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第111話 アリアドネの糸

「現在、警視庁本庁舎前にいます」


 画面の中で、リポーターが強い風に髪を靡かせながらマイクを握っている。背後には黒い警察車両が映り、その周りを取り囲む大勢の報道陣の姿があった。


「本日午前九時頃、殺人未遂、並びに未成年殺害容疑で再逮捕された都内医学生、天音瑞樹容疑者、二十二歳が、いま警視庁本庁舎へと到着しました」


 テロップが画面下部に流れる。『都内医学生 天音瑞樹容疑者(22)を殺人容疑で再逮捕』


 車のドアが開かれ、手錠をかけられた男が警察官に付き添われて降りてくる。顔にはタオルがかけられているが、その足取りはおぼつかない。フラッシュが一斉に焚かれ、記者たちの怒号が飛び交う。


「瑞樹容疑者!何か一言お願いします!」


「今回の殺人未遂と、過去の事件についてはどうお考えですか!」


 しかし、男は一言も発することなく、警察官に囲まれながら庁舎の中へと消えていった。


「警察関係者によりますと、瑞樹容疑者は過去に未成年者の殺人事件にも関与していた疑いがあり、今後、関連する多くの余罪についても追及していく方針だということです」


 画面がスタジオに切り替わる。落ち着いた表情のニュースキャスターが、向かいに座る眼鏡をかけた中年男性に向き直った。


「田中解説委員、今回の事件についてはいかがお考えでしょうか」


「そうですね……」


 眼鏡の男性が資料に目を落としながら答える。


「もし過去の事件への関与が事実であれば、これは単発的な犯行ではなく、計画的かつ継続的な犯罪行為と判断されるでしょう。このような重大事件の場合、極刑も視野に入れた厳正な処罰が下される可能性が高いと思われます」


 僕は小さくため息をついて、スマホの画面から顔を上げた。


 教室には三月の暖かな陽射しが差し込んでいる。昼休みも半ばを過ぎ、生徒たちはそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。弁当を食べている者、友人とおしゃべりに興じている者、宿題に追われている者……いつもと変わらない、平和な日常風景。


 机の上には、まだ手をつけていない弁当が置かれている。食欲がないわけではないのだが、どうにも箸が進まない。


 あれから、もう二週間が経った。


 瑞樹との最後の対峙の後、僕はすぐに響姉に連絡を入れた。すべてが終わったことを伝えると、響姉は電話口で大泣きしながら、車を飛ばして迎えに来てくれた。そのまま病院に直行し、診断の結果、左足の骨折が判明。幸い軽傷だったものの、念のため三日間入院することになった。


 病室には次々と人が訪れた。父さんと母さんは僕を見るなり涙を流し、同時に散々叱られた。真凛も神楽も、雅も葵も、みんな泣きながら僕を抱きしめてくれた。蘭子まで来てくれて、「先生のバカ!」と言いながら涙をぼろぼろこぼしていた。


 警察の取り調べも病室で受けた。事情聴取は思ったより長時間に及んだが、証拠映像があったおかげで、僕の証言に疑いをかけられることはなかった。


 退院後は松葉杖をつきながらの登校が始まった。最初の一週間は学校中が大騒ぎだった。「蘭学事啓の正体」として僕の素性が明かされ、廊下を歩くたびに注目の的となった。でも、それもようやく落ち着きを見せ始めている。


「ねえねえ、啓!」


 不意に右側から声をかけられ、僕は顔を上げた。神楽が椅子を僕の机に寄せて、キラキラした目でこちらを見つめている。


「また例の話、聞かせてよ!」


「瑞樹さんと屋上で話した時のお話です!」


 今度は左側から真凛の声。振り向くと、彼女もまた期待に満ちた表情で僕を見詰めていた。


「また?」


 僕は思わず苦笑する。


「それ、もう何十回も話したような気がするんだけど……」


「ええ〜、でも何度だって聞きたいんだもん」


 神楽が拗ねるように唇を尖らせながら、僕の右腕に自分の腕を絡めてくる。その距離の近さに、僕の心臓が跳ねた。


「特に啓が『お前は誰も支配できない』って言うところ!そんな強い啓、普段見られないもの」


「私もです!」


 真凛も負けじと僕の左腕を掴む。


「いつもの優しい啓君も素敵ですけど、その時の凛々しい啓君をそうぞうしたらもう……!」


「ちょ、ちょっと二人とも……」


 両側から挟まれ、僕は顔が熱くなるのを感じた。真凛の柔らかな感触が左腕に、神楽の体温が右腕に伝わってくる。


「分かった、分かったから!その、当たってるから……」


「あら、当ててるのよ〜」


 神楽がにやりと笑いながら、わざと僕の耳元に息を吹きかけてくる。ぞくりとした感覚が背筋を駆け上がった。


「神楽ずるいです!」


 それを見た真凛が対抗するように、今度は僕の腕を自分の胸元に引き寄せる。柔らかくて温かい感触に、僕の顔は真っ赤になった。


「……ここ、教室だって忘れてない?」


 僕は必死に小声で抗議するが、二人は全く聞く耳を持たない。


「いいからほら、早く話して」


 神楽が甘えるような声で催促してくる。


「お……お前は……」


 観念した僕は、やけになって声に出した。


「誰も支配できない。今までも、これからも……ああ、もうこれでいいでしょ!」


「きゃあああ!」


 真凛と神楽が同時に声を上げ、嬉しそうに僕にしがみついてくる。


「ねえねえ、今度は私のことも『お前』って呼んでみて?」


 神楽が目を輝かせて言う。


「私も!啓君、私のこともお前って呼んでください!」


 真凛が慌てたように手を上げる。


「真似っ子〜」


「真似っ子じゃないもん!」


 二人がじゃれ合い始める様子を見ながら、僕は小さくため息をついた。しかし、その穏やかな空気を壊すような声が聞こえてきた。


「相沢の奴……まさか本当にすげえ奴だったなんてな……」


「ああ……正直見直したよ。でも今は殺意しか湧かねえ……」


 クラスメートの男子たちの声。彼らの視線がこちらに向けられているのを感じ、僕は思わず目を逸らした。


 確かに以前と比べれば、クラスでの風当たりは良くなったはずだ。「陰キャ」「根暗」といった陰口を叩かれることもなくなった。でも、なぜか今の方が居心地が悪い気がする。男子たちの視線には、明らかに恨み辛みの様なものが混じっていた。


「あなたたち、いい加減にしなさい」


 突然響いた声に振り向くと、そこには呆れた表情の雅が立っていた。


「何よ、お邪魔虫」


 神楽が不満そうに唇を尖らせる。


「あなたたちも午後から撮影でしょう?準備はしなくていいの?」


 雅の言葉に、二人ははっとした顔になった。


「あ……そうだった」


「はあ……お前って呼ばれたかったのに……」


 真凛が残念そうに立ち上がる。


「ちぇっ、また後でね、啓」


 神楽も渋々席を立った。二人が教室を出て行く姿を見送っていると、雅が僕の方を向いた。


「啓……」


 その声音には、いつもと違う緊張感が混じっていた。


「来てるわよ」


 雅の視線が教室の入り口に向けられる。僕もつられてそちらを見ると、扉の陰に小さな人影が見えた。


 ツインテールに結った髪、小柄な体格——笹原小夏。


 心臓が強く跳ねた。ついに、彼女が来たのか。


 僕は覚悟を決めて、バッグを手に取る。松葉杖をついてゆっくりと立ち上がり、扉へと向かった。すべてを終わらせる時が、ついに来たのだ。


教室を出ると、小夏ちゃんは何も言わずに歩き始めた。


 廊下には昼休みを楽しむ生徒たちの声が響いている。部活動の打ち合わせをしているグループ、購買で買ったパンを頬張りながら談笑している友人同士、宿題を写し合っている生徒たち——いつもと変わらない光景が広がっていた。


 しかし、僕たちの周りだけは違っていた。まるで見えない壁に囲まれているかのような、静謐な空間があった。


 小夏ちゃんは僕の松葉杖での歩行速度に合わせて、ゆっくりと足を進めている。けれど一度も振り返ることはない。ただ黙々と、目的地へ向かって歩いているだけだった。


 その後ろ姿を見つめながら、僕は胸の奥で様々な感情が渦巻いているのを感じていた。不安、緊張、そして——ほんの少しの期待。


 やがて、階段の前にたどり着いた。上へと続く段々を見上げながら、僕は小さくため息をつく。松葉杖での階段昇降は、思った以上に大変だ。


 その時、小夏ちゃんがゆっくりと振り返った。そして、無言で手を差し伸べてくる。


 僕はその手を見つめた。小さくて、少し震えているようにも見える手。でも、僕は首を横に振った。


「大丈夫。一人で登れるから」


 小夏ちゃんはわずかに眉を寄せたが、何も言わずに手を引っ込めた。そして再び前を向き、階段を上り始める。


 一段、また一段。松葉杖を慎重に使いながら、僕も後に続いた。金属と床が触れ合う音が、静かな階段に響く。時々、小夏ちゃんが立ち止まって僕を待ってくれているのが分かった。


 ようやく最上階にたどり着くと、小夏ちゃんは屋上への扉の前で立ち止まった。重たそうな鉄の扉に手をかけ、ゆっくりと押し開ける。


 扉の向こうから、明るい光が差し込んできた。


 屋上に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず目を細めた。三月の午後の陽射しが、とても暖かく感じられる。見上げれば、雲一つない澄み切った青空が広がっていた。


 風は穏やかで、頬を優しく撫でていく。遠くから聞こえてくる街の音も、ここまで届くと心地よいBGMのようだった。こんなに美しい日に、こんなに重い話をしなければならないなんて——そんな皮肉めいた思いが胸をよぎる。


 小夏ちゃんは屋上の中央付近まで歩いていくと、そこで足を止めた。そして、ゆっくりと振り返る。


 その瞬間、僕は息を呑んだ。


 彼女の顔には、今まで見たことのないような満面の笑みが浮かんでいた。純粋で、屈託がなくて、まるで幼い子供のような無邪気さを湛えた笑顔。


「ようやく……本当にようやく、すべて終わりましたね、啓先輩」


 その声も、いつもの計算高さや皮肉めいた響きとは全く違っていた。心の底から安堵しているような、穏やかで温かい声音。


「これで、きっとお姉ちゃんも安らかに眠れます」


 小夏ちゃんは深々と頭を下げた。


「本当に……本当にありがとうございました。先輩のおかげです」


 僕はその様子を見つめながら、なぜか胸の奥がざわついているのを感じていた。確かに彼女の言う通り、瑞樹は逮捕され、仇は討たれた。でも……。


「今日は……やけに素直なんだね」


 僕はできるだけ冷静を装って言った。しかし、自分でも分かるほど声が震えている。


「素直って……ひどいですね」


 小夏ちゃんが苦笑いを浮かべる。


「だって、もう私たちがいがみ合う必要なんてないじゃないですか。瑞樹も捕まったし、真実も明らかになった。これからは先輩とも、普通に……いえ、仲良くやっていけると思うんです」


 彼女の言葉には、確かに心からの安堵が感じられた。でも、それと同時に——僕の中で、ある確信が固まりつつあった。


「そうだね……」


 僕は小さく息を吸い込む。心臓の鼓動が早くなっているのが分かった。


「でも、それは……君が真実を話すことから始まるんじゃないかな」


 その言葉を口にした瞬間、小夏ちゃんの表情がわずかに変わったような気がした。ほんの一瞬、笑顔の奥に何か別の感情が垣間見えたような——。


「真実……?」


 小夏ちゃんが首を傾げる。その仕草は、いつもと変わらず愛らしかった。


「啓先輩、いったい何のことを言ってるんですか?お姉ちゃんのことなら、もう全部先輩が解決してくださったじゃないですか」


 彼女は僕の顔を覗き込むようにして、おかしそうに笑う。


「まさか、まだ何か心配事でもあるんですか?」


 しかし、僕の胸の奥で燃えていた確信は揺らがなかった。むしろ、彼女のその反応が、僕の推測が正しいことを証明しているような気さえした。


「まだ……」


 僕は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。風が頬を撫でていく。穏やかで、暖かくて、とても現実とは思えないほど美しい午後だった。


「まだ終わっていないよ。すべてを明らかにできていない」


 今度は、迷いのない声で言い切った。


 小夏ちゃんの表情が、微妙に変わる。困惑と、わずかな警戒心が混じったような顔。


「ちょっと……さっきから先輩、何を言ってるんですか?」


 彼女の声に、初めて苛立ちの色が混じった。


「今日の先輩、なんだか変ですよ?もしかして、あの取り巻きの女の子たちに何か変なことでも吹き込まれたりしました?」


 その言葉の端々に、今まで隠されていた本性が顔を覗かせる。


「あの子たち、先輩を手玉に取るのだけは本当に上手ですからね」


 嘲笑うような響きが、声に混じり始めていた。


「そんなことはない」


 僕は即座に否定した。


「彼女たちは……僕の大切な人たちだ」


 その言葉に、小夏ちゃんの目が細くなった。


「はぁ……」


 深いため息。そして、どこか呆れたような表情。


「重症ですね、先輩も。まだ目が覚めてないんですか?」


 今度は、いつもの小夏ちゃんの口調に戻っていた。計算高く、皮肉めいていて、どこか冷たい響き。


「やっぱり……彼女たちには消えてもらった方が、先輩も目を覚ましやすいのかもしれませんね」


 その時、小夏ちゃんの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「消えて……?」


 僕の心臓が激しく跳ねた。血の気が引いていくのが分かる。


「待って……もしかして、彼女たちに……何かしたの?」


 鼓動が早くなる。額に、冷たい汗が滲んできた。


 その瞬間——


 キーンコーンカーンコーン。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが、校舎全体に響き渡った。


チャイムの音が屋上に響き渡り、やがて静寂が戻ってきた。


「昼休み……終わっちゃいましたね」


 小夏ちゃんが、どこか寂しそうに呟く。その表情には、まるで楽しい時間が過ぎ去ってしまったことを惜しむような、子供らしい純真さが浮かんでいた。しかし僕は、その演技めいた仕草にもう騙されることはなかった。


「答えてくれ」


 僕は一歩、彼女に近づいた。松葉杖が屋上のコンクリートを叩く音が、やけに大きく響く。


「彼女たちに……いったい何をしたんだ?」


 声に込めた真剣さが、自分でも分かるほど震えていた。胸の奥で不安が膨らんでいく。もし真凛や神楽に何かあったら——そう思うだけで、血の気が引いていく。


「ほら」


 小夏ちゃんが、ふいに視線を逸らした。その先を指差しながら、まるで偶然を装うように言う。


「噂をすれば……って言うじゃないですか」


 僕も彼女の視線を追って振り返る。そこには、西棟の屋上が見えていた。大きな鉄製のフレームが組まれ、その周りには撮影機材が所狭しと並んでいる。映画『二人と一人』の撮影現場だった。


 そして、そのフレームの中に——学生服を着た真凛と神楽の姿があった。


 二人とも、いつもと違って少し緊張した面持ちだ。監督やスタッフたちに囲まれながら、最後の打ち合わせをしているようだった。


「今日の撮影って確か……」


 小夏ちゃんの声が、僕の背中越しに聞こえてくる。


「屋上で雨に降られながら、お互いに想い人への気持ちを打ち明けるシーンでしたっけ?」


 僕の血管を、氷水が流れるような感覚が走った。振り返ると、小夏ちゃんが無邪気な笑顔を浮かべている。


「なんで……撮影の内容を知ってるんだ?」


「そりゃあ、同じ学校に出演者がいるんですから」


 彼女は肩をすくめて見せる。


「台本を盗み見る機会なんて、いくらでもありますよ。ロッカーに入れっぱなしにしてたり、教室の机の上に置きっぱなしにしてたり……案外、無防備なものです」


 その言葉の裏に潜む計画性に、僕は寒気を覚えた。


「それを知って……君はいったい何がしたいんだ?」


「何を……ですか?」


 小夏ちゃんが首を傾げる。その仕草は愛らしいが、その目の奥には冷たい光が宿っていた。


「ふふ……そうですね……」


 彼女の口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「彼女たちが……どうやったらこの世から消えてくれるか、なんて考えているかもしれませんね」


 その瞬間、僕の全身に戦慄が走った。松葉杖を支えに、慌ててその場から離れようとする。真凛と神楽のもとへ——彼女たちを守らなければ。


「それ以上……」


 背後から、静かだが威圧的な声が響いた。


「動かないでください、先輩」


 振り返ると、小夏ちゃんがスマートフォンを手にしていた。画面には何かのアプリが開かれているようだが、この距離からでは詳細は見えない。


「それ以上動けば……」


 彼女の声が、蜜のように甘く、そして毒のように冷たくなる。


「彼女たちとは、二度と会えなくなるかもしれませんよ?」


 その笑みは、今まで見た中で最も恐ろしいものだった。


 僕は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。松葉杖を握る手に、じっとりと汗が滲んでいた。


「何が目的なんだ……?」


 歯を食いしばりながら、僕は彼女を睨みつけた。


「彼女たちに危害を加えようとする理由は何なんだ?どうして、そこまで——」


「目的ですか?」


 小夏ちゃんが首を傾げながら、まるで難しい問題を考えるような素振りを見せる。


「う〜ん、そうですね……強いて言えば……」


 一拍置いて、彼女は満面の笑みを浮かべた。


「啓先輩が彼女たちを諦めて、私のもとに来てくれることですかね」


 その言葉に、僕は言葉を失った。


「僕が……君のもとへ?」


「はい」


 彼女は迷いなく頷く。


「私、啓先輩が欲しいんです。ずっと、ずっと欲しかった。でも……」


 視線を西棟の方へ向けながら、小夏ちゃんが続ける。


「あの子たちが邪魔なんですよね。先輩の目を私に向けさせるには、ちょっと障害が多すぎて」


 その口調は、まるで邪魔な虫を払うような軽さだった。


「そんな理由じゃ……ダメですか?」


「君が……僕を?」


 僕は信じられない思いで聞き返した。


「あんなに僕を恨んでいた君が?」


「はい」


 即答だった。


「お姉ちゃんと同じように……私も啓先輩のことが好きになっちゃったんです。だから、どうしても——」


「もういい」


 僕は彼女の言葉を遮った。大きく首を横に振りながら、強い意志を込めて言う。


「もういいんだ……そんな嘘をつかなくても」


「嘘?」


 小夏ちゃんの目が、わずかに細くなる。


「嘘なんかじゃありませんよ。冗談じゃなく、本当に好きになったんです。先輩のことが——」


「違う」


 僕は首を振る。


「僕が言っているのは、そんなことじゃない」


 胸の奥で、確信がより強固なものになっていく。もう迷いはなかった。


「じゃあ……何が嘘だって言うんですか?」


 小夏ちゃんの声に、初めて動揺の色が混じった。


「もう……」


 僕は深く息を吸い込む。風が頬を撫でていく。暖かくて、穏やかで、とても現実とは思えないほど美しい午後だった。


「もう嘘をつかなくてもいいんだ。もうやめよう、こんなこと……」


「だから、何の嘘だって——」


「もう……」


 僕は拳を強く握りしめた。言わなければならない。言葉にしなければ、この嘘は永遠に続いてしまう。


「もう、あの頃には戻れないんだよ」


 小夏ちゃんの表情が、一瞬だけ凍りついた。まるで時が止まったかのように、彼女の瞳から一切の感情が消え失せる。


「小夏……」


 僕はまっすぐに彼女を見つめる。もう逃げない。もう嘘はつかない。真実と向き合うんだ。


「いや……」


 風が止んだ。世界から音が消えた。遠くの街の喧騒も、鳥の鳴き声も、すべてが静寂の中に沈んでいく。


 僕は意を決して、その名前を口にした。


「笹原……鈴ちゃん」


 ——その瞬間。


 小夏ちゃんの瞳が、大きく見開かれた。握りしめていたスマートフォンが、震える指先から滑り落ちる。コンクリートにぶつかって響く、乾いた音。


 彼女の唇が、かすかに動いた。何かを言おうとして——でも、言葉にならない。


 遠くから「アクション!」という監督の声が響いた。


 人工的な雨音が西棟から聞こえ始める。まるで時を告げる鐘のように、重く、切なく。


 三月の青空の下、二人だけの世界で——


 ついに、すべての仮面が剥がされた瞬間だった。


 鈴ちゃんは、ただ立ち尽くしていた。頬を伝う涙が、午後の陽射しにきらりと光って見えた。

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