第113話 救いなき真実
鈴ちゃんの声が途切れ途切れになっていた。
息を吸うたびに肩が震え、言葉を紡ぐのがやっとのように見える。頬を流れる涙は乾くことなく、制服の胸元にぽつぽつと染みを作っていく。僕は松葉杖を握る手に力を込めながら、彼女の苦しそうな様子をただ見守るしかなかった。
校舎の向こうから聞こえる撮影スタッフの声や機材の音が、まるで別次元の騒音のように響いている。この静寂に包まれた屋上とのコントラストが、現実感を削いでいく。
あの時の鈴ちゃんは、まだほんの子供だった。怖くて、痛くて、どうしていいか分からなくて——そんな状況で、完璧な判断なんてできるはずがない。
頭では理解している。でも胸の奥で燃え上がる感情は、理屈では抑えきれなかった。無力感、憤り、そして言葉にできない切なさが混ざり合って、僕の心をかき乱していく。
「でもね……」
鈴ちゃんが震える声で口を開いた。涙で濡れた睫毛を上げて、僕を見据える。
「逃げた先に、救いなんてなかった」
手の甲で涙を拭いながら、彼女の瞳に冷たい光が宿る。
「待っていたのは……傷ついた私を憐れむ、あなたたちの姿だったから」
その瞬間、記憶の奥底に封じ込められていた光景が、まるで古いフィルムを再生するように蘇ってきた。
あの暑い夏の日。公園の木陰で雅と葵と他愛のない話をしていた時、茂みの向こうから現れた小さな人影。汚れた服、乱れた髪、虚ろな表情の鈴ちゃん——そして、僕たちが無神経に投げかけた言葉の数々。
どうしてそんなに汚れているの?
服が汚れちゃってるよ
可哀そうに……
悪意なんてこれっぽちもなかった。ただ心配で、気の毒に思って言っただけ。でも、あの瞬間の鈴ちゃんにとって、その何気ない言葉がどれほど残酷に響いたのか。
僕の拳がわなわなと震える。もしあの時に戻れたら、もし真実を知っていたら——でも、そんな後悔をしても、もう何も変わらない。
「僕たちは……本当に何も分かっていなかった」
絞り出すように言った僕の言葉に、鈴ちゃんは冷ややかな笑みを返した。
「何も分からない……か。そうよね……貴方達は何も知らなかった。知らないまま、私を……」
彼女の声には、長い間溜め込まれていた怒りと悲しみが込められていた。
「あの後……」
鈴ちゃんが深く息を吸い込む。顔を少し俯かせながら、まるで重い荷物を背負うように肩を落とした。
「早苗ちゃんが助けを呼んだ大人たちによって、小夏は病院に運ばれた」
一拍の間。風がそよそよと頬を撫でていく。
「でもね……」
彼女の声に、諦めにも似た響きが混じる。
「早苗ちゃんは勘違いしていたの。襲われたのは鈴お姉ちゃんの方だって」
「勘違い……」
僕の声がかすれた。
「ええ」
鈴ちゃんが苦い笑みを浮かべる。その表情には、運命への皮肉めいた諦観が滲んでいた。
「まあ、仕方ないわよね。あの時、早苗ちゃんはあの場にいなかったし、何があったかなんて知らないもの」
僕の胸に嫌な予感が広がっていく。この話の先に待っているのは、きっととんでもない真実だ。
「それで……どうなったの?」
震える声で問いかけると、鈴ちゃんは一瞬目を閉じた。まるで痛みを堪えるように。
「しばらくして落ち着いた頃、私は全てを両親に話した」
彼女の声が次第に低くなっていく。
「襲われたのは鈴じゃなくて、今病院にいるのは小夏なんだって」
僕は固唾を呑んだ。響姉の見舞いに行った時、看護師さんから聞いた話を思い出す。鈴ちゃんの両親は資産家で、何よりも世間体を気にする人たちだったと。
「それで……両親は何て……?」
嫌な予感が的中することを恐れながら、僕は恐る恐る尋ねた。
「……あいつらが、私になんて言ったと思う?」
鈴ちゃんの口元に、乾いた笑みが浮かぶ。その笑顔には、深い絶望と憎悪が込められていた。
「……教えてくれ」
僕は覚悟を決めて、彼女の言葉を待った。
「小夏は……」
鈴ちゃんが唇を噛む。その瞬間、彼女の瞳に涙が滲んだ。
「生まれた時から心臓が弱かった。医者にも二十歳まで生きられるかどうかって、昔から言われてて……」
彼女の声が震える。
「周りも本人も諦めてたけど、私だけは……私だけは、いつか小夏の体も良くなるんじゃないかって信じて、妹の面倒をよく見ていたの」
そこまで言って、鈴ちゃんは拳を強く握りしめた。
「でもね——」
彼女の瞳に宿った光が、氷のように冷たくなる。
「両親は……あいつらは言ったの」
吐き捨てるような口調で、鈴ちゃんが続けた。
「『小夏は遅かれ早かれ長くは生きられない。幸い、みんな襲われたのは鈴だと思い込んでいる……だからお前は、今日から鈴村小夏として生きるんだ』って」
その言葉を聞いた瞬間、僕の全身に戦慄が走った。
実の両親が、娘の心配ではなく、世間への印象を心配するなんて……狂ってるとしか言いようがない。
血の気が引いていく。頭がくらくらして、松葉杖を握る手に力が入らなくなる。
「なんだよ、それ……」
声が震えていた。胸の奥から込み上げる怒りと困惑が、言葉にならずに喉で詰まる。
「長く生きられないからって……そんな理由で……!」
僕は拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込んで痛いけれど、それでも力を緩めることができない。あまりにも理不尽で、あまりにも残酷で——どうしてそんなことができるんだ。実の娘に、実の姉妹に。
「信じられない……そんなの、あんまりだ!」
鈴ちゃんは僕の激昂した様子を見ても、表情を変えなかった。ただ、どこか遠くを見つめるような虚ろな瞳で、淡々と続ける。
「目を覚ました小夏に、両親は事の経緯をすべて話したわ……」
彼女の声に感情の起伏はない。まるで他人事を語っているかのように。
「昔から聞き分けのいい子だったから……小夏はその話を、驚くほどすんなりと受け入れた」
「すんなりって……」
僕の声がかすれる。そんなこと、普通受け入れられるものじゃない。自分の人生を、姉と入れ替えて生きろなんて。
「おかしいよ、そんなの……どうして小夏ちゃんは……」
「どうしてって?」
鈴ちゃんが僕を見つめる。その瞳に、初めて感情らしきものが宿った。深い悲しみと、そして自分への嫌悪が混じり合ったような。
「昔から自分の体のせいで、家族に迷惑をかけてきたからって」
彼女の声が少しだけ震える。
「小夏は……自分を置いて逃げた私を責めるでもなく、ただただ優しく……『家族のためになるなら』って」
風が吹いて、鈴ちゃんの髪を揺らした。その一房一房が、まるで重いものを背負っているかのように見える。
「そうして……その日から、歪な家族の生活が新たに始まったの」
僕は言葉を失った。なんて言えばいいのか分からない。小夏ちゃんの優しさが、かえって状況を悲惨にしている。そんな理不尽さに、胸が締め付けられる。
ある日突然、引っ越してしまった鈴ちゃんたち。僕は単純に、事件に巻き込まれて環境を変えたかったんだと思っていた。まさかそんな——家族ぐるみの、残酷な嘘が隠されていたなんて。
僕は本当に何も分かっていなかった。何も見えていなかった。大切な人の苦しみも、痛みも、すべて見落としていた。
「鈴ちゃん……」
言いかけて、僕は口を閉じた。何を言っても、軽すぎる。薄っぺらすぎる。
「最初は……」
鈴ちゃんが再び口を開く。その声に、かすかな温度が戻っていた。
「新しい環境に慣れなくて大変だった。知らない土地、知らない学校、知らない人たち……でも、だんだんと落ち着きを取り戻した頃」
彼女は空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも続いている。
「自分勝手だとは思うけど、私はまた啓に会いたいと思うようになっていた」
その言葉に、僕の心臓が跳ねる。
「一目でいいから……今、元気に過ごしているか確かめたくて」
鈴ちゃんの声が、わずかに弾む。まるで当時の気持ちを思い出しているかのように。
「そして、あわよくば……まだ私のことを、少しでも思ってくれているかなって」
彼女の頬に、また涙が伝った。でも今度は、悲しみだけではない何かが混じっているような気がした。
「どうしても会いたくなって……こっそり、みんなに黙って会いに行ったの」
僕の胸が締め付けられる。その時の鈴ちゃんの気持ちを想像すると、いたたまれなくなる。
「そして……」
鈴ちゃんの表情が一変した。温かみのあった瞳が、急に氷のように冷たくなる。
「見てしまった」
その声は、まるで呪詛のように重い。
「私がこの世で一番……見たくなかったものを」
彼女の視線が僕を貫く。その瞬間、僕の脳裏に鮮明な記憶が蘇った。
あの日。雅と葵と三人で公園にいた時のこと。二人が僕に向かって言った、あの言葉——
「私を物語の主人公にして」
その約束が生み出した『二人と一人』という物語。そして、そこから始まったすべての出来事。
まるで運命の歯車が、すべてあの瞬間に収束していくような感覚。背筋に冷たいものが走る。
鈴ちゃんは、僕たちの幸せそうな約束の場面を見てしまったのだ。自分が苦しんでいる時に、僕たちが笑い合っている姿を。
僕の拳が、再び震え始めた。
だがその瞬間、鈴ちゃんの瞳が、突然炎のように燃え上がった。
「私たちが、あんな目に遭っているのに……」
彼女の声が震える。それは悲しみではなく、抑えきれない怒りの震えだった。
「なんで、あの人たちは……あんなにも幸せそうに笑っていられるの?」
拳を握りしめながら、鈴ちゃんは僕を睨みつける。その視線には、長い間溜め込まれていた憎悪が宿っていた。
「汚れもなく……傷つくこともなく……まるで約束された幸せが、当然のようにそこにあって」
彼女の声が次第に大きくなっていく。
「信じられる?純真無垢なまま、何も知らないまま……そんな光景が、私の目の前に広がっていたのよ?」
風が止んだ。まるで空気自体が息を潜めているかのように、屋上に重い静寂が降りる。
「だから……」
鈴ちゃんの瞳に、異様な光が宿った。まるで何かに憑かれたかのように、不気味に揺らめいている。
「壊したかった……」
その言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さる。
「奪いたかった……私たちが手にするはずだった、陽だまりのような……あの温かい居場所を!」
叫ぶように言いながら、鈴ちゃんは再びスマートフォンを掲げた。画面が午後の陽射しを反射して、きらりと光る。
「鈴ちゃん!」
僕は反射的に手を伸ばした。松葉杖がガタリと音を立てる。一歩でも近づいて、彼女を止めなければ——
「動かないで!」
鈴ちゃんの叫び声が、屋上に響き渡った。その声には、今まで聞いたことのないほどの迫力があった。
「くっ……!」
僕は歯噛みしながら足を止める。でも、このまま黙っているわけにはいかない。
「僕の知ってる鈴ちゃんは……」
声を振り絞るように、僕は言葉を続けた。
「こんなことをするような子じゃなかったはずだ!」
必死に、彼女の心に届くように。
「こんなバカなこと……頼む……頼むからやめてくれ、鈴ちゃん!」
僕の訴えに、鈴ちゃんは冷ややかな笑みを浮かべた。
「こんな子?」
くすくすと笑い声を漏らしながら、彼女は首を振る。
「ふふ……笑わせるわね……啓に、私の何が分かるって言うの?」
その笑い声が、だんだん乾いたものになっていく。
「それでも……」
僕は言葉を詰まらせながらも、諦めなかった。
「それでもだ!僕は信じている!僕が知っている鈴ちゃんを!」
心の底から、そう信じていた。どんなに変わってしまったとしても、鈴ちゃんの優しさは失われていないはずだ。
「ははははっ!」
突然、鈴ちゃんが高らかに笑い出した。それは狂気を帯びた、恐ろしい笑い声だった。
「本当に笑っちゃう!いいわ、教えてあげる」
彼女は嘲笑うような目で僕を見下ろしながら続ける。
「あなたの知らない、本当の私を!」
「本当の……?」
僕は呆然と聞き返した。
鈴ちゃんは空をゆっくりと見上げる。まるで過去の記憶を辿るように、遠い目をして。
「あの日以来……私はずっと考えていた」
彼女の声が、急に静かになった。さっきまでの激情が嘘のように。
「どうしたら、あなたたちの関係を壊せるか」
その言葉に、僕の背筋に冷たいものが走る。
「どうしたら、啓を再び取り戻せるか……」
鈴ちゃんの口元に、薄い笑みが浮かぶ。それは自嘲的で、同時に恐ろしく冷たい笑みだった。
「そして、ある日……私は啓の後を追って、あの図書館に行ってしまった」
僕の喉が、ごくりと鳴った。嫌な予感が胸の奥で膨らんでいく。
「そう……それが、あの地獄の再会だとも知らずに」
鈴ちゃんの虚しい笑い声が、風に乗って消えていく。
僕は震える声で、彼女の言葉を継いだ。
「また……出会ってしまったんだね……」
一拍置いて、恐る恐る口にする。
「あの男……瑞樹と」
鈴ちゃんの肩が小さく震えた。
まるで重い荷物を背負い直すような仕草で、彼女は深く息を吸い込む。その表情には、これから話すことへの恐れと、同時に諦めにも似た覚悟が浮かんでいた。
「……ええ」
力なく頷く鈴ちゃん。その動作さえも、まるで糸が切れた人形のように見えた。
「あいつは……笑いながら言ったわ」
彼女の瞳に、恐怖の色が宿る。まるであの時の記憶を追体験しているかのように。
「『君のあの時の写真を持ってる』って」
僕の全身に悪寒が走った。
「写真……?」
「それを聞いて、私は愕然とした」
鈴ちゃんの声が震える。
「小夏は……あの時、あいつに動かぬ証拠を撮られていたの」
僕の膝に力が入らなくなった。松葉杖にもたれかからなければ、その場に崩れ落ちていただろう。
「私たち家族を狂わせた……あの出来事の一部始終を……」
彼女の言葉一つ一つが、僕の心を深く抉る。なんて残酷な話だ。なんて理不尽な現実だ。
僕は項垂れた。言葉が見つからない。どんな慰めも、どんな励ましも、あまりにも軽すぎる。
「啓に知られたくなければ……また明日、ここに来いって」
鈴ちゃんの声が、さらに小さくなる。
「奴が何を考えているか、すぐに分かった。あの日のように、また……」
彼女は自分の腕を抱きしめるように、体を小さく縮こまらせた。
「怖かった。すごく怖かった」
その姿が、あまりにも痛々しくて、僕は思わず手を伸ばしそうになる。でも、届かない距離にいる彼女を見つめることしかできない。
「どうしていいか分からなくて……私は家に帰って、小夏に相談したの」
そこまで言って、鈴ちゃんが固唾を呑んだ。何か重大なことを話すための、長い沈黙。
校舎の向こうから聞こえてくる撮影の音が、この緊張した空気を際立たせる。僕は息を潜めて、彼女の次の言葉を待った。
「小夏は……親身になって私の話を聞いてくれた」
鈴ちゃんの表情に、一瞬だけ温かさが戻る。
「それだけで、私の心は少し晴れた気がした……でも——」
その表情が、急激に変わり始めた。温かみのあった瞳が、氷のように冷たくなっていく。まるで別人の顔に変貌するかのように。
「でも……」
彼女の声に、今まで聞いたことのない冷酷さが宿る。
「鈴ちゃん……?」
その変化を感じ取った僕は、思わず彼女の名前を呼んだ。でも、彼女の瞳はもう僕を見ていない。どこか遠い場所を見つめながら、独り言のように呟き始める。
「言うべきじゃなかった……」
その声は、まるで自分自身を責めているかのよう。
「言ってはいけなかったのに……」
だんだん声が大きくなっていく。
「でも……汚されたくなかったの!」
突然、鈴ちゃんが叫んだ。その声は校舎に反響して、複数の鈴ちゃんが同時に叫んでいるように聞こえる。
「もう一度、啓のもとに辿り着くために!」
彼女の瞳に狂気じみた光が宿る。
「だって、私にはまだ未来があるのよ!?やり直せる未来が!」
拳を握りしめて、全身を震わせながら叫び続ける鈴ちゃん。
「でも小夏には違うでしょ!?閉ざされた未来しか、あの子にはなかったんだから!」
僕の背筋に、冷たいものが走った。嫌な予感が確信に変わっていく。
「だから私は間違ってない!間違ってなんかなかったはずよ!」
涙を流しながら、鈴ちゃんが僕に縋るような目を向けた。
「ねえ、そうでしょ?そうだって言ってよ、啓!」
張り裂けんばかりの叫び声。その声に込められた絶望と狂気が、僕の心を打ちのめす。
「鈴ちゃん……」
僕はハッとして口を開いた。額に冷たい汗が流れ落ちる。握った拳が震えている。
「まさか君は……小夏ちゃんに……」
言いたくない。認めたくない。でも、彼女の言葉が示している意味は、あまりにも明白だった。
風が止んだ。鳥の鳴き声も聞こえない。撮影の音すらも遠ざかっていく。この世界で、僕と鈴ちゃんだけが取り残されたような静寂。
雲が太陽を遮り、屋上に影が差した。暖かかった午後の陽射しが急に冷たく感じられる。
「……ええ」
鈴ちゃんが涙を流しながら、顔を醜く歪めて答えた。
「言ったわ……私の身代わりになってって……ね」
その言葉が風に乗って消えていく中、僕たちは長い間、ただ黙って立ち尽くしていた。
真実の重さが、午後の空気を重く染めていく。




