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第109話 仮面の下の真実

 雨粒が僕の頬を叩く感触が、妙にリアルに感じられた。


 屋上の向こう側に立つ瑞樹の姿が、街灯の光でぼんやりと浮かび上がっている。黒いレインコートを羽織った彼は、まるで影から抜け出してきた存在のようだった。


 僕は濡れた髪を手で押さえながら、彼を見つめる。心臓の音が雨音よりも大きく聞こえて、胸の奥で太鼓のように響いていた。


「……まさか、たった一人で来るなんてね」


 瑞樹の声が雨に混じって聞こえてくる。穏やかな口調だが、その奥に潜む何かが僕の背筋を凍らせた。


「思ったより勇敢じゃないか、啓君」


 彼は一歩、こちらに近づく。革靴が濡れたコンクリートを踏む音が、やけに大きく響いた。


 僕は答えない。


 ただ、雨に打たれながら立っている。制服がびっしょりと濡れて重くなっているのに、不思議と寒さは感じなかった。


「お姉さんは?」


瑞樹が小首を傾げる。


「いつも一緒にいるみたいだったけど、今日は違うんだね」


 その問いかけに、僕はようやく口を開いた。


「そうしないと……」


 声が少し掠れていた。雨のせいか、緊張のせいか。


「そうしないと、貴方が来てくれないと思ったから」


 瑞樹の眉がわずかに上がる。興味深そうな表情だった。


「ほう?つまり僕を……」


「ええ」


僕は頷く。


「誘い出したかったんです」


 その瞬間、瑞樹の表情が変わった。驚きから、やがて愉快そうな笑みに変わっていく。


「君、案外と面白いことを言うじゃないか」


 彼は手を叩いて笑い始めた。その笑い声が屋上に響き、どこか不気味な反響を作り出している。


「でも、それで?君一人で僕に何をするつもりなんだい?」


 瑞樹の声が急に冷たくなる。さっきまでの余裕ある口調から、底冷えするような低い声に変わった。


「話をしたかっただけです」


 僕は背筋を伸ばして答える。雨が激しくなって、視界が白くかすんでいた。


「話?」


 瑞樹が笑う。今度は嘲笑だった。


「君と僕が?対等に?」


 その言葉と同時に、突然鋭い痛みが腹部を貫いた。


「うっ……!」


 息が詰まる。瑞樹の足が僕の腹に入っていたのを、痛みで初めて理解した。


「がはっ……!」


 体が後ろによろめく。膝が震えて、倒れそうになりながらも必死に立っていようとする。


「君の行動は全て把握していたよ」


 瑞樹が足元のバッグに手を伸ばしながら言う。雨で濡れた彼の髪が額に張り付いて、表情がより一層冷たく見えた。


「最初から一人だということもね」


 バッグのファスナーが開かれる音が、雨音に混じって聞こえる。中から現れたのは、見慣れない機械だった。


「そ、それは……?」


 僕は腹を押さえながら問いかける。痛みで声が震えていた。


「これ?」瑞樹が機械を手に取る。「少し説明してあげようか。君も興味があるだろう?」


 彼の口調が、まるで教師が生徒に説明するような調子に変わる。


「ドローンさ、最新式のね」


 瑞樹は機械を愛でるように撫でながら続ける。


「君が言った通りだ。僕は用心深いんでね。君の周りに誰もいないか、しっかりと確認させてもらった」


 僕は痛みを堪えながら、彼の言葉を聞いている。


「もちろん、ここまで来る道も計算済みだ。防犯カメラの死角を通って、誰にも見られずにね」


「な、なるほど……」


 僕が息を整えながら言う。


「本当に……用心深い」


「そうとも」


 瑞樹が満足そうに笑う。


「特に君のような……予測不能な相手にはね」


 彼がバッグの奥から別の機械を取り出す。小さな箱のような形をしていて、いくつかのランプが点滅していた。


「これは何だと思う?」


 瑞樹が僕に問いかける。まるでクイズでも出しているような口調だった。


「さあ……」


「医療用の通信遮断装置だよ」


 彼が得意げに説明し始めた。


「本来は病院で使うものだけど、個人で使うのは……まあ、違法だね」


 彼は肩をすくめて見せる。


「でも僕の家系なら、こういうものを手に入れるのは簡単なんだ。医療機器メーカーとの付き合いも長いしね」


 瑞樹がバッグを足元に置き、ゆっくりと黒い手袋を取り出した。


「録音されても困るし、助けなんて呼ばれたらもっと困る」


 手袋を両手にはめながら、彼が僕を見つめる。


「だから、ここは完全に外界から遮断された空間というわけだ」


 それを見て、僕の中で何かが動いた。本能的な恐怖と、同時に湧き上がる別の感情。


 僕は手すりの方へ走り出した。


 足が滑りそうになりながらも、必死に屋上の端へ向かう。雨で濡れたコンクリートが靴底で滑り、何度もよろめきそうになった。


「無駄だよ」


 瑞樹の声が背後から聞こえる。焦りのない、むしろ楽しんでいるような口調だった。


「半径二十メートルは機器の許容範囲だからね」


 僕が手すりにたどり着いたとき、彼の声がさらに近くで響いた。


「おっと、そんなところに行って大丈夫かい?」


 振り返ると、瑞樹がゆっくりとこちらに近づいてくる。手袋をはめた手を、まるで演奏家のように優雅に動かしながら。


「後がないよ?」


 彼の笑みが、雨に濡れた顔に貼り付いている。


 僕は手すりに背中を預けながら、息を整えた。


 心臓の鼓動が早い。でも、恐怖だけではなかった。


 別の何かが、胸の奥で燃えている。


 僕は手すりに背中を預けたまま、ゆっくりと後ろを振り返った。


 眼下には、西棟の建て直し工事で使われる資材が山積みになっている。鉄骨やパイプが無造作に積み上げられ、その上にはブルーシートが被せられていた。雨に濡れたシートが風でばたつき、不気味な音を立てている。


 随分と高い場所だ。もしここから落ちたら……。


「あそこに飛び込んでみてはどうかな?」


 瑞樹の声が背後から聞こえてくる。彼の口調は相変わらず穏やかだが、その内容は恐ろしいものだった。


「運が良ければ、資材のおかげで助かるかもしれないよ?まあ、無事……とはいかないだろうけどね」


 彼がにやりと笑っているのが、振り返らなくても分かった。


 僕は手すりを握りしめながら、静かに口を開く。


「余程……追い詰められているんですね」


「何?」


「貴方のお父さんも、大学の名誉教授を辞職されたとか……」


 その言葉を聞いた瞬間、瑞樹の表情が一変した。さっきまでの余裕ある笑みが消え、代わりに冷たい怒りが浮かんでいる。


「ふん……雅から聞いたのか」


 彼の声が低くなる。雨音に混じって、どこか獣のような唸り声のようにも聞こえた。


「全く、僕の周りは理解力のない奴ばかりだ」


 瑞樹が一歩、こちらに近づく。革靴がコンクリートを踏む音が、やけに重く響いた。


「君の流した噂のせいで……」


 また一歩。


「僕は全てを失った」


 さらに一歩。彼との距離がどんどん縮まっていく。


「名家の継承も、輝かしい名誉も、地位も……病院にも噂が広まってしまったよ」


 瑞樹の声に、押し殺した怒りが混じり始めている。


「本当によくもまあ、やってくれたものだ……君は」


 その冷たい視線を受けながら、僕は真っ向から彼を見つめ返した。


「自業自得ですよ」


 僕の声は、思ったより静かだった。雨に濡れた髪から水滴が頬を伝って落ちるのも構わず、まっすぐに彼の目を見つめる。


「貴方は自ら破滅を選んだんです」


 その瞬間、瑞樹の理性の糸が切れた。


「やり過ぎたんだよ!君は!」


 彼が僕に向かって襲いかかってくる。両手を伸ばし、獣のような勢いで突進してきた。


「誰か……!」


 僕は反射的に助けを呼んだ。声が雨と風に掻き消されていくのが分かる。


「ははは!」


 瑞樹の笑い声が屋上に響く。狂気を帯びた、恐ろしい笑い声だった。


「この雨で君の声が届くとでも?浅はかだな、君は」


 彼は僕の襟首を掴みながら、懐かしそうに呟いた。


「ああ……あの子もそうだったな。確か、あの日も……こんな雨だったよ」


 その言葉に、僕の心臓が凍りついた。


「……あの子?」


 震える声で問いかける。


「まさか……?」


「ああ、ご名答だ」


 瑞樹が口元を歪める。


「そのまさか……鈴のことだよ、幼馴染の啓君」


 その名前を聞いた瞬間、僕の中で何かが燃え上がった。


「やっぱり……貴方が鈴ちゃんを……!」


 激しい怒りが胸を駆け上がる。拳を握りしめ、瑞樹を睨みつけた。


「あの子がね」


 瑞樹が嬉しそうに語り始める。


「僕の子供を産みたいと言い出したんだ。全く、聞き分けのない子だった」


 僕は言葉を失った。彼の口から出る言葉の一つ一つが、鋭い刃のように胸を突き刺す。


「僕があれほど堕ろせと言ったのに……親の同意書なんて、いくらでも捏造できたのに。全く、馬鹿な女だったよ」


 瑞樹の笑みがさらに深くなる。


「せっかく愛し合っていた仲だったのに……彼女には死んでもらうしかなかった」


「貴方は……」


 僕の声が震えていた。怒りで、悲しみで、やり場のない感情で。


「人の命を何だと思ってるんですか!」


 叫ぶような声が、雨に混じって響いた。


 その瞬間、瑞樹が僕の胸ぐらを掴んだ。力強い手が制服を握りしめ、僕の体を持ち上げる。


「あぐっ……!」


 息が詰まる。足が地面から離れそうになりながら、必死に踏ん張った。


「おっと、すまないね」


 瑞樹が偽善的な笑みを浮かべる。


「幼馴染を取ってしまって。でも彼女は、君より僕を選んだんだよ。嫉妬は女々しいぞ、啓君」


 手に込められた力がさらに強くなる。呼吸が苦しくて、意識が朦朧としそうになった。


「す……鈴ちゃんは……」


 僕は必死に抵抗するように声を張り上げる。


「お前を選んでなんか……い、いない!」


「彼女は僕を選んだんだ」


 瑞樹が僕の顔に自分の顔を近づけ、嘲笑うように言う。


「現実を受け止めろよ、啓君。君は彼女に選ばれなかった……それが現実だ」


 その言葉が、僕の心の奥底に突き刺さった。


「う、嘘だ……」


 僕の顔が青ざめ、俯いてしまう。頭の中で、鈴ちゃんの笑顔が浮かんでは消えていく。


 僕の心を見透かしたかのように、瑞樹が笑い始めた。


「くくく……ははははは!」


 狂気に満ちた笑い声が屋上に響く。


「その顔だ!その顔が見たかったんだよ、僕は!」


 瑞樹の目が異様に光っている。まるで獲物を前にした肉食動物のような、恐ろしい輝きだった。


「ああ……最高だ、最高だよ!」


 彼の興奮が最高潮に達している。


「僕から雅を奪い、自分は幸せだと思い上がった君の……絶望したその顔!」


 笑い声がさらに高くなる。


「ようやく積年の思いが果たされた!今日は素晴らしい日だ……記念日にしたいくらいだね!」


 瑞樹の狂気の笑いが、雨音と雷鳴に混じって夜空に響いていた。


俯いていた僕の口元から、小さな笑い声が漏れた。


「は……はは」


 最初は小さく、やがてそれは大きくなっていく。


「おや?」


 瑞樹が僕の顔を下から覗き込むようにして問いかけてくる。


「どうしました?あまりの絶望に、気でも触れてしまいましたか?」


 彼の声には、獲物が狂った様子を見て楽しんでいるような響きがあった。


「ははははっ!」


 僕は顔を上げ、雨に打たれる空を見上げながら大きく笑い出した。


 雷が光り、その瞬間だけ屋上が青白く照らされる。笑い声が雨音に混じって響いていく。


「何がそんなにおかしいんだ?」


 瑞樹が訝しげに聞いてくる。彼の手はまだ僕の胸ぐらを掴んだままだった。


「本気で気が狂ったのか?」


「だって……」


 僕は笑いを抑えながら、彼を見つめ返す。口元にはまだ笑みが残っていた。


「おかしかったからですよ……貴方のその思い上がりが」


 瑞樹の表情が変わる。困惑から、やがて不快感へと変わっていく顔が、街灯の光で浮かび上がっていた。


「思い上がり……だと?」


「ええ」


 僕は彼の目をまっすぐに見つめる。さっきまでの絶望的な表情は消え、代わりに何か確信めいたものが宿っていた。


「ここ最近、貴方は僕を付けまわしていましたよね?」


 その言葉に、瑞樹の眉がぴくりと動く。


「ふん……それにも気づいていたのか」


 彼が鼻で笑う。


「食えない奴だ」


「じゃあ、僕の行動範囲も把握しているんですよね?」


 僕は雨に濡れた髪をかき上げながら続ける。


「僕が最も立ち寄った場所は、どこか覚えていますか?」


 瑞樹の目が細くなる。まるで試されているような気分になったのか、少し苛立ちが混じった声で答えた。


「ああ……君が立ち寄った場所は、しっかりと記憶してある」


 彼の記憶力への自信が、その口調に表れている。


「その中でも、君がお姉さんと立ち寄っていた場所は……市立記念図書館だ」


 瑞樹が得意げに答える。


「取材の一環だったんだろう?」


「ええ、そうです」


 僕は頷く。雨粒が頬を伝って落ちるのを感じながら。


「でも僕は考えたんですよ」


 声を落として、静かに語り始める。


「なぜ妹である小夏ちゃんが、偶然とはいえ……あの図書館で僕を見つけることができたのか」


 瑞樹の手に込められた力が、わずかに緩む。


「そして……貴方がどうやって鈴ちゃんと再会できたのか」


「……何が言いたい?」


 瑞樹の声に、初めて動揺が混じった。


「貴方は……あの図書館を利用していた。違いますか?」


 その問いかけに、瑞樹は何も答えなかった。ただ、僕を睨みつけている。


 雨がさらに激しくなり、二人の間に水の膜を作っていた。


「そして……そこで鈴ちゃんを見つけた」


 僕は静かに続ける。


「小夏ちゃんから聞いたんですよ。鈴ちゃんがよく通っていた場所だったという話を」


 瑞樹の顔色が変わっていくのが分かった。


 僕の頭の中で、あの日の記憶が蘇る。


 小夏ちゃんが図書館で僕を見つけたあの日。最初は何も疑問に思わなかった。でも後になって、なぜ彼女があそこにいたのか……その理由を考え始めた。


 偶然?そんなはずはない。


 僕は小夏ちゃんに事前に問いただしていた。なぜあの図書館に来たのかを。


 そして分かったんだ。鈴ちゃんが引っ越した後も、よく通っていた場所だったということが。


 僕はあの図書館の蔵書を全て調べた。貸し出し記録、利用者記録……調べられるもの全てを。


 そして見つけたんだ。鈴ちゃんの名前を。


 そして……瑞樹の名前も。


「貴方は……」


 僕の声が、雨音の中に響く。


「あそこで鈴ちゃんを待ち伏せしていたんですね」


僕は雨に濡れた顔を上げ、瑞樹の目をまっすぐに見つめた。


「知っていますか?今ではブックカードは廃止されているところが多いですが……」


 僕の声が、雨音の中に響く。


「あの記念図書館は、当時まだ昔のままの形態だったんです。個人情報の扱いが厳しくなった今では、ほとんどの場所で廃止されましたけどね」


 瑞樹の表情が、わずかに変わった。まだ余裕を保とうとしているが、その瞳の奥に動揺が見える。


「でも歴史あるあの記念図書館は、長い間、巻末のカードに名前と日付を記入しなくてはいけなかった」


 僕は静かに続ける。


「だから徹底的に調べましたよ……貴方の名前をね」


「ふん……」


 瑞樹が鼻で笑う。


「それが何だというんだ?」


 でも、その声には先ほどまでの余裕がない。


「貴方の名前を、そこで見つけました」


 僕の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「そして……鈴ちゃんの名前もね」


「鈴の名前……?」


 瑞樹が眉をひそめる。彼の手に込められた力が、わずかに弱くなった。


「ええ……ブックカードは五年ごとに再発行されるらしく、探すのはギリギリでしたけどね」


 僕は雨に打たれながら、記憶を辿るように話す。


「でもその甲斐あって、見つけることができました。彼女の名前を……」


 一拍置いて、確信を込めて言った。


「僕が小説の資料用に借りた本に、書かれていたんですよ」


 瑞樹の顔色が、さらに変わった。


「貴様が借りた本……だと?」


 苛立った様子で聞き返してくる。その声には、明らかな動揺が混じっていた。


「その名前は……鈴ちゃんが亡くなる当日にも記入されていました」


 僕の言葉に、瑞樹の体が硬直する。


「それが……」


 彼の声が震えている。


「鈴が君を選んだ証明になるとでも……?」


 瑞樹が再び手に力を込める。襟首を掴む手に、怒りが込められていた。


「うぐっ……」


 息が苦しくなるが、僕はまだ話を続けた。


「ほ、他にもありますよ……!あの図書館には、コミュニティノートがあるんです」


 顔を歪めながらも、言葉を絞り出す。


「さすがに過去のものは置いてありませんでしたが……図書館に通い詰めて、管理者から保存されていた過去のコミュニティノートも見せてもらいました」


「何を……」


 瑞樹が憎々しげに睨みつけながら聞く。「お前はそこで何を見つけたんだ……?」


 僕は息を整えながら、静かに答えた。


「『啓君……今でも、あの頃の気持ちは変わらないよ……あの頃に戻りたい』と」


 その言葉を聞いた瞬間、瑞樹の理性が完全に崩壊した。


「嘘だ!でまかせだ!」


 彼が両手で僕の胸ぐらを激しく掴む。


「鈴は俺を選んだんだ!お前じゃない!この僕だ!!」


 その必死な叫び声を聞きながら、僕はふっと笑った。


「哀れな人ですね、貴方は……」


「僕を……僕を憐れむな!」


 瑞樹が怒鳴る。その顔は雨に濡れ、怒りで歪んでいた。


「鈴ちゃんは昔から子供が好きだった」


 僕は迷いのない目で彼を捉えて言う。


「母親になることに憧れていた……そんな彼女が、中絶なんて道は選ばない。貴方は選ばれたんじゃない。選ばれた気になって、彼女を勝手に支配したと勘違いし、一人よがりな気持ちを彼女にぶつけていただけだ!」


「支配……支配じゃない!そこには愛があったんだ!」


 瑞樹が必死に叫ぶ。


「彼女はお前じゃなく、俺を選んだんだ!俺との未来を選んだんだ!いい加減なことを言うな!!」


「現実を受け止めるのは……貴方の方だ……」


 僕はさらに追い打ちをかける。


「例え支配した気になっても、人の心までは支配できないんですよ!」


「うるさいうるさいうるさいっ!!」


 瑞樹の叫び声が屋上に響く。


「そのくだらない口を閉じろ!そして死ね!今すぐここで!!」


 彼が僕を突き落とそうと、掴んだ胸ぐらを強く押した。


「ぐあっ!」


 僕の体が手すりに押し付けられる。必死に抵抗しようとするが、彼の力は想像以上に強かった。


「貴様が僕から全てを奪ったんだ!」


 瑞樹が咆哮する。


「僕の雅を!約束された輝かしい未来を!!」


 凄まじい力で、僕の体が手すりに押し付けられ、足が浮いた。


「はっ!そうだな……明日の新聞の見出しは『巨匠、取材中に足元を滑らせ転落死』なんてどうかな?」


 瑞樹の狂気の笑いが響く。


「いい感じだろ?ざまな貴様の最後にふさわしい見出しだと思わないか!」


「ふ、ふざけるな……!」


 僕は必死にもがく。しかし、瑞樹の力にはかなわない。


 いつもそうだった。


 肝心な時、僕は何もできなかった。いつも響姉に助けられ、心が砕けそうだった時も、真凛たちに支えられてばかりだった。


 そして今も、自分の力ではどうにもできない。


 だから、僕は全てを失ってきた……鈴ちゃんも救えなかった……


 けれど……


 僕は振り払おうとするが、瑞樹の力はさらに増していく。


「さよならだ、啓君」


 瑞樹が高らかに笑いながら、僕を持ち上げる。


「そうだ……次は雅を支配してあげるよ。いや、雅だけじゃない。お前に関わった全ての女をな!恨むなら自分を恨むんだな!何もできない無能な自分を!」


 その瞬間――


「あっ……」


 僕の声が漏れる。


 体は制御を失い、手すりから滑って宙へと落ちていく。


 ごめん……みんな……


 鈴ちゃん……


 僕にはこんなことしかできなかった……


 本当に……ごめん……


 僕は目を瞑った。


 体が真っ逆さまに落ちていく感覚。


 降りしきる雨の中、瑞樹の狂った笑い声だけが、夜空に響いていた。

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