第108話 雷鳴、そして邂逅
空から雷が鳴り響いた。どこか不穏な予兆のように、低く重い音が街を包み込む。
時計の針は午後6時を指していた。放課後の校舎は生徒の姿もなく、がらんと静まり返っている。僕は校門を通過し、無言のまま空を仰いだ。黒く膨れ上がった雲が空を覆い、ぽつぽつと雨が降り始める。冷たい雫が頬や肩に落ちてきた。
濡れることを気にせず、そのまま正門から校内へと進む。雨は次第に強くなり、アスファルトに大きな水玉模様を描き始めていた。でも、足は止まらない。今日のために、全てを積み重ねてきたのだから。
誰もいない昇降口。靴箱は寂しく並び、床に反響する僕の足音だけが静寂を破る。湿気を含んだ空気が鼻腔をくすぐり、窓の外では雷光が一瞬だけ周囲を照らした。
階段を一段ずつゆっくりと上る。足取りは決意に満ちているが、内心はかつてないほど重い。冷たい手すりに触れながら、ただひたすら上へ、上へと向かう。不気味に静まり返る校内。照明の切れた廊下は、暗がりを増していた。
心の中で、これまでの出来事が自然と浮かんでくる。
ふと、いつも見慣れていた教室が目に留まった。
そういえば、雅とはあんな別れ方をしたっけ……。夕暮れの教室で「彼に返事を返さなきゃ」って冷たく言われたこと、まだ覚えている。
あのときの僕は……本当に必死だった。僕の全てだったから。学校では常に目が追ってしまう存在で、一緒にいるだけで心が温かくなって、何も言わなくても理解してくれる……そんな大切な人だった。
だからこそ、「伍代雄二と付き合うことにした」という言葉は、まるで雷に打たれたような衝撃だった。
「私を物語の主人公にしてくれるって」
その言葉が、今でも胸を締め付ける。
僕が「僕は、その約束を果たすために……!」と必死に訴えても、雅は「何年待ったと思ってるの?」と言い放った。
「何年待ったと思ってるの……?」
あんなに冷たい視線を向けられたのは初めてで、ただ崩れ落ちて嗚咽することしかできなかった。気づけば彼女は別の"ヒロイン"になっていて、僕には手の届かない存在になっていた。雅の言うう通りだった。僕がちゃんと伝えていればよかったんだ。今になってその事の愚かさが、身に染みて理解できる。
葵にも、厳しいことを言われたな。「二度と話しかけないで」って。あれは、効いた……正直、相当こたえた。
「努力もしない、結果も出せない、約束も守れないヘタレ」
葵も僕に背を向け、「私も、今、告られてるんだ」という言葉を置いて去っていった。
「私たちを見ないフリしてただけでしょ?」
彼女の憤りの声は、僕の心に刺さり続けている。
でも……そのあとに賞を取ったんだよな。波木賞に載っていると父から電話があった時、ひとりきりで、ただ呆然として、笑うしかなかった。史上最年少の受賞者「蘭学事啓」として。
皮肉なことに、雅と葵との絆が切れた直後、僕の小説は認められた。あの二人のために書いた物語が、誰にも認められないまま終わるはずだったのに、思いもよらぬ形で日の目を見た。
雨の強さが増し、ガラス窓に激しく叩きつけられる。まるで、闇の中から誰かが手を伸ばしてきそうな錯覚に襲われる。それでも足を止めない。止まってしまったら、きっともう動けなくなる気がした。
伍代……あの夜のことも、今でも夢に出てくる。
雅と葵が、あんなふうにされそうになって、僕は……扉を殴ることしかできなかった。ロックがかかったカラオケルームのドアに、何度も体当たりしても開かなくて、最後は拳で殴りつけた。血が滲み、痛みが走ったけど、それでも守れなかった。
結局、最後は響姉が助けてくれた。彼女はカラオケ店の扉を強く蹴り破った。
あの時、痛感したんだ。まだ僕には、誰かを救う力なんてないんだって。一人では何もできない自分が、情けなくて、悔しくて、涙が止まらなかった。
でも唯一の救いは、このことがあって、そして伍代たちの出来事を経て──ようやく、雅と葵との誤解が解けた。あの二人を守るために奔走した僕の姿を見て、徐々に心を開いてくれたのだ。
言葉にならなかった時間が、少しずつ溶けていった。
長く凍っていた関係に、ようやく雪解けが訪れた気がした。
階段の途中で、壁に手をついて小さく息を吐く。狭い空間に響く僕の呼吸だけが、この場所に命があることを示していた。天井の蛍光灯の一部がチカチカと明滅している。雷鳴が再び轟き、僕の影を不気味に伸ばした。
真凛……あの子との出会いは、なんか不思議だったな。
出版社の長椅子で初めて会ったとき、凛とした佇まいの中にも親しみやすさがあって、一気に心を掴まれた。僕の作品をあんなふうに大切に思ってくれる人がいるなんて、思いもしなかった。
「私一応女優やってて、だけど一度この仕事辞めようか迷っていた時期があったんです」
そんな風に打ち明けてくれた彼女は、とても真摯で、心の綺麗な人だった。僕の作品を読んだことで、もう一度自分の道を信じる勇気を持てたと。
「私はこの映画に出るために女優になったんだって、そう思えるくらい運命を感じたんです!」
そんな言葉に、胸が熱くなった。自分の書いた物語が、誰かの人生を支える力になるなんて。雅や葵のためだけに書いてきたはずの小説が、知らないうちに別の誰かの光になっていた。
神楽も印象的だった。ぐいぐい来るタイプで、ちょっと押され気味だったけど、でも……あの距離感が、救いでもあった。
「先生~! 私先生の大ファンなんです!握手してください!」
いきなり両手を掴まれた時は本当に驚いた。女優と歌手という二つの顔を持ち、その才能で多くの人を魅了する彼女が、僕のような人間に心を寄せてくれるなんて。
「あ、先生照れてます?可愛いっ」
そんな風に笑われると、本当に恥ずかしくて顔が真っ赤になった。でも、彼女のそばにいると不思議と元気がもらえる気がした。
蘭子とは喫茶店だった。パパ活、なんて言葉を聞いた時は驚いたけど、あの子のまっすぐな目は、忘れられない。
「私ね、あの時本当に嬉しかったんです。先生と初めて会った時……覚えてますか?」
「高校中退して、東京に出てきたばっかりの頃、右も左も分かんなくて、夢だけ持って、どうにかなるって思ってたのに……全然ダメで。イラストの仕事も全然うまくいかなくて、お金もなくて……」
そんな風に弱さを見せてくれた彼女に、なぜか自分も救われたような気がした。
「先生の言葉、ずっと宝物です。だから……今度は私が先生の力になりたい。先生のそばにいたいんです」
いろんな人がいたな……って思う。出会えてよかった。心から、そう思う。
階段を登りきった。突き当たりのドアには「屋上立入禁止」の張り紙。僕はしばらくドアノブに手をかけたまま、目を閉じた。
最後に思い出したのは、小夏ちゃんのことだった。
新宿の雑踏の中で、偶然彼女と再会したあのとき。僕が「鈴……ちゃん?」と口にした瞬間、彼女は叫んだ。
「その名前で呼ぶな!!」
怒りと、苦しみと、必死な拒絶。あんな感情をぶつけられたのは、初めてだった。あの時の彼女の拳は強く握られ、体中が震えていた。「なんで覚えてんのよ……」という呟きが、胸に刺さった。
僕にはわかった。その感情は、間違いなく本物だった。あれが、彼女の叫びだったんだ
彼女は、ずっと探していた。瑞樹のことも、自分の過去も。鈴ちゃんという少女の死の謎を、一人で追い続けていた。
怖くても、迷っても、立ち止まらなかった。
僕が見ないふりをしていた場所に、彼女はとっくに立っていた。
震えながら差し出されたメモ帳の地図。それが、僕に進めと言ってくれているようだった。
小夏ちゃんがいたから、逃げたままだった過去に、僕はもう一度立ち向かうことができた。
あの怒鳴り声も、涙も、彼女のすべてが、僕の背中を押してくれた。
だからこそ今……僕は、もう逃げないと決めた。
僕は静かに目を開け、ドアノブを強く握った。
「……行こう」
そう小さく呟いて、ドアを開ける。冷たい雨が頬を打ち、雷が近くで光る。校舎を見下ろす高さに立ち、広がる空には黒い雲が渦巻いていた。
誰もいない屋上。雨に濡れながら、中央まで歩いていく。
髪も制服も濡れて重くなる。だが、目は伏せず、空を仰ぐ。
背後で金属音がした。ドアが開く音。
雨音に紛れるように、足音が濡れた床を踏みしめる。
僕は振り返らず、ただ前を見据えた。
心の中で静かに誓いを反芻する。「もう、誰も奪わせない」
拳をぎゅっと握る。全身に力が入るのを感じた。
背後から声がする。
「お待ちしてました……貴方を」
僕がゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、黒いレインコートの男。
天音瑞樹。にやりと笑うその口元は、闇よりも深い何かを宿していた。
「やっと会えましたね、啓くん。まさかあなた一人でここまで出歩くなんて……本当に好都合でした。この天気も、僕の味方をしてくれているようです」
低く落ち着いた声。けれど、その瞳の奥には狂気が潜んでいる。
雨は容赦なく二人の間に降り注ぎ、足元には小さな水たまりができ始めていた。遠くで再び雷鳴が響く。
もう、ずっと見ないふりをしてきた現実から、目を背けない。
僕は雨に打たれながら、静かに口を開いた。
「僕は……あなたに会いに来ました」
瑞樹の表情がわずかに変わる。
「ほう……君一人で立ち向かう……と?」
「違います」
僕は一歩、彼に近づいた。
「全てを、終わらせに来たんです」
言い終えるか終わらないかのその瞬間、目を覆うような閃光が走った。
巨大な雷が空を裂き、一瞬、屋上全体が青白い光に包まれる。
その光の中で、瑞樹と僕の影が、長く伸びて交わった。




