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第114話 芽吹く蕾。

 コンクリートの床に落ちた涙の跡が、午後の陽射しを受けて小さく光っていた。


 三月の風は暖かいはずなのに、僕の頬を撫でていくそれは氷のように冷たく感じられる。制服の袖で拭った額にまた汗が滲み、松葉杖を握る手がじっとりと湿っている。


 鈴ちゃんの最後の言葉が、まだ耳の奥で響いていた。


 「身代わりになって」——その一言が、僕の胸に重くのしかかって離れない。


 嫌な予感なんてものじゃない。僕が最も恐れていた真実が、ついに目の前に姿を現した。


 彼女は顔を覆って震えている。風に揺れる髪が、まるで彼女の心の動揺を表すように乱れていた。


「小夏は……」


 震え声で、鈴ちゃんが口を開いた。まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「何も言わなかった。ただ……ただ、静かに首を縦に振っただけだった」


 その声には、深い後悔が滲んでいた。手で顔を覆ったまま、肩を小刻みに震わせながら。


「それからは小夏が……私の代わりに、あの男のところに行くようになったの」


 言葉を区切るたびに、彼女の声がかすれていく。


「私は……私は、自分だけ安全な場所にいて……」


 突然、鈴ちゃんがくしゃくしゃと顔を歪めた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、それでも無理に笑おうとして。


「好きな人の近くにいることだけを考えて……本当に……本当に最低よね……」


 その自嘲的な笑みが、見ているだけで胸が痛くなるほど痛々しかった。


 僕は何も言えなかった。言葉が見つからない。慰めの言葉も、励ましの言葉も、すべてが軽すぎて、薄っぺらすぎて、とても口にできない。


 ただ立ち尽くして、彼女の苦しみを受け止めることしかできなかった。


「でも……」


 鈴ちゃんが顔を上げる。涙で濡れた瞳が、虚ろに空を見上げていた。


「そんなある日……小夏が震える声で言ったの」


 彼女の両手が、ぎゅっと拳を握った。爪が掌に食い込んでいるのか、手の甲に青い血管が浮き出ている。


「『お姉ちゃん……私……』って」


 その続きを言うのをためらうように、鈴ちゃんは唇を噛んだ。でも、やがて観念したように、震える声で続ける。


「『赤ちゃんができたみたい』って……」


 その瞬間、僕の視界が一瞬暗くなった。めまいがして、松葉杖に体重を預けなければ倒れそうになる。


「目の前が……真っ暗になった」


 鈴ちゃんが頭を抱え込むようにして、低くうめいた。


「ああ、終わりなんだなって……すべてが、もう取り返しのつかないところまで来てしまったんだって……」


 彼女の声が、どんどん小さくなっていく。まるで自分自身の奥底に沈んでいくように。


「この世の終わりって……きっと、あんな感じなのね……音も、光も、何もかもが遠ざかっていって……」


 頭を抱えたまま、鈴ちゃんがむせび泣き始めた。肩が激しく上下して、呼吸が浅くなっている。


 僕の胸が締め付けられる。小夏ちゃんの気持ちを思うと、いたたまれなくなった。まだ子供だったのに。まだ何も知らない、純粋な心を持った女の子だったのに。


「でも……でも小夏は……」


 泣き声を必死に噛み殺しながら、鈴ちゃんが続けた。


「『産みたい』って言ったの……『自分はもう長くないから、せめてこの子だけは』って……」


 彼女の言葉が途切れ途切れになる。涙で声が詰まって、うまく話せない。


「私は……私は何も言えなかった……だって、全部……全部私が……」


 その時、僕の頭の中で何かがつながった。パズルの最後のピースがはまるように、すべてが見えてきた。


「そして……」


 僕の声がかすれた。言いたくない。口にしたくない。でも、確認しなければならない。


「あの事件が起きたんだね……」


 力なく呟いた僕の言葉に、鈴ちゃんは顔を覆ったまま、小さく頷いた。


 その瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。これまで築き上げてきた、すべての希望や夢が、音を立てて崩れていく。


 雅や葵、真凛や神楽、蘭子、響姉——僕と関わったすべての人たちの顔が、次々と頭に浮かんだ。


 みんな、僕と出会わなければ、もっと幸せだったのかもしれない。


 雅は伍代なんかに騙されることもなく、葵だって鷹松に利用されることもなかった。真凛も神楽も、こんな複雑な恋愛感情に悩まされることなく、純粋に夢を追いかけていけたはずだ。


 そして何より、鈴ちゃんと小夏ちゃんは——


「ごめん……」


 思わず、口から言葉が漏れた。


「僕のせいで……ごめん……」


 拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込んで痛いけれど、それでも力を緩めることができない。


 すべては僕から始まったことだ。僕と出会わなければ、こんなことにはならなかったはずだ。僕という存在は、どれだけ人の人生を狂わせればいいんだ……。


「なんで……」


 鈴ちゃんの声が聞こえた。涙を流しながらも、どこか不思議そうに首を傾げて。


「なんで啓が謝るのよ……」


 彼女の瞳に、困惑の色が浮かんでいる。まるで僕の言葉が理解できないとでも言うように。


「僕が君たちと出会わなければ……」


 僕の頬に涙が伝った。自分でも驚くほど、熱い涙だった。


「こんなことにならなかったはずだ……僕がいなければ、鈴ちゃんも小夏ちゃんも……」


「ふざけないで!」


 突然、鈴ちゃんが叫んだ。


 その声は屋上に響き渡り、僕は思わず肩を震わせる。彼女の瞳に、強い光が宿っていた。


「でも事実だ……」


 僕は首を振りながら、嗚咽を漏らした。


「僕が全てを狂わせてる。雅や葵だって、真凛や神楽だって……僕と出会わなければ、みんなもっと——」


 言葉が詰まる。胸が苦しくて、息がうまくできない。


「僕は……僕は……」


 俯いて、声にならない声で呟く。涙が床に落ちて、小さな染みを作った。


「違う!」


 鈴ちゃんの叫び声が、再び屋上に響いた。


「貴方のせいじゃない!私のせいなの……私の自分勝手な思いが、全部……」


 そう言いながら、彼女の膝がガクガクと震え始める。支えを失ったように、その場にへたり込んだ。


「啓の……せいじゃない……」


 か細い声で、彼女が繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。


 僕は泣きながら、激しく首を横に振った。違う、そんなことない。すべては僕が——


「ごめんなさい……」


 鈴ちゃんの声が、風に消えそうなほど小さくなった。


「ごめんなさい、小夏……うっ……うぅぅ……」


 声にならない嗚咽が、彼女の喉から漏れる。全身を震わせながら、まるで壊れた人形のように泣き続けている。


 僕たちは、どれくらいそうしていただろうか。


 時間の感覚がなくなっていた。ただ、お互いの罪悪感と後悔だけが、この空間を支配していた。


 その時——ふと、僕は顔を上げた。


 遠くの西棟の方から、かすかに人の声が聞こえてくる。真凛と神楽の声だった。二人が何かを話し合っているような、そんな響きが風に乗って届いてくる。


 なぜか、その声に引かれるように、僕は西棟の方を見つめた。


 小さく見える人影が二つ。真凛と神楽が、お互いの手を取り合っているのが見える。遠くてよくは分からないけれど、二人とも笑顔のように見えた。


 その光景が、僕の脳裏に強く焼き付いた。


 二人とも、僕の作品に出会って、夢を見つけた。そして今、その夢を叶えるために頑張っている。


 雅も葵も、あの事件を乗り越えて、前に進もうとしている。


 蘭子だって、僕と出会って、自分の本当にやりたいことを見つけた。


 響姉は僕を守るために戦ってくれた。僕のために強くあろうと努力を重ね続けた。


 本当に?本当に全てが狂ってしまったのか?


 僕が関わったせいで、みんなが不幸になったのか?


 いや……違う。


 そうじゃない。


 彼女たちは皆、自分の夢を持っている。自分の意志で道を選んで、前に進んでいる。


 僕がそれを「狂っている」だなんて言うのは——それは彼女たちの夢や努力を否定することになる。


 彼女たちが積み重ねてきた、すべての想いを踏みにじることになる。


「だめだ……」


 僕は涙を拭って、鈴ちゃんの方を向いた。


「そうじゃない……これじゃ……」


 立ち上がろうとして、松葉杖がカタカタと音を立てる。


 涙が止まらない。


 でも、これじゃダメなんだ。こんなふうに立ち止まっていちゃ、いけない。


 僕は袖で必死に涙を拭った。一度拭いても、また新しい涙が頬を伝って落ちてくる。それでも何度も何度も拭い続ける。


 無駄にしちゃいけない。僕だけの人生じゃないんだ。


 雅の努力も、葵の強さも、真凛の夢も、神楽の情熱も、蘭子の成長も——関わった人たち全ての想いを、僕が否定しちゃいけない。


 それは小夏ちゃんだって同じはずだ。


 止まれ……。


 僕は自分に言い聞かせるように胸の内で呟いた。


 泣いてる場合じゃない……止まれ、僕……。


 ぐっと奥歯を噛みしめて、涙を堪える。胸の奥が苦しくて、呼吸がうまくできないけれど、それでも立ち止まるわけにはいかない。


 皆の想いを、僕が否定するなんてことは、絶対にあってはならない。


 それは小夏ちゃんだって同じはずだ。


 桜のつぼみが膨らみ始めた校舎の向こうから、かすかに鳥のさえずりが聞こえてくる。


 僕はふらつく足取りでバッグに手を伸ばした。ファスナーを開けて、中から数枚の紙を取り出す。少し皺になったコピー用紙が、午後の風にひらりと揺れた。


 鈴ちゃんが僕の動きに気づいて、涙で腫れた目をこちらに向けてくる。


「これは……」


 僕は紙を見つめながら、慎重に言葉を選んだ。


「図書館にあったコミュニティノートのコピーなんだ」


 彼女の眉がわずかに寄る。何のことか分からないという顔だった。


「瑞樹との一件で、何か証拠がないか探していた時に見つけたものだよ」


 僕は松葉杖を支えにしながら、ゆっくりと鈴ちゃんに近づいていく。


「最初は何もないと思っていたけど……でも、気になる書き込みがあったんだ」


 一歩、また一歩。足音がコンクリートに響く。


「確認する手段がなくて、ずっと気になっていた。だから君に……鈴ちゃんに確認を取りたかった」


 手を伸ばして、紙を差し出す。指先が微かに震えていた。


「読んでみてくれ……」


「何……これ……?」


 鈴ちゃんが涙を拭いながら、恐る恐る紙を受け取った。最初は戸惑いながら文字を追っていた彼女の表情が、読み進めるにつれて変わっていく。


 顔の血の気が引いて、唇がわずかに震え始める。


「これは……」


 彼女の声がかすれた。


「小夏の……文字……」


 紙を持つ手が、小刻みに震えている。瞳を大きく見開いて、何度も同じ箇所を読み返しているようだった。


 僕は深く息を吸い込んだ。自分を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。


「やっぱり……ノートに、気になる文章を見つけたんだ」


 鈴ちゃんは顔を上げようとしない。ただ、紙に視線を落としたまま震え続けている。


「みんな本の感想やおすすめの本なんかを書いている中で、その文字だけが……異質だった」


 僕の声も震えていた。あの時図書館で見つけた文章を思い出すと、胸が締め付けられる。


「だからもしかしてと思って……コピーを取っておいたんだ」


 その瞬間、鈴ちゃんが顔を上げた。その瞳には、信じられないという表情と、深い悲しみが混じっていた。


「嘘……」


 彼女の声が震える。


「何で……何でなの、小夏……」


 紙を握りしめながら、鈴ちゃんが叫んだ。


「私は……私はっ!」


 それは泣き叫ぶというより、魂の奥底から搾り出されるような慟哭だった。全身を震わせて、まるで世界が崩れ落ちたかのように。


 僕は静かに鈴ちゃんを見つめた。


 ノートに書かれていた小夏ちゃんの言葉——それは図書館の片隅で、誰に見せるでもなく、ひっそりと残されたメッセージだった。


 『お姉ちゃん、大好きだよ。今までも、これからも。だから、私の分まで生きて、幸せになってね』


 小さな、丸い文字で書かれたその言葉は、間違いなく小夏ちゃんの筆跡だった。きっと最後の日々、一人で図書館を訪れた時に書いたのだろう。


 それは、彼女の願いだった。祈りだった。


 もしかしたら、瑞樹との話し合いで、自分の運命を悟っていたのかもしれない。それでも彼女は、最後まで姉の幸せを願い続けた。


 自分の未来を、人生を、すべてを投げ出してでも。


「私は……あんなひどいことをしたのに……」


 鈴ちゃんの声が、風に消えそうなほど小さくなった。


「なんで……なんでよ……」


 その瞬間、彼女がスマートフォンを持ち直した。指が画面に触れて、何かを操作しようとする。


 僕の血の気が引いた。


「待って、鈴ちゃん!」


 慌てて西棟の方を振り返り、大声で叫ぼうとした瞬間——


 僕の目に信じられない光景が飛び込んできた。


 西棟の屋上にいるはずの真凛と神楽だけでなく、そこには雅と葵の姿もあった。それどころか、スタッフたちも含めて、全員がこちらを見ている。


 なぜ?どうして?


 呆然としている僕を見て、雅が落ち着いた様子で手を振り、何かを取り出した。


 ——何も起こらない。


 その瞬間、僕のポケットの中でスマートフォンが震えた。着信音が静寂を破って響く。


 僕は混乱しながらも、慌ててスマートフォンを取り出した。画面には雅の名前が表示されている。


「……もしもし……雅?」


『啓、大丈夫?』


 雅の声だった。いつもの落ち着いた、でもどこか温かい声。


「雅……どうして君が……」


『ごめんなさい、啓。授業が始まっても戻ってこなかったから、心配になって葵と一緒に探しに来たの』


 雅の声に、深い理解が込められていた。


『それで……二人の話を聞いてしまって』


 僕は唇を噛んだ。どれくらい聞かれていたんだろう。


『配電盤、確認したわ。確かに細工はあった。でも……』


 雅の声が一瞬途切れる。


『プラグに配線は繋がっていなかった』


「繋がって……ない……?」


 僕は振り返って鈴ちゃんを見た。彼女はスマートフォンを握りしめたまま、うつむいている。


『彼女は最初から……誰も傷つけるつもりはなかったのよ』


 スマートフォンが手から滑り落ちた。コンクリートに当たって、乾いた音が響く。


「鈴ちゃん……君は最初から……」


「もう……」


 鈴ちゃんの声が風に消えそうなほど小さかった。


「終わりにしたかった……貴方に嫌われて、憎まれて……そして私が消えれば……」


 僕は松葉杖を放り出し、地面に膝をついた。冷たいアスファルトが膝に染みて痛む。でも、そんなことどうでもよかった。目の前でうずくまる彼女を、ただ見過ごすなんてできなかった。


 震える手を伸ばして、そっと鈴ちゃんの髪に触れようとした——その瞬間だった。


「やめて……」


 その声に、僕の指先が空中で止まる。彼女は顔を伏せたまま、まるで何かに怯えるように身を引いた。


「私に……そんな資格ない。あの日、私は全部壊したんだから……」


 言葉の端が、泣き出しそうに震えていた。


 でも、僕は引かなかった。引けなかった。今度はそっと彼女の肩に手を添えて、声を押し出すように口を開いた。


「僕だって……たくさんの過ちを犯し、壊した。守れなかった。届かなかった。そのたびに、大切なものを失った」


 喉の奥が焼けるように痛んだ。何度も何度も反芻してきた後悔が、胸を締めつける。


「ずっと、自分を責めてた。憎んでた。……君のことを、忘れようとした自分も」


 鈴ちゃんが、ゆっくり顔を上げた。濡れた睫毛の奥で、迷子のように彷徨う瞳が僕を見つめていた。


「でも……それじゃ、誰も救われないんだ」


 僕は自分の胸に手を当てて、唇を震わせながら言葉を続けた。


「生きることから逃げたら、君があの日見せた涙も、小夏ちゃんが願った想いも、全部嘘になってしまう」


 春の風が吹いた。彼女の髪がふわりと揺れる。その隙間から、震える瞳がのぞいた。


「小夏ちゃんの言葉を思い出して。 最後まで……君の幸せを信じてた。何もかも知ったうえで、それでも君の未来を願ってた」


 鈴ちゃんの肩が、小さく揺れる。


「なのに、君がここで終わらせたら、小夏ちゃんを二度も失うことになる……」


 僕は涙を堪えきれずに嗚咽しそうになった。


「苦しくてもいい。泣いても、つまずいても、僕たちが何度でも支えるから。一緒に、もう一度……生きよう」


「無理よ……」


 彼女の声が、かすれた。


「私は……あの子の代わりに生きるなんて……できない……」


「代わりじゃない。君自身の人生を生きるんだよ。小夏ちゃんは、それを願ってたんだ。……誰よりも、君の未来を」


 僕はバッグの中から、一通の封筒を取り出した。少し歪んだ角を指でなぞりながら、彼女に差し出す。


「これを、君に渡したくて……」


「なに……これ……?」


「僕、今世間ではちょっと炎上してるんだ……」


 泣きはらした顔で、僕は苦笑いを浮かべた。


「当然だよね。世間を欺いて、危険なことして、みんなを心配させて……でも、それでも僕は、無力だけど、やっぱり書くことしかできないんだ」


 封筒を見つめながら、ゆっくりと続ける。


「僕が書いた小説……。君と小夏ちゃんが……もしも違う未来を歩めたなら、きっとこうだったんじゃないかって……願いを込めて書いた」


 封筒を開くこともできず、彼女はただそれを胸に抱いた。抱きしめるように、何かを失わないように。


「過去は変えられない。でも、この物語は、変わらない未来として残せる。だから……どうか、受け取って」


 僕は手を差し伸べた。


「ここから一緒に歩こう。誰かのせいにせず、自分の足で、君の心で……未来へ」


 しばらく沈黙が流れた。


 空気が張りつめて、時間が止まったような錯覚さえあった。


 鈴ちゃんは何も言わなかった。ただ、嗚咽だけが響いている。


 しかし、次の瞬間——


 かすかに、小さな笑い声が聞こえた。


 鈴の音のような、小さくて透明な笑い声。


 顔を上げた鈴ちゃんは、くしゃくしゃになった顔で何度も、何度も頷いた。


 彼女の頬には涙が伝っていたけれど、その唇は、幼い頃に見せてくれたような、あの無垢な笑顔をつくっていた。


「……ありが……と」


 その声に、僕の胸が熱くなった。


 風が吹いて、桜の蕾がこぼれ落ちそうに揺れる。


 やがて訪れる春が、僕たちの罪を赦すわけじゃない。


 けれどきっと——


 その風の中に、新しい未来の匂いがあった。



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