第64話 新章・Sweet Trick
二月の新宿。 冷たい風がビルの間を吹き抜け、行き交う人々のコートを揺らす。 そんな中、僕の隣を歩く神楽は寒さを感じていないかのように軽やかだった。
黒のサングラスをかけ、肩には小さなショルダーバッグ。
ラフなカットソーの裾を引きながら、時折僕をちらりと見上げる。
「ねえ、啓。このあと、どこ行くの?」
「あ……特に決めてないけど」
「ふぅん、じゃあ私が決めてもいい?」
神楽はニヤリと笑い、サングラス越しに僕を見つめた。
「……うん、いいよ」
「じゃあ、まずはお買い物」
「買い物?」
「うん。啓といるときに着る、新しい服を買おうと思って」
一瞬、思考が止まる。 僕といるときに着る服を選ぶ? 普通、そんなこと考えるものなのか?
「え……どうして?」
「せっかくデートしてるんだし、少しは啓の好みに合わせたくなるでしょ?」
さらりと言われた一言に、胸の奥が急に詰まるような感覚に襲われた。思わず息をのむ。 神楽は僕の反応を楽しむように微笑み、腕を絡めてくる。
「さ、行こっ」
ショッピングモールのアパレルフロアに足を踏み入れると、暖房の温かい空気が迎えてくれた。 神楽は目を輝かせながら、服が並ぶ店内を眺めていた。
「ねえ、啓ってどんな服が好き?」
「え?」
「私が着るなら、どんなのがいい?」
「……よくわからない」
自分の服すら選べない僕が、、選べるわけがない。ましてやそれが女性なら尚更だ。
「じゃあ、試着して見せてあげる」
「えっ?あ、ちょっ」
神楽は僕の腕を強引に引き、何着か選んで試着室へ向かった。
カーテンが閉じ、僕は店内のベンチに腰を下ろす。 しばらくして、またカーテンが開く。
「ねえ、啓……ちょっと、手貸して」
「え?」
試着室の中から、神楽が手招きしている。
「ファスナーが上がらないの。ちょっとだけ入って?」
「えっ、いや、でも——」
「は、や、く」
促されるままに、僕は試着室の入口に立つ。 神楽は背中を向け、ドレスのファスナーを少し開けたまま、肩越しに僕を見つめていた。
「ほら、ここ引っ張って?」
「……あ、ああ」
震える指でファスナーを掴む。 引き上げると、背中の素肌が少しずつ隠れていく。
「……ふふ、緊張してる?」
「そ、そんなこと……」
神楽は振り返り、至近距離で僕を見上げた。
「ねえ……どっちがいい?」
柔らかい香りが鼻をくすぐる。
すぐそこに、神楽の顔。
「……っ」
心臓がうるさい。
「ふふ、こっちがお気に召したのかな?じゃあこっちにするね」
神楽は僕の反応を楽しむように微笑み、試着室のカーテンを閉めた。
「ねえ、次はゲームセンターに行こっか」
「ゲームセンター?」
「うん 久しぶりにプリクラ撮りたい!」
神楽はいたずらっぽく笑い、僕を引っ張るようにして歩き出した。
ゲームセンターに入ると、機械音とポップなBGMが耳に飛び込んできた。
クレーンゲーム、シューティング、音ゲー——いろんなゲームが並ぶ中、神楽は迷わずプリクラ機の前に立つ。
「これこれ」
「ほ、本当に撮るの?」
「当たり前でしょ。せっかくのデートなんだから、思い出作らなきゃ」
改めてデートと強調されると、やはりどこかこそばゆい。
プリクラ機に入ると、神楽がすぐに隣へ寄ってきた。距離が近い。肩が触れる。彼女のシャンプーの香りがふわりと漂い、甘く柔らかい香りが鼻をくすぐる。
蘭子の時も思ったけど、最近の子って距離感バグり過ぎじゃないか?
「ほら、こっち向いて?」
神楽の声が耳元で響き、鼓動が不規則に跳ねた。
「ほら、こっち向いて?」
「あ……」
神楽がゆっくりと顔を近づける。耳元で微かな吐息を感じ、肌がざわめく。動けずにいる僕を見つめ、彼女の瞳がわずかにいたずらっぽく揺れた。
「ふふっ……やっぱり照れてる?」
「そ、そんなことは……!」
言い訳する間もなく、神楽が僕の頬に唇を寄せた——と見せかけて、ギリギリの距離で止まる。
「……キスすると思った?」
「っ……!」
胸の奥で鼓動が激しく打ち鳴らされる。まるで神楽の仕掛けた甘い罠にかかったように、思考が揺らいでいく。
パシャッ。
よくよく考えてみたらこれって僕にとって人生初のデートじゃないのか?デートってこんなにドキドキしっぱなしになるものなの?
手汗を感じつつ顔を上げる。画面には、頬を寄せ合い、僕の顔が赤くなったままの写真が映っていた。 神楽は大満足といった様子で、出来上がったシールを手に取る。
「啓の変顔頂き!これは私がもらうね?」
「あ……はい」
僕に選択肢はなかった。
日が真上に昇り始めた頃、僕たちは公園へ向かった。
「少し歩こっか」
神楽が僕の腕を軽く組む。
冬の風が吹く中、枯れ葉が舞い、公園のベンチにはカップルが座っていた。 僕たちもベンチに腰を下ろし、神楽がふぅっと息を吐く。
「……さすがに疲れたかも」
「大丈夫?」
「ねえ、膝貸して?」
「えっ?」
「ちょっとだけ……」
そう言いながら、神楽は僕の返事も待たず膝に頭を乗せてきた。
「……啓の匂い、落ち着く」
「えっ……」
しばらくそのまま目を閉じていた神楽だったが、ゆっくりと上体を起こし、僕の顔を覗き込む。そして、耳元にそっと唇を寄せ、囁いた。
「ねえ、こっち向いて?」
背筋がゾクッとする。
「こっち向いてってば?」
顔を上げると、神楽の瞳がすぐそこに。
「……っ」
今度こそキスされる——
神楽はくすっと笑い、僕の肩に軽く頭を寄せた。しばらくそうしていたが、ふと顔を上げ、周囲を見回す。
「ねえ、ちょっと疲れちゃった……あそこで休まない?」
指差した先を目で追うと、そこにあったのは——ラブホテル。
「えっ……!? ちょ、ちょっと待てよ!」
全身が一気に熱くなり、慌てて立ち上がる。心臓が跳ね、言葉がうまく出てこない。
「な、なんでそんなとこ……!?」
「違うの! ほんとに、ただ休むだけ!」
神楽は両手を必死に振りながら、僕の袖をギュッと掴んだ。
「だったらカフェとかでいいでしょ!?」
「カフェは混んでるし、落ち着ける場所がないの。あそこなら静かに休めるじゃん?」
理屈としては、まあわからなくもない。だが——
「でも、あそこは……!」
「お願い、啓……?」
神楽の声が少し弱くなる。
「さすがに今日はしゃぎすぎちゃったみたいで、ほんとにちょっと休みたいだけなの……」
顔を上げた神楽の目は真剣だった。
「本当に……休むだけ?」
「本当に!」
しばらく沈黙が落ちた後、僕は小さく息をついた。
「……わかった。でも、絶対に休むだけだからね?」
「やった、ありがとう!」
神楽は嬉しそうに僕の手を引き、足早にホテルの入り口へと向かった。




