽と真凛を交互に見つめる。
「いいな~、じゃあ私もちょこっとでいいからその仲に加えて欲しいな~なんて」
にやりと笑う蘭子が、さらりと爆弾発言を放り投げる。
「はぁぁぁ!?ちょっと待って、なんでそうなるの!?」
僕の声は裏返り、神楽と真凛の目つきが一瞬で凶器に変わる。
「ふぅん……いい度胸してるじゃない……」
「どういうつもりですか……?」
二人の圧に蘭子は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「いや~私も先生のこと、結構気に入っちゃってさ~。でも、そんな怖い顔しないで?私、敵じゃないから。むしろ、みんなと仲良くしたいな~って、ね?」
悪びれるどころか、あくまで余裕たっぷりの態度を崩さない蘭子。けれど、そんな態度がますます神楽と真凛の警戒心に火をつける。
「はは……さっきからいったい何の話してるの、みんな……」
この空気に耐えきれず、僕は乾いた笑いを漏らした。
この喫茶店の夜は、まだまだ嵐が続きそうだった。