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第70話 新章・悪意の名を知る人

 スターバルクスの扉を押し開けると、ふわりと香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐった。店内は休日の昼下がりらしく、それなりに賑わっている。ノートパソコンを広げて作業する客や、談笑するカップル、勉強に勤しむ学生たち。そんな何気ない光景の中に、僕はぽつんと座っていた。


 テーブルの上には飲みかけのカフェオレと、すっかりぬるくなったミネラルウォーター。時間だけが無情に過ぎていく。


 神楽とホテルで別れて外に出た後、何気なく立ち寄った公園で葵と出会った。そして葵から、僕と神楽がホテルに入ったところを見たと告げられた……。


 葵は驚きに目を見開いたまま、言葉を失っていた。僕もすぐに何か言わなきゃと思ったけど、喉がひどく乾いて声にならなかった。


 葵は唇を噛んで、一瞬だけ僕を見つめると、そのまま何も言わず背を向けて歩き去った。足取りは早く、追いかけることもできなかった。


 その光景が何度も頭の中に蘇る。


 どうしてあの時、すぐに説明しなかったんだ。言い訳にしかならなくても、何か言葉をかけるべきだったのに。後悔だけがぐるぐると渦巻く。


 それでも、今は神楽と真凛のことが優先だった。


 幸田昴。


 その名前が二人の会話から出てきた瞬間、全身に嫌な汗がにじんだ。詳しい内容までは神楽に教えてもらえなかったけど、あの名前が出るということは、ただ事じゃないのは分かった。


 神楽は電話を切った後、「何か分かったら連絡するから」と僕に言い残し、慌ただしくホテルを後にした。


 それから数時間。僕はこうしてスターバルクスで、神楽からの電話を待っている。


 真凛と神楽の身に何が起きたのか、どれだけ想像を巡らせても答えなんて出るはずがなかった。ただ、あの幸田昴が絡んでいる以上、ろくな話じゃない。それだけは確信していた。


 強く握ったペットボトルが、くしゃりと音を立てる。どうすればいい。僕に何ができる。考えろ——。


 ぼんやりと目の前のテーブルを見つめながら、何度も頭の中で状況を整理しようとする。


 スマホが小さく振動した。画面には神楽の名前。


 僕は慌てて通話ボタンを押した。


「もしもし、神楽?」


『ごめん、遅くなった』


 いつもの軽いノリは消え、張り詰めた声が耳に飛び込んできた。


「真凛、どうだった?」


『……正直、最悪。』


 短い言葉に全てが詰まっている。僕は息を詰めたまま、神楽の続きを待つ。


『真凛の事務所の先輩女優のスキャンダルをネタに、幸田が真凛と私を脅してる。スクープを潰したいなら、接待しろって』


「接待って……」


 もちろん接待なんて言葉で収まる話じゃないはずだ。嫌な想像と言葉が喉に引っかかる。思わずスマホを握る手に力が入った。


 神楽や真凛から真凛から幸田の事を聞いていたけど、あれから僕もネットで幸田昴について調べた。新人や売れ始めの若い有名人をターゲットにしている、そんな黒い噂ばかりだ。


『真凛、すごく怖がってる。無理だって泣きそうだった』


「神楽は……大丈夫なのか?」


『……平気なわけないでしょ。でも、私が平気そうにしてないと、真凛がもっとダメになるから』


 神楽の声が震えていた。無理してるのが痛いほど伝わる。


「とにかく、三人で直接会おう。僕たちで何ができるか考えよう、現在地送るから」


『……うん。真凛と一緒にそっち行くね、ありがとう、啓』


 電話が切れたあと、現在地だけ神楽に送ると、僕はスマホをテーブルに置き、深く息を吐いた。


 葵のことも、真凛や神楽のことも、全てがぐちゃぐちゃに絡み合って、何から考えればいいのか分からなくなる。


「スクープで脅して枕させようとか、酷いこと考えますね~」


「本当にそうだよ!卑怯にも程が……って、え?」


 突然背後から声がして、僕は椅子から飛び上がりそうになった。


 慌てて振り返ると、そこにはカフェラテを手に持ち、楽しげにストローをくわえたイラストレーターのレイラン、蘭子が立っていた。


「な、なんでここに…?」


「ここ、私もよく来るんですよ~。イラストの事考えるのに、気分転換にちょうどいいんです」


 言われてみれば、ここは僕と蘭子さんが初めて出会った場所だった。確か、あの時も偶然隣に座って——。


 蘭子はにこりと笑うと、僕の隣の席を指さす。


「座っていいですか?」


「あ、はい……」


 配信コラボであんなことがあっただけに、妙に緊張してしまう……。


 ぎこちなく頷くと、蘭子さんはひらりと腰掛け、ストローをくわえながら僕を見上げた。


「さっきの電話、つい聞いちゃいました~」


「えっ……」


「先生、すっごい真剣な顔してるから、何の話かな~って思ったら、つい……ごめんなさい!」


 僕は思わず頭を抱えた。


「全部って……嘘……」


「でも、大丈夫。私、口は固いんで」


 ストローを咥えたまま、片目でウインクする。


 心臓に悪すぎる。まさか寄りにもよってこの子に聞かれるとは……。


「ところで…」


 蘭子さんがストローをくるくる回しながら、少しだけ表情を引き締める。


「私、その幸田ってやつ、知ってるんですよね~」


「え…?」


「なんだったら、先生の力になれるかも?」


 ニヤリと笑う蘭子さんの顔を見ながら、僕はその意味を咀嚼することすらできず、ただ固まっていた。

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