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第107話 最終章・たとえば今日が最後でも

 玄関の空気が、やけに静かだった。


 僕は靴を手に取りながら、ふとそのことに気づいた。いつも通りの玄関のはずなのに、今日はほんの少しだけ、その静けさが重たく感じる。


 床に膝をつき、ゆっくりと靴ひもを結ぶ。指先にほんのかすかな震えがあった。言い訳のように指を動かし直していると、背後に気配を感じた。


 ドアの向こうじゃない。家の中からの視線――。


 「今日も、小説の取材?」


 背中から聞こえてきたのは、母さんの声だった。


 振り返ると、母さんがリビングの扉に立っていた。スカートの裾をそっと握るような仕草が、少しだけ頼りなく見える。


 「うん。今日で、最後かな」


 僕はそう答えた。自然と口から出た言葉だった。


 「そう……今日、雨が降るらしいわよ?」


 「うん、確認してるよ」


 立ち上がりながら、靴をしっかり履きなおす。玄関マットの上に置かれた傘立てをちらりと見やった。


 「じゃあ、行ってくるね、母さん」


 その時、母さんの声が少しだけ柔らかくなった。


 「晩御飯……啓の大好きなロールキャベツだから」


 僕の手が、ドアノブに触れたまま止まる。


 「そっか……じゃあ早く帰ってこなきゃだね」


 口に出してみたものの、思ったより声がこわばっていた。笑ったつもりだったけど、たぶん口元が少しだけ引きつっていたと思う。


 自分でも、無理してるのが分かった。


 ドアノブは、じんわりと冷たかった。


 薄暗くなりかけた外が、目の前に広がっている。けれど、そこへ踏み出す足が、一歩だけ、どうしても動かなかった。


 「啓……」


 背中から呼びかける声がした。


 母さんの声は、小さくて、でも確かに僕を引き止めていた。


 そのまま立ち止まる。


 振り返らずに、静かに耳を澄ます。


 「ちゃんと……帰って来てね」


 僕は振り返らずに、深く息を吸い込んだ。


 「行ってきます」


 できる限り、いつも通りの声で、そう返した。


 ドアを開けた瞬間、冷たい風が頬を撫でた。夜の手前、曇り空の下、町はどこか遠く感じた。


 扉を閉める音が、やけに大きく響いた。


 外へ踏み出すと、夕方の冷たい風がすぐに頬を撫でてきた。灰色の雲が重苦しく広がり、どんよりと町を覆っている。雨が降り出すのは、そう遠くない気がした。


 一歩踏み出し、二歩、三歩と歩みを進める。アスファルトを踏みしめる音が、やけに鮮明に聞こえた。今日は特別な日なのに、不思議と心は静かだった。いや、静かというより、落ち着いている自分に少し驚いていた。


 いよいよなんだな、と空を見上げながら思う。


 そんなときだった。


 ポケットの中でスマホが震えた。立ち止まって画面を確認すると、『雅・葵』のグループチャットが表示されている。胸の奥が、ほんの少しだけ重くなった。


 覚悟していたはずなのに、いざ通話ボタンを押そうとすると、指先がわずかに震えた。


「どうしたの、二人とも?」


 できる限り穏やかな声で言ったつもりだった。


「啓……今どこにいるの?」


 葵の声に、胸が小さく揺れた。


「……」


「啓、答えて、今どこ?」


 少し間を置いて、僕はスマホを耳に押し当てたまま、口を閉じた。


 まっすぐ答えるのが怖かった。


 ……だから、別の話を始めた。まるで思い出すように、静かに口を開く。


「……鈴ちゃんの時も、そうだったんだ。大事なことを、ちゃんと伝えなかった。あの時、“可哀そうに”って言っただけで、僕は彼女を失った。それがずっと、心の奥で呪いみたいに残っててさ……それから、怖くなったんだよ」


 スマホの向こうの沈黙が、まるで冷たい雨のように張り詰めている。


 声が少し掠れた。


「でも、それでも言葉を信じたかった。もう一度信じてみたかったんだ。だから、あの時二人と約束した。賞を取って、“物語の主人公にする”って。あれは僕にとって、言葉にできた最後の勇気だったと思う」


 胸の奥が痛いほど、言葉は渋滞していた。


「その約束をどうしても守りたかった。だから必死になって書いたんだ。でも、それだけで十分だと思ってた。黙って完成させることが、何よりの誠意だって、そう信じてた」


 声が震えた。


「でも本当は……違ったんだよね。“今、書いてるよ”って、一言でよかったのに。言えばよかったんだ。伝えなきゃいけなかったんだ……それがどれだけ大事だったのか、今になってやっとわかるよ」


 葵が小さく息を吐く音が聞こえた。


「私、思ってたんだよ。ずっと。“なんで書いてくれないんだろう”って。“いつまで待てばいいの”って。でもそれって、全部、自分のことばっかりだった」


 葵の声は少し低かった。


「悔しいよ。どうして、あの時ちゃんと気づいてあげられなかったんだろうって。今さら気づいて、ほんと……悔しい」


 葵の言葉が胸に響いた。


「啓がしてたことって、そんなレベルの話じゃなかった。ただ物語を書いてたんじゃない。たった一人しか選ばれない場所を、真剣に目指してた。しかも、それを……私たちのために、ずっと、ひとりで」


 雅が続けるように言った。


「私もそう。“信じてたつもりだった”なんて、もう言えない。あの頃、啓が何を背負ってたのか、何も知らなかった。知ろうともしなかった。目を背けてただけだった」


 雅の声は震えていた。


「あの時言ってくれたその約束のために……あんな賞を、本当に取っちゃったんだよね……。子供の頃の、たった一つの約束を守るために……普通は一生に一人も選ばれない場所に、自分から挑んで、登って、ちゃんと結果を出して……」


 雅の言葉が胸を締め付ける。


「約束を守るために、そこまでしてくれたのに……私は何も返せてなかった。“待ってる”って言えば聞こえはいいけど、実際はただ立ち止まってただけだったんだと思う」


 以前よりも深い二人の謝罪を聞いて、言葉が出なかった。


 それでも胸の奥が熱くなった。


「……謝らなくていいよ」


 一度言いかけて、すぐ首を横に振った。


「……いや、やっぱり違う。こんな言い方じゃダメだ……そうじゃない。“ごめん”って言うのは、僕の方なんだ」


「え……?」


 葵の戸惑った声。


「勝手だった。黙って書いて、勝手に完成させて、満足してた。約束を守ったつもりになってたんだ。余計な事さえ言わなければ、今度こそ嫌われたりしないなんて勝手に思い込んで……でもそれ、自己満足だったんだよね。ちゃんと向き合ってなかった」


 スマホ越しの沈黙。


「“言えばよかった”って、あれ、ほんとなんだ。僕の中ではずっと、言葉って怖いものだったけど……二人が今言ってくれて、ようやく僕も素直に言える……やっぱり情けないな……僕」


 静かに胸の奥で確かめるように、言葉を口にする。


「信じてたって言ってくれて、ありがとう。それだけで、もう十分だよ」


 ほんの少し、葵が笑った。


「ずるいよ、それ」


「やっぱり、啓はどこまでいっても啓ね」


 雅も微かに笑っていた。


「なんだよそれ……でもさ、今こうして言葉を交わせてよかった。ずっと引っかかってたことだったから……」


 通話が途切れることなく続いていた。静かで、でもどこか温かい沈黙がそこにあった。


「……啓、今……外にいるのよね?」


 雅の声が、ふと変わった気がした。鋭くも優しくもない、ただまっすぐな気配。その声に、目を閉じると自然と、昔の雅が思い浮かんだ。ああ、やっぱり、彼女はよく見てる。


 その問いには、何も返さなかった。


「……寒くない?今日は、雨が降るかもって……」


 葵の声が続く。


「うん、大丈夫」


 そう返して、空を見上げた。雲は低く、冷たい風が頬をなでていく。けれど、心の中はさっきよりほんの少しだけ、温かかった。


 また少しの沈黙。


 でも、その向こうには、言葉にできない気持ちが漂っている気がした。


「……啓」


 葵の声がそっと呼びかけてきた。


 ほんの少しだけ、息を呑むような間があって——


「……ちゃんと、帰ってくるんだよね?」


 問いというより、それは祈りに近かった。


 続けるように、雅が静かに言う。


「……どこへ行くのか、聞いても……きっと教えてくれないって、分かってる。でも……」


「啓の“ただいま”が、聞きたいの」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


 言葉を探す。何を言っても、きっとそれだけじゃ真実にはならない。でも、それでも言葉にしなきゃいけないものもある。


 何か、もっと別の言葉を選べたかもしれない。でも、これしか思いつかなかった。


 嘘じゃない。ただ、真実だけでは足りない気がした。


「……母さん、言ってたんだ。晩御飯、ロールキャベツにするって」


 一拍、二拍。


 少し意外そうな沈黙が流れたあと——


「冷めないうちに、帰らなきゃ……ね」


 スマホ越しに、どちらかが小さく笑った気がした。鼻をすする音も、もう一度聞こえた。


 僕はスマホを見つめたまま、そっと言った。


「……ありがとう。じゃあ、また」


 そして通話を切り、スマホをポケットにしまった。


 その言葉が、胸の奥に静かに残っていた。


 “じゃあ、また”――それが、本当の最後かもしれないと、どこかで思っていた。


 けれど、言えてよかった。そう思いたかった。そう思うことで、心がほんの少しだけ軽くなる気がした。


 この日のために、全部積み重ねてきた。


 逃げたくなるたびに、思い出してきた人たちがいる。


 ただ信じて、言葉を待ってくれた人たちがいた。


 その顔を思い出すだけで、足が止まりそうになる。


 雅。葵。神楽。真凛。蘭子。


 ぶつかって、離れて、それでも、ずっと背中を押してくれた。


 小夏。早苗。


 痛みを知りながら、それでも向き合い続けてくれた。


 響姉。母さん。


 疑いも、不安も、全部飲み込んで、それでも僕の選んだ道を、黙って見守ってくれた。


 ──一度は全部失った僕が、


 こんなにも大切な人たちに囲まれて、


 こうして、また“前に進もう”としている。


 それが、少しだけ誇らしかった。


 何もかも怖くないなんて言えない。


 でも、もう逃げない。


 すべてを決する時が来た。


 見慣れた道を歩き続けていくうちに、徐々に目の前にあの建物が姿を現しはじめた。


 曇り空の下、静かにその輪郭を浮かび上がらせている学校。


 人影はないけれど、その存在感は確かにそこにあった。


 ここが、最後の舞台だ。


 この場所で、すべてが終わる。すべてを、終わらせる。


 僕はゆっくりと足を進めた。


 迷いがなかったわけじゃない。


 でも、それでも、立ち止まらないと決めた。


 胸の奥がじんわりと熱くなっていく。鼓動が強くなるのが、自分でもわかる。


 足音がアスファルトに淡く響く。


 冷たい風がジャケットの裾を揺らす。


 校門の前で、僕はほんの少しだけ立ち止まった。


 空は変わらず灰色で、雲の流れだけが静かに動いていた。


 目を閉じて、小さく息を吐く。


 鈴ちゃん。


 僕は、今——


 「鈴ちゃん……待ってて、今……行くから」


 声は誰にも届かないけれど、確かに自分に向けたものだった。

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